第1話 三十七回目の手紙
熱が三十八度を超えると、天井の木目が勝手に動き出す。
そのことに気づいたのは、今日で三度目だった。一度目は十二歳のとき、二度目は去年の冬。そして三度目の今夜、私は寝台に沈んだまま、渦を巻く木目をぼんやり見つめていた。
侍女のリーゼが額の布を替えてくれる。冷たくて気持ちがいい。このまま眠りたい。明日のことは、明日考えればいい。
──そう思った矢先に、扉を叩く音がした。
「ネリーさま、お手紙でございます」
リーゼの声が遠い。耳の奥に膜が張ったようで、音がまっすぐ届かない。
「……誰から」
「リンドベルク侯爵家の、ブルーノさまから」
ああ、と思った。
ブルーノさまか。
封を切るまでもなく、中身はだいたいわかる。何かを頼まれるのだ。「わかってくれるよね」という言葉つきで。
──今日くらいは違うかもしれない。体調を気遣う一言くらい、あるかもしれない。
そんな期待が、十四年経ってまだ消えていないことに、自分で呆れた。
手紙を開く。
『ネリーへ
明日のヘルマン子爵家のお茶会、急だけど僕は馬術の大会に出ることになった。代わりに出席してもらえるかな。ヘルマン子爵夫人はバラの砂糖漬けが好きだから、持っていってくれると助かる。
わかってくれるよね。
ブルーノ』
一行目から最後まで、体調を気遣う言葉はなかった。
──ああ、やっぱり。
やっぱり、なかった。
枕に顔をうずめる。額の冷たい布がずれて、頬に張りついた。それを直す気力もない。
三十七回目だ。
三十七回。私はこの人の「わかってくれるよね」を数えている。自分でもおかしいと思う。なぜ数え始めたのか、いつから数えていたのか、正確には思い出せない。
ただ気がついたら、一回、二回、と心の端で数字が増えていた。
◇
最初は八歳のとき。
ブルーノさまが侯爵家の廊下で花瓶を割った。青い花瓶だった。先代侯爵がよその国から取り寄せた品で、侍女たちが顔を真っ青にしていた。
ブルーノさまは私の手を取って、まっすぐな目で言った。
「僕がやったって言わないで。わかってくれるよね」
八歳の私は頷いた。婚約者の頼みだから。そういうものだと思ったから。
花瓶を割ったのは私だということになった。マルタさま──侯爵夫人に叱られたのも私だった。ブルーノさまは隣の部屋で、何事もなかったようにお菓子を食べていた。
それが一回目。
十五歳。社交界デビューの夜。
新しいドレスを着て、初めての夜会に胸を躍らせていた。ブルーノさまと一緒に各家へ挨拶に回るはずだった。
「ごめん、シュトラウス伯爵家のエルザと先に踊る約束しちゃったんだ。挨拶回り、先にやっておいてくれる? わかってくれるよね」
私はその夜、一人で十二の家に挨拶をした。足が痛かった。新しい靴は、踊るために選んだものだった。
一度も踊らなかった。
十八歳。
ブルーノさまがグラーフ伯爵家の当主に失礼を働いた。何を言ったのかは本人も覚えていなかった。覚えていないようなことを、人前で平気で口にできるのが、この人のすごいところだと今なら思う。
「ネリー、あの人怒ってるらしいんだけど、僕が行くと余計こじれるから、君から謝っておいてくれないかな。わかってくれるよね」
グラーフ伯爵は厳格な人だった。私は三度訪問し、二度門前払いされ、三度目にようやく応接室に通してもらえた。お詫びの品を選び、手紙を添え、伯爵の愛犬の名前を覚えて帰った。
ブルーノさまは「解決したんだ、よかった」とだけ言った。
二十歳。
侯爵家の秋の慈善茶会。招待客の選定、座席の配置、料理の手配、各家の食事の好み、お土産の用意。前年まで侯爵夫人のマルタさまが取り仕切っていたが、体調を崩されたとかで──
「ネリーならできるよね。わかってくれるよね」
できた。できてしまった。それがよくなかった。翌年からは当然のように私の仕事になった。
二十一歳。季節の贈り物を五家分。各家の好みに合わせて選び、包み、届ける日取りを調整し、返礼の手紙の下書きまで私がした。ブルーノさまは、誰に何を贈ったのかすら知らない。
その年の冬の夜会で、ある伯爵夫人がブルーノさまに言った。
「あら、ブルーノさま。先日は素敵な贈り物をありがとう。うちの娘の好きなスミレの砂糖漬け、よく覚えていてくださったのね」
ブルーノさまは、にっこり笑って答えた。
「お嬢様のお好みですからね」
知らないくせに。私が選んだのに。
