第2話 「わかりました」が最後の仕事
熱は一晩で引いた。
昨日までの三十八度が嘘のように、体は軽い。いや、体だけではない。頭の中まで、すうっと風が通ったように澄んでいる。
鏡を見ると、顔色はまだ悪い。目の下に薄い隈が残っている。でも、目だけは妙にはっきりしていた。自分でも見たことのないくらい、はっきりした目をしていた。
支度を整えながら、リーゼが心配そうに言う。
「お出かけになるのですか。まだお体が」
「大丈夫。今日行かなきゃいけないの」
今日でなければ、きっと行けなくなる。一晩寝て、目が覚めて、「やっぱりあの手紙は熱のせいでした」と取り消してしまう自分が、頭の隅にちらついていたから。
リーゼは何も聞かなかった。ただ、いつもより丁寧に髪を結んでくれた。
◇
リンドベルク侯爵家の応接室に通されるまで、十五分待たされた。
いつものことだ。ネリーが来ても、ブルーノさまはすぐには出てこない。「ちょっと待って」の「ちょっと」が十五分で済めばいい方で、三十分を超えることもある。以前は、その間に侯爵家の使用人と世間話をして、各家の近況を仕入れていた。ブルーノさまの社交に使えそうな情報を、待ち時間で集めていたのだ。
今日はただ、座っていた。出された紅茶に口をつけ、少し冷めたな、と思っただけだった。
膝の上の書類の束が、ずしりと重い。今朝、熱が引いてすぐに書き上げた。手帳を開いて、ブルーノさまのためにやっていたことを一つずつ書き出すと、便箋が四枚では足りなかった。
十五分後、ブルーノさまが現れた。寝起きだった。髪が少し乱れていて、目がとろんとしている。午前中に寝起きということは、今日も予定がないのだろう。予定は全部、私が管理していたのだから。
「ネリー! 昨日の手紙、驚いたよ」
ブルーノさまは笑っていた。困った顔ではなく、本当に笑っていた。面白いものを見たときの、あの屈託のない顔。
「熱で朦朧としてたんだろ? 気にしてないから。ヘルマン子爵家の茶会は、まあ、なんとかなるだろ」
なんとかなるだろ。この人の口癖だ。なんとかなったためしはない。なんとかしてきたのは全部、私だ。
「ブルーノさま」
「ん?」
「婚約を解消させていただきたいのです」
紅茶の湯気が、ブルーノさまと私の間で揺れていた。
ブルーノさまの顔から、笑みが消えた。消えたと思ったら、すぐに戻った。今度は困惑した笑みだった。
「……え? 何言ってるんだ?」
「婚約を解消させていただきたいのです」
同じ言葉をもう一度。同じ温度で、同じ速さで。
「いや、ちょっと待って。何が不満なんだ? 言ってくれればいいのに。僕だって──」
ブルーノさまが身を乗り出す。その仕草を、私は十四年分知っている。次に来る言葉も。
「わかってくれると思って──」
「その言葉を」
私は遮った。穏やかに。でも、はっきりと。
「その言葉を、何回おっしゃったか、ご存知ですか」
ブルーノさまが止まった。口を開けたまま、瞬きを二回した。
「……何回、って?」
「三十七回です」
沈黙が降りた。紅茶の湯気も止まったように見えた。
「三十七回、ブルーノさまは私に『わかってくれるよね』とおっしゃいました。私は三十七回、『わかりました』とお答えしました」
ブルーノさまは何も言わなかった。数字が大きすぎて、実感できていないのだろう。三十七。この人にとっては何の意味もない数字だ。私にとっては、十四年間の重さのすべてだった。
「一度も、『ありがとう』はありませんでした」
ブルーノさまの目が揺れた。何か言おうとして、言葉が見つからないようだった。この人が言葉に詰まるのを見たのは、初めてかもしれない。普段は何も考えずに口から言葉が出てくる人だから。
やがてブルーノさまは、困った顔で笑った。
「そんなに怒ってたのか。言ってくれればよかったのに」
──言ってくれれば。
ああ、この人はそう言うのだ。言わなかった私が悪いのだと。三十七回頼んでおいて、一度も相手の顔色を見なかった人が、「言ってくれれば」と。
