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十四年間「ありがとう」のない婚約を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 代わりに頼める人

 婚約を解消して、一週間が経った。


 一週間。たった七日だ。なのに、もう随分昔のことのように感じる。毎日がブルーノさまの予定で埋まっていた頃は、一週間が一日のように過ぎた。今は一日が一週間くらいの厚みを持っている。


 何もしていないわけではない。領地の秋仕事を手伝ったり、リーゼと庭の手入れをしたり、久しぶりに母の刺繍を教わったりした。ただ、それが誰かに「わかってくれるよね」と頼まれた仕事ではないというだけで、時間の流れ方がまるで違う。


 そんな朝、ゲルダからの手紙が届いた。


 封筒が分厚い。ゲルダの手紙は、内容に比例して厚くなる。つまり、書きたいことが山ほどあるということだ。


 私は窓際の椅子に座って、封を切った。


『ネリーへ


 あんた、やっと目が覚めたのね。十四年かかったけど、遅すぎるなんて言わないわ。私がどれだけ「それおかしいよ」って言ったか覚えてる? 覚えてないでしょ。数えてなかったもの、私は。あんたみたいに律儀じゃないから。


 で、あっちは早速大変みたいよ。


 まずヘルマン子爵家のお茶会。あんたが代理で出るはずだったやつ。ブルーノは馬術大会に出てて忘れてたらしいわ。当日、侯爵家から誰も来なかった。子爵夫人が「侮辱だ」って怒ってるって。まあそうなるわよね。お茶会のすっぽかしなんて、社交界じゃ宣戦布告と同じよ。


 次。秋の季節の挨拶状。出してないの。贈り物も届いてないの。五家分。あんたが毎年やってたやつ。ブルーノはたぶん、あの贈り物が勝手に届くものだと思ってたんじゃない? 木から果物が落ちてくるみたいに。


 「今年のリンドベルク侯爵家は礼儀がなっていない」って、もう噂になってる。一週間よ? あんたがいなくなって、たった一週間でこれ。


 笑っちゃうでしょ。でもまだ序の口。いい? ここからが本題。


 ブルーノが、ペトラに頼んだの。「茶会に代わりに出てくれないか」って。


 あのペトラよ。メルツァー子爵家の。社交がうまくて顔が広いから、ブルーノは「ネリーの代わりに頼める」と思ったらしいわ。


 結果?


 「私はあなたの便利屋ではありません」


 一発で断られたって。しかもペトラ、事情を聞いて呆れてたらしいわ。「ネリーさんが一人であれもこれもやっていたんですか? 信じられない」って。


 あんた、よかったわね。世界にはまともな人もいるのよ。


 長くなったけど、要するにあっちは火の車。あんたは気にしなくていいからね。自分のことだけ考えなさい。十四年分、取り返すのよ。


               ゲルダ


 追伸:ジャガイモのグラタン食べたって聞いたわ。あんた好きだったもんね、あれ。いっぱい食べなさい。』


 ◇


 手紙を膝に置いて、しばらく動けなかった。


 ゲルダの手紙はいつもこうだ。率直で、毒があって、でも最後には必ず私の味方でいてくれる。この子だけは、ずっと「それおかしいよ」と言い続けてくれていた。私が聞かなかっただけだ。


 ──ペトラが断った。


 その一文が、胸の奥にじわりと広がっている。


 安堵、だろうか。代わりがいなかったことへの安堵。私がやっていたことは、誰にでもできる仕事ではなかったのだという証明。


 でも同時に、小さな棘が刺さる。


 ペトラは一回で断ったのだ。「便利屋ではありません」と。当然の言葉を、当然の温度で。


 私は三十七回、断れなかった。


 一回で断れる人がいるのに、私は三十七回かかった。ペトラがおかしいのではない。私が異常だったのだ。八歳のあの日、花瓶の嘘を引き受けたときから、十四年間ずっと。


 ──でも。


 三十七回目で、断った。遅すぎたけれど、断った。ゲルダも「遅すぎるなんて言わない」と書いてくれた。なら、今さら自分を責めるのはやめよう。


 手紙を畳んで、机の引き出しにしまう。ブルーノさまの失態を聞いて、胸がすっとしなかったと言えば嘘になる。ヘルマン子爵家の茶会、私が何度代理で出たと思っているのだ。子爵夫人のバラの砂糖漬け、夫人の末のお嬢様の猫アレルギー、客間に飾るなら白い花がいいこと。全部覚えている。全部、私が覚えていた。


