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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第7話 書けない便箋


 馬車の窓の外で、王都の春先の光が、流れていた。


 膝の上に、帳面を一冊、置いたまま、私は、それを開かずにいた。開けない、のではない。開く必要が、なかった。先ほど、あの部屋で、一度、開いて、そして、閉じずに、あの方の前に、置いた。その、閉じられなかった時間のことを、今、馬車の揺れの中で、もう一度、指先の記憶として、たどっていた。


 レオンは、窓の外を、見ていた。


 七歳の頃、馬車の中でのあの子は、よく喋った。よく笑った。見えるものの名前を、全部、順番に、教えてほしがる子だった。九歳になった今、この子は、喋らない時間のほうを、自分で、きちんと、持っている。それを、私が、どう受け止めるべきなのかは、まだ、よく分からない。


「……おとうさま」


 ぽつり、と、レオンが、仰った。


「さっき、泣いて、おられました?」


 窓の外のほうを見たままの、質問、だった。顔は、こちらに、向けてはいなかった。そのほうが、訊きやすい、という判断、かもしれない。あるいは、こちらの返事の、顔の揺れ方を、見ないでおこう、という配慮、かもしれない。──九歳の配慮は、大人のそれより、時に、ずっと、先を、読む。


「……どう、だったかな」


 正直な返事が、咄嗟には、出なかった。


 泣いては、いなかった。顔を、伏せただけ、だった。泣く、ということの閾値が、自分の中で、まだ、高いところに、据え置かれていた。その閾値を、崩さなかったのが、今日の、私の、精一杯の背筋だった。


「……泣いて、おられても、よかったですよ」


 レオンは、そう、仰って、それから、そのまま、また、黙った。


 黙り方に、余裕のようなものが、あった。言うべきことを言った子の、黙り方、だった。──この子は、どこで、こういう黙り方を、覚えてきたのだろう。セレナ様から、なのだろうか。あるいは、ヴァイス伯爵から、なのだろうか。──どちらでも、私ではないことだけは、確かだった。


 その確かさを、私は、恥じなかった。


 恥じてしまえば、この子の、今の、黙り方への、敬意を、欠くことになる。


     ◇


 屋敷に戻ると、秘書官が、机の上に、三通の書簡を、並べていた。


 公爵位が、一時停止の形で預かり置かれたまま、もう、ふた冬が、過ぎようとしていた。王家監察下の家の、日々の処理は、以前ほどの分量は、ない。けれど、ゼロでもない。ゼロにならないということが、この家を、人の目の届く範囲に、留めてくれている。──その、留めてくれている、ということの重さを、今朝になって、また、少し、感じる。


 三通のうち、二通は、定例の処理。


 もう一通は、見慣れない封蝋だった。ノルデン王国外務省の、紋。横に、小さな、もう一つの紋。封蝋を差出人個人の印で二重にする、外国の、上位官僚の、作法。


 ペーパーナイフを、取った。


 開けた。


『グランツ後見人閣下へ。


 突然の書簡、ご無礼を、お許しくださいませ。

 小職、ノルデン王国外務省通商部に、長年、奉職しておりました、カスパル・フォン・エーレンベルクと申します。一昨年、貴国ヴァイス領にて、通商条約改定の会談を、担当いたしました。

 このたび、貴国の王家通商方にて、ヴァイス伯爵夫人セレナ様の書式体系が、正式に導入の運びとなったと、伝え聞きました。

 形式上、貴殿が後見人としてご在任でらっしゃるグランツ家の、過去の通商記録につきましても、いずれ、同書式による読み起こしが、進められるものと拝察いたします。その折、小職の、国境会談時の試算の控えが、お役に立てるようでしたら、いつなりとも、当方の公使館経由にて、お申しつけくださいませ。

 僭越ながら、外国の一官僚として、申し上げます。──セレナ様の書式は、他の国でも、すでに、参照されはじめております。

 ご自愛くださいませ。


                  カスパル』


 読み終えて、便箋を、机の上に、置いた。


 置いた指の、節のあたりが、少しだけ、冷たかった。


 外国の、官僚の、一通の、短い書簡。文面は、礼儀正しく、丁寧で、どこにも、私を咎める言葉は、書かれていなかった。書かれていないことが、むしろ、咎める書簡より、深く、胸に、落ちてきた。


 ──あの方の書式は、他の国でも、参照されはじめております。


 私が七年、読めないまま棚に立てておいた帳簿の、延長線の上に、今、外国の外務省の官僚が、わざわざ、一通の書簡を、送ってくる地点が、ある。そこまで歩いて行った人の、その道筋を、私は、ほとんど、見ていなかった。


(……まだ、足りていない)


 そう、思った。


 七年、何が見えていなかったのかを、一つずつ名前をつけて数え上げる作業は、離縁のあと、ずっと、続けてきた。続けてきたつもりだった。けれど、足りていなかった。今日、レオンの赤い線の隣で、あの方に「合っていますよ、間違えたところも、含めて」と仰っていただいた時ですら、まだ、自分は、半分しか、理解していなかった。


 残りの半分を、このカスパル殿という方が、外から、教えてくださった。


     ◇


 夜、書斎に、一人、残った。


 灯りを、最小のものに、落とした。暖炉の火は、今夜は、入れさせなかった。暖炉の火の前で、ものを考えると、考えが、柔らかくなりすぎる傾向が、私にはある。今夜は、柔らかくなりすぎては、いけなかった。