笑顔のまま、奥歯を噛んだ。あの瞬間の歯の裏の痛みを、私はまだ覚えている。
二十二歳。つい先月のことだ。
ブルーノさまの友人の結婚祝いの席で、私はブルーノさまの隣にいた。新郎の友人として出席しているのだから、当然私も同席する。
新婦が挨拶の中で夫に言った。「いつも支えてくれて、ありがとう」と。
普通の言葉だ。結婚式では誰もが口にする、ありふれた言葉。
──なのに、胸の底が冷たくなった。
ブルーノさまは隣で楽しそうに拍手していた。その横顔を見ながら、私は思った。この人の口からあの言葉を聞いたことが、一度もない。一度も。
帰りの馬車で、私はなんとなく聞いてみた。
「ブルーノさま、素敵な結婚式でしたね」
「うん、料理がよかった」
「新婦のご挨拶、よかったですね」
「ああ、長かったけどね」
それだけだった。私が何を確かめたかったのか、たぶんこの人は永遠にわからない。
◇
三十七回。
一度も「ありがとう」と言われたことはない。
──いや、「ごめん」ならあった。一度だけ。でもそれは「ごめん、また頼んじゃうんだけど」という、次の依頼の前置きだった。謝罪のふりをした予告だ。
手紙を持ったまま、天井を見る。木目がまだ渦を巻いている。熱のせいだ。頭がぼんやりして、いつもなら押し込めている言葉が、ぐるぐると浮かんでくる。
でも、一つだけはっきりしていることがある。
私は三十七回を数えていた。
数えていた、ということは──おかしいと思っていたのだ。ずっと。心のどこかで、ずっと。おかしいと思っていなければ、人は数えない。
枕元の小さな机に、便箋とペンがある。リーゼに頼んで用意してもらったものではない。いつも枕元に置いてある。ブルーノさまからの手紙に、すぐ返事を書けるように。
──習慣とは、恐ろしい。
起き上がる。体が重い。指先が冷たくて、ペンを握る力がうまく入らない。
いつもの返事なら六文字。
──わかりました。
何も考えなくていい。十四年間、三十七回書いてきた六文字。指が覚えている。
ペン先が便箋に触れた。
「わ」。
一文字目は同じだ。「か」。二文字目も同じ。「り」。三文字目も。「ま」──
四文字目で、ペンが止まった。
指が震えているのは熱のせいだ。でも、ペンが止まったのは熱のせいではない。
ヘルマン子爵夫人は、バラの砂糖漬けが好き。知っている。私が三年前に調べたから。ブルーノさまに教えたことすら、あの人は覚えていないだろう。覚えていないのに、手紙には書ける。私が教えた言葉を、さも自分で知っていたかのように。
──もう、いい。
便箋をくしゃりと握って、新しい一枚を引いた。
震える指が綴ったのは、六文字だった。
──わかりません。
書いた。
書いてしまった。
ペンを置いて、自分の字を見る。熱で手が震えていたから、少し歪んでいる。でも読める。はっきり読める。
『わかりません』
たった六文字。同じ六文字なのだ。「わかりました」と「わかりません」。語尾が違うだけなのに、指先から十四年分の重さが、すうっと抜けていくのがわかった。
不思議だ。こんなに体は熱いのに、指先だけが嘘みたいに軽い。
「リーゼ」
声がかすれた。侍女が駆け寄ってくる。
「この手紙を、リンドベルク侯爵家へお願い」
「……よろしいのですか」
リーゼの目がわずかに大きくなった。この子は、たぶん知っている。私がいつも何を書いて、いつも何を飲み込んできたか。
「いいの」
リーゼが手紙を受け取って、部屋を出ていく。足音が廊下の向こうに消えた。
──もう一通。
私はもう一枚、便箋を引き寄せた。
『お父さまへ。婚約の解消について、ご相談したいことがございます』
書き終えて、ようやく体の力が抜けた。枕に沈む。額の布はとっくに落ちていて、枕がじんわり温かい。自分の熱で温まった枕は、冷たい布よりもなぜか心地よかった。
三十七回目の「わかってくれるよね」に、初めて「わかりません」と答えた夜。
体はまだ熱い。喉が渇く。明日のことを考えると、少しだけ怖い。
ブルーノさまはあの手紙を読んで、なんと言うだろう。
きっと笑う。「冗談だろ?」と。十四年間、一度も断らなかった私が、急に断るなんて、あの人には信じられないだろう。
笑えばいい。
私はもう、笑い返さない。
目を閉じると、不思議なほどすぐに眠りが来た。熱に浮かされた夜のはずなのに、夢も見なかった。
十四年ぶりに──いや、もしかしたら生まれて初めて、深い眠りだった。




