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十四年間「ありがとう」のない婚約を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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第2話 「わかりました」が最後の仕事

 熱は一晩で引いた。


 昨日までの三十八度が嘘のように、体は軽い。いや、体だけではない。頭の中まで、すうっと風が通ったように澄んでいる。


 鏡を見ると、顔色はまだ悪い。目の下に薄い隈が残っている。でも、目だけは妙にはっきりしていた。自分でも見たことのないくらい、はっきりした目をしていた。


 支度を整えながら、リーゼが心配そうに言う。


「お出かけになるのですか。まだお体が」


「大丈夫。今日行かなきゃいけないの」


 今日でなければ、きっと行けなくなる。一晩寝て、目が覚めて、「やっぱりあの手紙は熱のせいでした」と取り消してしまう自分が、頭の隅にちらついていたから。


 リーゼは何も聞かなかった。ただ、いつもより丁寧に髪を結んでくれた。


 ◇


 リンドベルク侯爵家の応接室に通されるまで、十五分待たされた。


 いつものことだ。ネリーが来ても、ブルーノさまはすぐには出てこない。「ちょっと待って」の「ちょっと」が十五分で済めばいい方で、三十分を超えることもある。以前は、その間に侯爵家の使用人と世間話をして、各家の近況を仕入れていた。ブルーノさまの社交に使えそうな情報を、待ち時間で集めていたのだ。


 今日はただ、座っていた。出された紅茶に口をつけ、少し冷めたな、と思っただけだった。


 膝の上の書類の束が、ずしりと重い。今朝、熱が引いてすぐに書き上げた。手帳を開いて、ブルーノさまのためにやっていたことを一つずつ書き出すと、便箋が四枚では足りなかった。


 十五分後、ブルーノさまが現れた。寝起きだった。髪が少し乱れていて、目がとろんとしている。午前中に寝起きということは、今日も予定がないのだろう。予定は全部、私が管理していたのだから。


「ネリー! 昨日の手紙、驚いたよ」


 ブルーノさまは笑っていた。困った顔ではなく、本当に笑っていた。面白いものを見たときの、あの屈託のない顔。


「熱で朦朧としてたんだろ? 気にしてないから。ヘルマン子爵家の茶会は、まあ、なんとかなるだろ」


 なんとかなるだろ。この人の口癖だ。なんとかなったためしはない。なんとかしてきたのは全部、私だ。


「ブルーノさま」


「ん?」


「婚約を解消させていただきたいのです」


 紅茶の湯気が、ブルーノさまと私の間で揺れていた。


 ブルーノさまの顔から、笑みが消えた。消えたと思ったら、すぐに戻った。今度は困惑した笑みだった。


「……え? 何言ってるんだ?」


「婚約を解消させていただきたいのです」


 同じ言葉をもう一度。同じ温度で、同じ速さで。


「いや、ちょっと待って。何が不満なんだ? 言ってくれればいいのに。僕だって──」


 ブルーノさまが身を乗り出す。その仕草を、私は十四年分知っている。次に来る言葉も。


「わかってくれると思って──」


「その言葉を」


 私は遮った。穏やかに。でも、はっきりと。


「その言葉を、何回おっしゃったか、ご存知ですか」


 ブルーノさまが止まった。口を開けたまま、瞬きを二回した。


「……何回、って?」


「三十七回です」


 沈黙が降りた。紅茶の湯気も止まったように見えた。


「三十七回、ブルーノさまは私に『わかってくれるよね』とおっしゃいました。私は三十七回、『わかりました』とお答えしました」


 ブルーノさまは何も言わなかった。数字が大きすぎて、実感できていないのだろう。三十七。この人にとっては何の意味もない数字だ。私にとっては、十四年間の重さのすべてだった。


「一度も、『ありがとう』はありませんでした」


 ブルーノさまの目が揺れた。何か言おうとして、言葉が見つからないようだった。この人が言葉に詰まるのを見たのは、初めてかもしれない。普段は何も考えずに口から言葉が出てくる人だから。