 でもそこに長く浸っていたくはなかった。あの人の心配をする義理は、もうない。あの人の失敗は、もう私の問題ではない。


 私は窓を開けた。秋の風が入ってくる。干し草と、どこかで焼いているパンの匂い。


 ──そうだ。収穫祭がある。


 ◇


 ゼーリヒ領の秋の収穫祭は、領民たちが自分たちで準備する小さな祭りだ。侯爵家の慈善茶会とは比べものにならない規模だけれど、だからこそ温かい。


 私は昨日、領地の管理人に「何かお手伝いできることはありませんか」と申し出ていた。


 管理人は少し驚いた顔をして、それから笑って言った。


「それはありがたい。荷運びの人手がいつも足りないんです。お願いできますか」


 「お願いできますか」。


 「わかってくれるよね」ではなく、「お願いできますか」。頼み方が違うだけで、こんなにも気持ちが違うのだと、この年になって初めて知った。


 翌朝、私は動きやすい服に着替えて、祭りの会場に向かった。手帳には「収穫祭の手伝い」と書いてある。自分で書いた予定だ。誰に頼まれたのでもない。


 会場は広場に面した空き地で、領民たちがテントを張ったり、台を組んだり、荷物を運んだりしていた。私は指示を聞いて、言われた場所に樽を運び、テーブルに布を敷き、飾りの花を瓶に挿した。


 汗をかいた。普段しない力仕事だから、腕がぱんぱんに張っている。でも、嫌ではなかった。


 途中、飾り花の色合わせを相談された。領民の女性が赤と黄色の花を持って、「どっちがいいかしら」と首をかしげている。


「両方使いませんか。赤を手前に、黄色を奥に入れると、遠くからでも明るく見えます」


 言ってから、はっとした。これは侯爵家の慈善茶会で覚えた配色の知識だ。ブルーノさまのために磨いた技が、ここでこんなふうに役に立つ。


 あの十四年間は無駄ではなかった──とまでは、まだ思えない。でも、あの時間で身につけたものを、今度は自分の意思で使えるのだと思ったら、少しだけ胸が軽くなった。


 侯爵家の茶会は、失敗すればブルーノさまの評判に傷がつく。招待客の機嫌を損ねれば、ネリーの段取りが悪いと言われる。いつも胃の底が冷たかった。


 ここには、それがない。花の順番を間違えたって、誰も怒らない。


 花を挿し終えた瓶を見て、さっきの女性が「まあ、本当にきれい」と声を上げた。「お嬢様、センスがおありだわ」。


 お嬢様と呼ばれるのは少し気恥ずかしかったけれど、「ありがとう」と言ってもらえたのは、素直にうれしかった。


 ◇


 夕方近く、荷物を運ぶ手が足りなくなって、広場の端まで木箱を取りに行った。


 重い。両手で抱えて、少しよろめく。


 ──と、視界の隅に、見慣れない人影が立っていた。


 広場の外れ。石壁にもたれるようにして、腕を組んでいる男の人。背が高い。日に焼けた肌。動きやすそうな旅装だけれど、胸元に光る紋章が目に入った。


 近衛の紋章だ。


 こんな辺境の領地に、なぜ近衛騎士が?


 その人は祭りの準備を眺めていた。手伝うでもなく、話しかけるでもなく、ただ静かに見ている。でも、退屈そうな顔ではなかった。どちらかといえば──穏やかな目をしていた。


 目が合った。


 一瞬だけ。向こうは軽く会釈をして、すぐに視線を広場に戻した。


 私も木箱を抱え直して、広場へ歩き出した。足元の土が柔らかい。さっきまで雨が降っていたらしく、靴の底に湿った土が張りつく。侯爵家ならこんな靴で出歩くことはなかった。でも今は、土のついた靴がなんだか心地いい。


 ──別に気になったわけではない。近衛騎士がゼーリヒ領にいること自体は、任地の移動の途中かもしれないし、不思議ではない。


 ただ、あの人は「わかってくれるよね」という顔をしていなかった。何かを頼みたそうでもなく、何かを求めているふうでもなく、ただそこにいた。


 それだけのことが、なんとなく印象に残った。


 木箱をテーブルの上に下ろす。中身はリンゴだった。赤くて、小さくて、少しいびつな形をしている。侯爵家の食卓に並ぶような立派なリンゴではない。でも、手に取ると温かかった。日向に置いてあったのだろう。


 明日の祭りが、少しだけ楽しみになっていた。

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