怒りが喉の奥を焼いたけれど、声には出さなかった。出しても伝わらない。十四年かけて、それはよくわかった。
「婚約解消の手続きについて、整理してまいりました」
私は持ってきた書類を卓上に広げた。両家の家長の同意に必要な書面の下書き。社交界への通知の文面。侯爵家での私の仕事の引き継ぎ書──来月の予定、各家への贈り物の手配状況、秋の慈善茶会の進捗。
ブルーノさまは書類の量を見て、二度目の沈黙に落ちた。
「ブルーノさまのお手を煩わせないよう、すべて準備してあります。必要な署名の箇所には付箋をつけてあります」
我ながら、と思う。婚約を解消するのにも、相手の手間を省いてあげているのだ。染みついた習慣は、一晩では抜けない。
「……最後のお仕事です」
皮肉のつもりはなかった。本当に、これが最後の仕事だった。十四年間、ブルーノさまのために動いてきた手が、ブルーノさまのために作る最後の書類。
ブルーノさまは書類に目を落としたまま、ぽつりと言った。
「ネリー、本気なのか」
「はい」
「……少し考えさせてくれないか」
「お気持ちはわかります。ですが、私の気持ちは変わりません」
私が帰った後、ブルーノさまが側近に何を言ったか。それは翌日、侯爵家の使用人から回り回って聞こえてきた。
「少し頭を冷やしたら戻ってくるだろ。ネリーはそういう子だから」
──そういう子。
そうだった。私はずっと「そういう子」だった。怒らない子。断らない子。何でもわかってくれる子。
でも、もう「そういう子」はいない。昨日の夜、高熱の中で五文字を書き換えた瞬間に、十四年分の「そういう子」は、便箋の上で死んだのだ。
◇
父に会ったのは、侯爵家から戻ったその日の夕方だった。
書斎に入ると、父はいつものように窓際の椅子で書き物をしていた。私が「お話があります」と言うと、ペンを置いて、こちらを見た。
「婚約の解消を、お許しいただけないでしょうか」
父は黙って聞いていた。理由は聞かなかった。経緯も聞かなかった。ただ、少しだけ目を伏せて、それから言った。
「お前が決めたなら」
それだけだった。
でも、そのひと言には、三十七回分の重さが含まれていた気がした。
父は知っていたのだと思う。全部ではなくても、薄々は。私がブルーノさまに何をしてきたか。私が何を我慢してきたか。知っていて、私が自分で決めるのを待っていたのだろう。
書斎を出るとき、背中に父の声が追いかけてきた。
「ネリー」
「はい」
「今日の夕食は、お前の好きなものにしよう」
──私の好きなもの。
侯爵家の食卓では、いつもブルーノさまの好みに合わせていた。嫌いなものも「おいしいですね」と笑って食べた。自分の好きなものを頼んだことは、一度もなかった。
「……ジャガイモのグラタンが、食べたいです」
声が少し震えた。こんなことで泣きそうになる自分が、おかしかった。
◇
その夜、自室で手帳を開いた。
来週の予定。ブルーノさまの代理で出席する茶会が二件。侯爵家への報告の手紙が一通。秋の慈善茶会の招待客リストの最終確認。グラーフ伯爵家へのお礼の訪問。
全部、線を引いて消した。
一本、一本、丁寧に。
消し終えると、来週は真っ白だった。来月も。その先も。ブルーノさまの用事で埋め尽くされていた手帳が、見渡す限りの白紙になっていた。
線を引いた跡だけが、うっすらと残っている。消えた文字の痕跡。十四年間の影。
自由だ。
手帳を膝に置いて、ぼんやりと白いページを見つめる。
自由だ。でも、白紙は少しだけ怖い。何を書けばいいのかわからない。ブルーノさまの予定を書く以外に、この手帳の使い方を知らない。
二十二年間、「わかりました」と答えることが私の予定だった。「わかりません」と答えた先に何があるのか、まだ何も見えない。
でも──
見えないことが、嫌ではなかった。
白紙のページに指を滑らせる。ざらりとした紙の感触。ここに、明日から私が自分で選んだことを書いていく。何を書くかは、まだわからない。
わからないけれど、それでいい。
「わかりません」のその先は、自分で見つけるものだ。




