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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第6話 父の帳簿、子の赤鉛筆


 王都滞在の最後の朝は、いつもの朝より、頬のあたりの空気が、ほんの少しだけ、乾いていた。


 昨夜の昂ぶりの名残、かもしれない。あるいは、今朝、家に帰る、ということの、わずかな安堵が、呼吸の深さを、半分、戻していただけ、かもしれない。──どちらにしても、宿の廊下を歩いている私の足取りは、三日目の朝の、あの張り詰めた歩幅より、ひと回り、柔らかかった。


 後見人の書類確認の、最後の日。


 王家監察局の別宿の、小さな部屋で。アルベルト様と、レオンと、監査官の方と、私と、ルーカス様。──この組み合わせで、同じ部屋に、入るのは、去年の冬以来、だった。


 部屋の扉の手前で、私の指先が、ほんの少し、冷たかった。


 手袋の上から、ルーカス様の手が、その指を、静かに、包んだ。


 何も、仰らなかった。包んでから、自分の手のほうの温度を、私の指先に、半分、分けてから、ゆっくり、離した。


 離した指が、扉を、ノックした。


     ◇


「どうぞ」


 中から、監査官の、落ち着いた声。


 扉を開けた。


 窓際の席に、アルベルト様。その隣に、小さな椅子を寄せて、レオン。手前の机の端に、王家監察局の監査官が、書類を、すでに、並べて下さっていた。


「おはようございます。お忙しいところ、ご足労いただき、恐れ入ります」


 アルベルト様が、立ち上がった。一礼の角度は、半年前の春よりも、もう少しだけ、深かった。──深くなっていた、というより、自分で、丁寧に、選んだ角度、という感じだった。


「おはようございます、アルベルト様」


「おはようございます、おかあさま」


 レオンも、小さく、立ち上がった。いつもの、公爵家でしつけられた立ち方。でも、その立ち方を、今朝のあの子は、自分の身体の使い方として、ちょうどいい範囲に、収めていた。


 監査官が、軽く、頷いた。


「では、恐れ入りますが、まずは、定例の書類から、確認を」


 形式的な書類、だった。この先、半年のあいだ、レオンがヴァイス領を訪ねてきてもよいか、王都とヴァイスの間の通信の頻度、何かあった時の連絡系統。──去年までと、項目は、変わっていなかった。


 アルベルト様の、署名は、一画ずつ、丁寧に、下ろされていた。


 前は、流れるような筆だった。筆跡の美しさで、社交界を渡ってきた人の、慣れた筆。今の筆は、慣れの前の、ためらいの一拍分を、毎回、線の中に、ちゃんと入れていた。──ためらう筆、のほうが、署名としては、重い。その重さを、この人は、いま、選んで、使っていた。


 監査官が、書類を、受け取り、束ねた。


「お確認、ありがとうございます。これにて、本日の定例の件は、終了でございます」


 監査官が、席を、立った。


 扉のほうへ、歩いた。──部屋の外で、もう一つの書類を整えてくる、という形で、私たちだけに、しばらくの時間を、残して、下さった。


     ◇


「……セレナ様」


 アルベルト様が、膝の上から、革表紙の、薄い帳面を、取り出した。


 レオンが、その動きを、じっと、見ていた。


「ひとつだけ、お見せしたい、ものが、ございまして」


「……はい」


「後見人としての、ご報告、では、ございません。──私の、個人の、家計の、帳面です」


 差し出された。


 私は、一度、両手で、受け取った。受け取るかどうかを、一瞬、迷った自分の手が、自分でも、見えた。でも、迷ったのは、ほんの一拍で、その先は、受け取っていた。


 表紙を、開いた。


 アルベルト様の字だった。大人の、几帳面な、外交官の、整った字。──その整った字が、ところどころ、ためらっている線で、書かれていた。昨日のお昼、レオンと一緒に、公園のベンチで、見ていた時とは、違う頁、だった。別の月。別の項目。でも、根のところは、同じ、昨日の帳面の、続き、だった。


 頁を、めくっていった。


 月の区切り。支出。収入。家の雑費。──帳面の書式は、私のものの、いちばん、基礎のところを、踏んでいた。欄の切り方が、一つ、同じ。日付の、縦書きの位置が、同じ。


(……真似て、おられる)


 胸の奥が、ひとつ、静かに、鳴った。


 鳴ったのは、たぶん、怒りではなかった。悔しさでも、なかった。──もっと、穏やかな、何か、だった。七年、真似て下さらなかった人が、離縁のあとに、真似て下さっている。それは、奪われた、とは、違う。渡していないものを、勝手に渡された、とも、違う。


 あえて言うなら、──「今頃になって」。


 でも、「今頃になって」のあとに、続く言葉を、私は、選ばなかった。選ばないことにした。


 めくる指が、ある頁で、止まった。


 数字の隣に、赤い線が、一本、走っていた。


 ほんの、小さな、線。たどたどしい、斜めの線。足し算の、間違いの隣に、正しい数が、赤えんぴつで、書き込まれていた。


 ──レオンの字、だった。


「……これは」


「昨日、公園のベンチで、あの子が、見つけてくれました」


 アルベルト様の声は、穏やかだった。穏やか過ぎるほど、穏やかだった。その穏やかさの下に、何か、別の温度が、押し込まれていた。


「私の計算の、まちがい、でございます」


 膝の上のレオンが、ちらりと、私のほうを、見た。叱られるかどうかを、確かめる目。──懐かしい目、だった。七年間、何度も、あの子の、この目を、見ていた。


「レオン」


「はい、おかあさま」


「あなたのお仕事、きちんと、していますね」


「……はい」


 レオンが、ほんの少しだけ、顔を伏せた。伏せた口元が、誇らしさを、半分、逃がしていた。七年の、分の、この子の、お仕事の、やり方。その半分は、まだ、私の覚えている頃のままだった。残りの半分は、たぶん、この半年の、あの子が、自分で、新しく、身につけたもの、だった。


