第10話 わかりました──自分の心が
広場に着いたとき、最初に匂いが来た。
焼き栗の匂い。蜂蜜の匂い。それから、木の樽から立ち上る温かい林檎酒の匂い。
広場の真ん中に、小さな市場が開かれていた。冬の装飾が施された屋台が六つ。松の枝にリボンを巻いた飾りが屋台の柱を繋いでいる。──あれは、私がエルマさんに提案した飾りつけだ。赤い木の実を添えた松の枝。誰かが試作を見て、形にしてくれたらしい。
広場の端に、ニクラスさんが立っていた。いつもの旅装。袖を少しまくっている。何かを準備した後の腕だ。
「来てくれましたか」
「はい。……これは、何ですか」
「俺の任地の特産品です。取り寄せて、出店を手配しました」
屋台を見回した。干し果物、木彫りの小物、毛糸の手袋、蜂蜜の瓶。どれも小さくて、温かみのあるものばかりだ。
「あなたが秋の収穫祭で楽しそうに働いていたから。冬も何かあるといいと思いました」
楽しそうに。あの日の私を、この人はそう見ていたのだ。侯爵家での仕事は「完璧にこなさなければならないもの」だった。収穫祭の手伝いは──楽しかった。楽しいと思っていいのだと気づいた日だった。
「でも、市場をどう使うかは、あなたが決めてください。俺は品物を揃えただけです」
ブルーノさまなら「これ頼むよ、わかってくれるよね」と丸投げした。マルタさまなら完璧な段取りを用意して「この通りにしてちょうだい」と言った。ニクラスさんは、素材だけ揃えて、選ぶのを私に任せる。
「私が決めていいんですか」
「あなたの町の祭りですから。当然です」
当然。この人にとっての当然が、私にとっては十四年間なかったものだった。自分で決めていい。その言葉を聞くだけで、体の中に風が通るような気がした。
エルマさんを探して、市場の配置を相談した。屋台の並びを少し変えて、広場の中央に人が集まれる空間を作る。蜂蜜の屋台は入り口の近くに。匂いで人を呼ぶためだ。こういう勘が自分にあると知ったのは、侯爵家の仕事のおかげだ。あの十四年間は無駄ではなかった。使い方が違っていただけだ。
◇
市場を一緒に回った。
屋台の商人たちはニクラスさんの顔を知っているらしく、親しげに声をかけてくる。「旦那、彼女さんかい」と一人に言われて、ニクラスさんが「違います」と真顔で否定したのがおかしかった。否定が早すぎて、かえって怪しい。
干し果物の屋台で、試食を勧められた。杏の干したもの。甘くて少し酸っぱい。おいしい。──また一つ、好きなものが増えた。
毛糸の手袋を見ていたら、ニクラスさんが隣から手を伸ばして、赤い手袋を一つ取った。
「これ、似合うと思います」
「……花の次は手袋ですか」
「花も手袋も、あなたの色です」
この人は本当に、思ったことをそのまま言う。冗談にならない。恥ずかしいのに、嬉しい。困るのに、もっと聞きたい。
◇
市場の帰り道、並木道を歩いた。
葉はもう全部落ちて、枝だけが冬の空に伸びている。高くて、澄んでいて、少し寂しい空だ。でも、隣に人がいると寂しくない。
ニクラスさんが、歩きながら言った。
「俺には領地も家督もありません。三男ですから。渡せるものは多くない」
「知っています」
「でも、あなたの話を聞く時間と、あなたの選択を邪魔しないことなら、いくらでも差し出せます」
足が止まった。
十四年間で一度も言われなかったことを、この人は会うたびに言ってくれる。好きなものを見つけるのに三種類のお茶を頼んでくれた。花に似ていると言ってくれた。歩幅を合わせてくれた。そして今、「邪魔しないこと」を差し出すと言っている。
「ニクラスさん」
「はい」
「十四年間で一度も言われなかったことを、あなたは会うたびに言ってくれますね」
ニクラスさんが少し困った顔をした。
「言わないほうが、普通でないと思いますが」
その率直さが、胸の真ん中に落ちた。
自分の手を見た。十四年間、ブルーノさまの「わかってくれるよね」に差し出してきた手。謝罪の訪問も、茶会の段取りも、季節の贈り物も、全部この手でやった。誰かのために差し出し続けた手を──今度は、自分の意思で差し出す。
ニクラスさんの手を取った。
この人が息を呑む音が聞こえた。指先がわずかに震えていた。
「私、ようやくわかりました」
「……何が、ですか」
「自分が何をしたいか」