 やがてブルーノさまは、困った顔で笑った。


「そんなに怒ってたのか。言ってくれればよかったのに」


 ──言ってくれれば。


 ああ、この人はそう言うのだ。言わなかった私が悪いのだと。三十七回頼んでおいて、一度も相手の顔色を見なかった人が、「言ってくれれば」と。


 怒りが喉の奥を焼いたけれど、声には出さなかった。出しても伝わらない。十四年かけて、それはよくわかった。


「婚約解消の手続きについて、整理してまいりました」


 私は持ってきた書類を卓上に広げた。両家の家長の同意に必要な書面の下書き。社交界への通知の文面。侯爵家での私の仕事の引き継ぎ書──来月の予定、各家への贈り物の手配状況、秋の慈善茶会の進捗。


 ブルーノさまは書類の量を見て、二度目の沈黙に落ちた。


「ブルーノさまのお手を煩わせないよう、すべて準備してあります。必要な署名の箇所には付箋をつけてあります」


 我ながら、と思う。婚約を解消するのにも、相手の手間を省いてあげているのだ。染みついた習慣は、一晩では抜けない。


「……最後のお仕事です」


 皮肉のつもりはなかった。本当に、これが最後の仕事だった。十四年間、ブルーノさまのために動いてきた手が、ブルーノさまのために作る最後の書類。


 ブルーノさまは書類に目を落としたまま、ぽつりと言った。


「ネリー、本気なのか」


「はい」


「……少し考えさせてくれないか」


「お気持ちはわかります。ですが、私の気持ちは変わりません」


 私が帰った後、ブルーノさまが側近に何を言ったか。それは翌日、侯爵家の使用人から回り回って聞こえてきた。


「少し頭を冷やしたら戻ってくるだろ。ネリーはそういう子だから」


 ──そういう子。


 そうだった。私はずっと「そういう子」だった。怒らない子。断らない子。何でもわかってくれる子。


 でも、もう「そういう子」はいない。昨日の夜、高熱の中で五文字を書き換えた瞬間に、十四年分の「そういう子」は、便箋の上で死んだのだ。


 ◇


 父に会ったのは、侯爵家から戻ったその日の夕方だった。


 書斎に入ると、父はいつものように窓際の椅子で書き物をしていた。私が「お話があります」と言うと、ペンを置いて、こちらを見た。


「婚約の解消を、お許しいただけないでしょうか」


 父は黙って聞いていた。理由は聞かなかった。経緯も聞かなかった。ただ、少しだけ目を伏せて、それから言った。


「お前が決めたなら」


 それだけだった。


 でも、そのひと言には、三十七回分の重さが含まれていた気がした。


 父は知っていたのだと思う。全部ではなくても、薄々は。私がブルーノさまに何をしてきたか。私が何を我慢してきたか。知っていて、私が自分で決めるのを待っていたのだろう。


 書斎を出るとき、背中に父の声が追いかけてきた。


「ネリー」


「はい」


「今日の夕食は、お前の好きなものにしよう」


 ──私の好きなもの。


 侯爵家の食卓では、いつもブルーノさまの好みに合わせていた。嫌いなものも「おいしいですね」と笑って食べた。自分の好きなものを頼んだことは、一度もなかった。


「……ジャガイモのグラタンが、食べたいです」


 声が少し震えた。こんなことで泣きそうになる自分が、おかしかった。


 ◇


 その夜、自室で手帳を開いた。


 来週の予定。ブルーノさまの代理で出席する茶会が二件。侯爵家への報告の手紙が一通。秋の慈善茶会の招待客リストの最終確認。グラーフ伯爵家へのお礼の訪問。


 全部、線を引いて消した。


 一本、一本、丁寧に。


 消し終えると、来週は真っ白だった。来月も。その先も。ブルーノさまの用事で埋め尽くされていた手帳が、見渡す限りの白紙になっていた。


 線を引いた跡だけが、うっすらと残っている。消えた文字の痕跡。十四年間の影。


 自由だ。


 手帳を膝に置いて、ぼんやりと白いページを見つめる。


 自由だ。でも、白紙は少しだけ怖い。何を書けばいいのかわからない。ブルーノさまの予定を書く以外に、この手帳の使い方を知らない。


 二十二年間、「わかりました」と答えることが私の予定だった。「わかりません」と答えた先に何があるのか、まだ何も見えない。


 でも──


 見えないことが、嫌ではなかった。


 白紙のページに指を滑らせる。ざらりとした紙の感触。ここに、明日から私が自分で選んだことを書いていく。何を書くかは、まだわからない。


 わからないけれど、それでいい。


「わかりません」のその先は、自分で見つけるものだ。

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