 私は、頁を、もう一度、見た。


 赤い線。正しい数。それを、受け取ったまま、閉じずに、アルベルト様の帳面に、残してある、という事実。


 アルベルト様のほうに、顔を、向けた。


「……合っていますよ」


「はい」


「間違えたところも、含めて、全部、合っています」


 一拍だけ、部屋が、静かになった。


 アルベルト様の視線が、帳面の上の、レオンの赤い線から、少しだけ、下にずれた。机の木目の、手前のあたりに、落ちた。──顔を、伏せた。


 泣いては、いなかった。


 でも、顔を、伏せていた。


 伏せた顔の、向こう側で、何が、動いているのかは、私の位置からは、見えなかった。見えなくてよかった。見えなかったことが、今日のこの方に対する、礼儀、だった。


 レオンが、アルベルト様の袖を、ひとつだけ、引いた。小さな手で。何も、言わずに。


 アルベルト様は、その袖の引かれた感触を、たぶん、一番、深いところで、受け取っていた。


     ◇


 監査官の方が、扉の向こうで、軽く、咳払いをされた。合図、だった。


 アルベルト様が、ゆっくり、顔を、上げた。上げた時には、もう、伏せていた顔のあとは、外側からは、ほとんど、分からなかった。──外交官の、戻し方の、早さ、だった。その早さを、この人は、七年間、私に向けても、使ってきた。でも、今朝、その早さが、私への壁ではなく、部屋の外への礼儀のほうに、向いていた。


 立ち上がる前に、アルベルト様が、一度だけ、口を、開いた。


「……セレナ様」


「はい」


「これから、時々、手紙を、お書きしても、よろしいでしょうか」


 一瞬、意味を、取りかねた。


 後見人としての、公式の連絡の話を、されているのかと、思った。──違う、と、すぐに、気づいた。この人は、公式の連絡のためには、許可を訊かない。訊かずに、監査官経由で、送ってこられる。今、訊かれているのは、公式の連絡、ではない。


 父親として、という意味だった。


 父親として、離縁した妻の、いまの夫のいる家に、手紙を、送る。──その許可を、求めておられた。


「……月に、一度でしたら」


 私は、少しだけ、間を、置いた。置いてから、続けた。


「お手紙、お受けいたします。──レオンの、近況を、教えていただけると、嬉しく、存じます」


 月に一度、と、線を引いた。この先、この線を、越えてこない人だ、と、私は、知っていた。もう、知っていた。


「ありがとうございます」


 アルベルト様は、今日、いちばん深い角度で、頭を下げた。


     ◇


 部屋を、出た。


 廊下を、少し歩いてから、ルーカス様が、隣で、ぽつり、と、独り言のように、仰った。


「……よく、言ったな」


「何を、ですか」


「『含めて』、のところだ」


 返事を、すぐには、返さなかった。返せなかった。返せなかったのは、そこで返すと、たぶん、自分の喉のほうが、詰まった、から。


 ルーカス様は、返事を、待っていなかった。


 宿の玄関先に、ハンネスさんが、いた。


 珍しく、あの勢いのない、立ち方、だった。手に、薄い封筒を、一通、持っていた。


「セレナ様。朝、王都の連合からの便で。──薔薇園のほうから」


 封蝋は、王家監察局のもの。横に、小さな、もうひとつの紋。


 マルガレーテ様ご実家の、紋、だった。


「御容体が、思わしくない、と。庭師の方から、連合経由で、先触れが」


 ハンネスさんの声は、軽さを、抜いていた。


 私は、便箋を、受け取らなかった。受け取らずに、ハンネスさんを、一度だけ、見た。ハンネスさんは、頷いた。頷いた、ということの意味を、私は、考えなかった。考える前に、体が、次の判断を、していた。


「……ヴァイスに、一度、戻ります。戻って、荷物を整えて、すぐに、薔薇園のほうへ」


「了解っす」


「ルーカス様」


「ああ」


 それだけだった。


 王都の、春先の朝の光が、石畳の、溶け残った雪の縁を、細く、削り始めていた。


 胸の内側で、昨日までの静けさが、速度を変えた。変えた速度を、自分の指で、押さえつけなかった。今日は、押さえない日だった。


 アルベルト様の帳面の、あの赤い線が、なぜか、まぶたの裏に、まだ、残っていた。


 「間違えたところも、含めて」。


 自分で、言った一言、だった。


 自分で、言って、自分の七年を、たぶん、自分で、ひとつ、赦していた。赦したばかりで、次の報せが、届いた。赦しと、報せが、同じ朝の中で、並んで、立っていた。


 ──春の風が、冬の残りを、押していた。

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