ニクラスさんの手は温かかった。大きくて、少しだけざらついている。剣を握る人の手だ。でもその手が、三種類のお茶を並べてくれたり、花屋の前で立ち止まったりした。私の歩幅に合わせて歩を緩めたのも、この手の持ち主だ。
ブルーノさまの手を取ったことは何度もある。でもそれはいつも、ブルーノさまが差し出した手を受けるだけだった。自分から伸ばしたのは、これが初めてだ。
「あなたの隣で、自分の好きなお茶を飲みながら、自分の言葉で話がしたい。それが、私のしたいことです」
ニクラスさんは黙った。長い沈黙だった。この人は、大事な言葉を聞いたとき黙る。軽く流せないものを、ちゃんと受け取ってから返す人だ。
そして、静かに笑った。口の端がわずかに上がるだけの、あの笑い方。
「では、明日も来ます。明後日も」
◇
一週間後、ゲルダから手紙が届いた。四通目。
『ネリーへ
ブルーノ、社交界の前線から退いたわよ。慈善茶会の失敗の責任を取ったというか、取らざるを得なかったというか。マルタさまが代わりに社交を回してるけど、「ネリーほどではない」って言われてるらしいわ。そりゃそうよ。五人がかりの仕事を一人でやってた人と比べるのが間違ってるの。
でもね、一つだけいい話。ブルーノが「自分でやる」って言い始めたんだって。今更って感じだけど、まあ、始めないよりはましでしょ。
ゲルダ
追伸:で、その騎士さんはイケメンなの? もう隠さなくていいでしょ。あんたの手紙、最近やたら嬉しそうなのよ。文字に顔が出てるわ。』
手紙を読んで、少しだけ笑った。
ブルーノさまが「自分でやる」と言い始めた。遅い。遅すぎる。でも、始めないよりはましだ。あの人はあの人の場所で、自分の足で立とうとしている。
恨みはない。十四年間は長かったけれど、あの時間があったから今の自分がいる。招待客のリストを作る力も、座席配置の勘も、人の好みを覚える注意力も、全部あの十四年間で身につけたものだ。三十七回の「わかりました」を経て、三十八回目の「わかりません」にたどり着けた。
ただ、もうあの場所には戻らない。
◇
午後、伯爵家の庭で、ニクラスさんとお茶を飲んだ。
リンデン。苦くて、後から甘い。二人分。
リンゴの木の下のベンチに並んで座る。葉は全部落ちたけれど、春になればまた芽吹くだろう。
「ニクラスさん、一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「あなたは私に、『わかってくれるよね』と言いますか」
ニクラスさんは少し考えた。この人は、聞かれたことを軽く流さない。ちゃんと考えてから答える。
「言いません」
「……どうして」
「わかってほしいことがあれば、言葉にします。察してもらうのは、甘えではなく怠慢だと思うので」
──怠慢。
ブルーノさまは、言葉にすることを怠けていた。「わかってくれるよね」は、説明も感謝もお願いも全部省略した言葉だ。言わなくても伝わると思っていたのではない。言わなくても私がやると知っていたのだ。
この人は違う。この人は、言葉にする。不器用でも、短くても、自分の口で伝えようとする。
目を閉じた。
杯の温かさが両手に伝わっている。リンデンの苦みの後に来る、あの甘さが舌の上に残っている。隣に座っている人の体温が、少しだけ腕に届いている。
十四年間探していたものは、こういう温度だったのだ。
三十七回の「わかりました」は終わった。三十八回目の「わかりません」で、あの扉を閉じた。
そして今、自分のための「わかりました」を見つけた。
──自分の心が、わかりました。
◇
夜、ゲルダへの返事を書いた。
『ゲルダへ。
イケメンかって聞かれたから答えるけど、顔はまあまあ。
でもね、お茶を三種類頼んでくれる人は、社交界にはいなかったわ。
ネリー
追伸:今度、うちに来なさい。紹介するから。リンデンのお茶を淹れて待ってる。』
封をして、手帳を開いた。
もう白紙のページはほとんどない。全部、自分の字で埋まっている。冬祭りの準備。ニクラスさんとの約束。ゲルダが来る日。母の刺繍教室。エルマさんとの打ち合わせ。
好きなものリスト。ジャガイモのグラタン、赤と黄色の花、ジャガイモのパン、カボチャのスープ、窓際の椅子、リンデンのお茶、杏の干し果物、赤い手袋。
そして──隣に座ってくれる人。
全部、自分で見つけたものだ。誰の好みでもない。私の名前で、私の時間で、私が選んだもの。
リストはまだ伸びる。明日も、明後日も。