 便箋を、広げた。


 宛名を、書いた。


『セレナ様』


 それだけを、書いた。


 書いた直後に、「ヴァイス伯爵夫人」と付すべきかどうかで、手が、止まった。──朝、お会いしていた時は、ご本人に向かって、「セレナ様」で、問題は、なかった。書面の宛名に、「ヴァイス伯爵夫人」を補うのが、社交上、正しい。正しい、のだけれど、今夜の私の手は、そこを、省くことを、選んだ。選んで、そのまま、本文に、進んだ。


『先ほどは、お忙しいところ──』


 止まった。


 言葉の、出始めで、すでに、遅かった。「お忙しいところ」の「お」が、帳簿の隣で、レオンの赤い線を、見ていた自分の、あの時間の重さに、釣り合わなかった。社交の挨拶を、はじめに置くと、そのあとの文の、全部の重さが、軽くなる。軽くしては、いけない便箋、だった。


 紙を、引き抜いた。


 もう一枚、新しい紙。


『セレナ様。


 本日は──』


 止まった。


 「本日は」の続きに、なにを置くかで、手が、動かなくなった。「ご足労いただき」でも、「お時間を頂戴し」でも、「ありがとうございました」でも、ない。そのどれもが、今朝のあの部屋で、あの方が、私の帳面の上に落とされた一言の、重さを、受け止めきれない。


 便箋の白さが、こちらを、待っていた。


 待たれている、ということの不自由さを、こんなにも、はっきりと感じたのは、久しぶり、だった。


 外交の書面なら、書ける。監察下の公文書なら、一日に、何通でも、書ける。でも、個人の便箋は、違う。個人の便箋の白さは、相手が受け取った後の、相手の、指の動きまでを、書き手に、想像させる。想像してしまうと、言葉の一つ一つの重さが、軽くならなくなる。


 ペンを、置いた。


 机の、引き出しに、手を、伸ばした。


     ◇


 いちばん下の引き出しの、奥の隅に、薄い紙が、一枚、畳まれていた。


 古い紙だった。端の角が、茶色く、褪せている。


 広げた。


 古い献立表の、下書き、だった。


 字は、若い、女の字。丁寧だが、まだ、少しだけ、硬い。欄の切り方に、あとになって私が知ることになる、あの方の書式の、いちばん最初の形が、控えめに、芽を出していた。


 ──七年前。あの方が、我が家に、嫁いで来られた、最初の冬の、献立表の、下書き。


 下書きの段階で、厨房に、渡される前の紙。厨房に渡すのは、別の、清書のほうだった。下書きは、本来、捨てられるべきもの、だった。


 私は、これを、捨てずに、持っていた。


 持っていたことを、長年、忘れていた。忘れていたけれど、引き出しの奥の、いちばん下に、畳んで、入れていた。──なぜ、入れたかは、自分でも、説明が、つかない。たぶん、嫁いで来てくださった翌日、厨房から、清書を受け取った私が、その下書きの、一枚を、机の端から、無意識に、引き出しの奥に、しまった。そのまま、閉じた。そのまま、七年、開けなかった。


 下書きの、いちばん下に、小さな、若い文字で、書いてあった。


『──間違えて、いたら、お直しくださいませ』


 あの方の、一筆、だった。


 厨房に渡す清書には、書かれない一筆。若い、嫁いできたばかりの女が、夫の朝の皿に出す献立表の、下書きの、最後に、一度だけ、書いた一筆。


 私は、これに、返事を、していなかった。


 清書のほうで、内容を、承認の印を押して、返した。でも、この、「お直しくださいませ」の一筆に向けて、直接の返事は、していなかった。──七年前。その返事を、していなかった。


 返事を、していなかったことの、意味を、今夜、初めて、理解した。


     ◇


 便箋を、畳んだ。


 書けなかった便箋の、白さのまま、畳んで、机の端に、寄せた。


 白いまま、送ることは、しない。白いまま、引き出しに、入れる。七年、自分が、ひとつ、返事をしなかった。その返事を、今夜、書けないまま、畳むことが、たぶん、今日の、私の、精一杯の、誠実さだった。


 書けるようになる日が、来るのかは、分からない。


 来ないかもしれない。


 来ないままのほうが、あの方には、ちょうどいい距離の、保ち方、なのかもしれない。月に一度の、公式の手紙の距離。──今朝、あの方が、「月に、一度」と、線を、引いてくださった。あの線の内側で、私は、これから、月に一度、父親としての手紙を、書く。その手紙を、書くことだけは、できる。


 カスパル殿の書簡を、もう一度、手に、取った。


 その横に、並べて、母からの、最新の容体の報の、紙を、取り出した。薔薇園の、庭師の方からの、簡潔な一報。


 二通の紙が、机の上で、並んでいた。


 外国の、官僚の、誠実な、応援の書簡。母の、終わりへ向かう、報の紙。並べて置くべきではない、性質の、二通、だった。でも、今夜の私の机は、両方を、同じ明るさの灯りの下で、見ていた。


 見なければならない、と、思った。


 七年、見ていなかったぶんを、今夜、全部、取り戻すことは、できない。できないけれど、見ること、だけは、今夜、始めても、よい。


 書斎の窓の外で、春の、薄い風が、屋敷の庭の、枯れかけた芝の上を、通っていくのが、見えた。


 見えたことが、今夜の、ひとつ目の、赦しだった。

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