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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第5話 読めない、と言えた人


 「読めない」と人に言える日まで、三十年かかる人が、いる。


 そういう人と、今日、同じ部屋に、いることになるとは、朝の宿の食卓では、まだ、思っていなかった。


 食卓の向かいで、ルーカス様が、パンの端を、細く、ちぎっていた。朝の見回りがない旅先の朝でも、この人の手の動きは、ヴァイス領の朝と、あまり、変わらない。違うのは、窓から入ってくる光の質。王都の朝は、海の匂いがしないぶん、机の上の白いパンが、少しだけ、青白く見える。


「……セレナ」


「はい」


 ルーカス様が、自分の皿の、半熟の卵を、ひとつ、私の皿の端に、そっと、移した。


 昨夜、眩暈の話を、した。今朝、この人は、何も、言わなかった。言わないかわりに、自分の皿の卵を、私の皿に、移していた。黄身が、皿の白の上で、ゆっくり、ひとつ、増えた。


「……ありがとうございます」


「ああ」


 それだけだった。それだけで、足りた。


     ◇


 王家通商方の、長机の部屋は、初日より、静かだった。


 初日は、席の半分が、埋まっていた。二日目は、三分の一。今日は、開始の時刻の、ひとつ前の鐘が鳴った時点で、机の奥側に、空席の列が、はっきりと、残っていた。


 私の手元の資料は、昨夜、宿で、もう一度、順番を並べ直してあった。並べ直した自分の動きに、昨夜は気づかなかった、今朝の微かな癖があった。──「席が、埋まらないかもしれない朝」の、並べ直し方、だった。七年前の公爵家の書斎で、誰にも引き継がない前提で、毎晩、帳簿を並べていた、あの並べ方に、似ていた。似ている、ということ自体に、少しだけ、胸の奥が、冷えた。


 部屋の、入り口の扉が、開いた。


 ベネディクト局長が、入ってきた。


 三十年、王家の通商記録の、いちばん奥の棚を、一人で整えてきた方。白髪のきちんと後ろで束ねられた、痩身の、老年の役人。背筋は、まっすぐ。歩幅も、昨日と同じ。──でも、歩き始めの、一歩目の、踏み出し方に、昨日までとは違う、半拍の間が、あった。


 正面の席に、腰を下ろした。


「──定刻の前ではございますが」


 声は、いつもと、同じ、抑制された低さ。


「三日目を、お開きする前に、ひとつ、各局長のみなさまにご提案を。この説明会、本日以降の進行については、いったん、各局の判断に、立ち返られるのが、道理かと存じます。王家通商方の書式体系は、それぞれの局の、長年の事情と、深く、結びついておりまして──」


(……来た)


 声には、出さなかった。


 二日目の終わりに、もう、この方のほうから、何かを言ってくるだろう、と、頭のどこかで、予想していた。予想していたから、驚きは、なかった。ただ、予想の重さだけは、胸に、あった。


 そのときだった。


 机の下、手のひらに、じんわりとした重みが、ひとつ、のった。


 ルーカス様の手だった。いつ伸びてきたか、気づかなかった。遮ろうとする局長の声のほうに、私の耳が、全部、もっていかれていた。気づいたのは、温度が伝わってから、だった。


 剣だこのある、硬い手。


 握っては、いなかった。ただ、置かれていた。──置かれていることが、握られるより、ずっと、強く、私の指に、届いた。


     ◇


「──失礼いたします」


 机の、後列。


 若い声だった。掠れたというほどでもない、ただ、乾いた、緊張を押し戻した、若い役人の、声。


 顔を、上げた。


 立ち上がっていたのは、ベネディクト局長の、真後ろの席に、長く座っていた方だった。


 二日間、ずっと、無言で、手元の資料だけを、見ていた方。目の下に、薄い隈があって、朝の挨拶のとき、局長に、いちばん深く、頭を下げていた方。──ベネディクト局長の、直属の書記、と、初日に紹介を、受けていた。フランツ、というお名前、だったはずだった。


「……フランツ、どうした」


 局長の声が、微かに、低くなった。


 フランツさんは、一度だけ、乾いた唇を、舌の先で、湿らせた。湿らせてから、もう一度、息を、吸った。


「局長。……失礼ながら」


「うん」


「私は──こちらの、セレナ様の書式のほうが、読みやすいと、思っております」


 部屋の、空気の量が、一瞬、変わった。


 量が変わった、という表現は、たぶん、正しくない。温度が、変わった。乾いた部屋の、湿度が、ほんの少し、上がった。──声に出さずに、息を、呑んだ人が、複数、いた。その息が、部屋の空気を、湿らせた。


「……どういう意味だ」


「申し上げた通りです」


 フランツさんは、顔を、上げた。目は、局長を、見ていた。逃げていなかった。


「私は、三年、局長の下で、あの、古い通商記録の、読み起こしを、担当して参りました。毎日、深夜まで、局長の符丁の意味を、一つずつ、辞書に、書き起こしておりました。──三年、やりました」


「……ああ」


「三年、やっても、まだ、半分も、終わっておりません」


「うん」


「セレナ様の書式は、一日目で、半分、読めました」


 書記のペンが、止まった。


 部屋の、別の席の、別の書記のペンも、止まった。止まらなかったのは、遠くの席の、一番奥のひとつだけだった。


 フランツさんは、もう一度、息を、整えた。


「局長の三十年を、否定する気は、ございません。局長の体系を、書き起こす仕事も、まだ、続けます。──ただ、新しく、同じ三十年をかけて、もう一人、同じ苦労をする人間を、作りたくは、ないのです」


 フランツさんの言葉の最後のほうは、少しだけ、声が、細くなっていた。


 言い切ってから、もう一度、ゆっくり、席に、座った。座った自分の手のひらを、机の下で、握りしめている気配が、机越しに、伝わってきた。──あの人は、この一言のために、たぶん、昨夜、一晩、眠れていない。


     ◇


 ベネディクト局長は、しばらく、何も、言わなかった。


 視線は、机の木目の上、だった。


 木目の、一本の線の上を、目だけが、ゆっくりと、なぞっていた。その線の、端から端までを、目で、二度、三度、往復した。


 部屋の、ほかの席の、誰も、何も、言わなかった。


 言えなかった、のかもしれない。


 長い、静けさ、だった。


 静けさは、時計の音で、かろうじて、続いていた。壁の、古い時計。王家通商方の建物の、どの部屋にも置かれている、同じ型の、時計。振り子の、木の、乾いた音。


 やがて。


「……自分には」


 低い声が、木目のほうへ、落ちた。


 顔は、上げなかった。


「──自分には、読めない」


 短かった。


 それだけ、だった。


 誰も、拍手は、しなかった。誰も、嘲笑わなかった。誰も、何も、書きつけなかった。書記のペンは、ずっと、止まったまま、だった。


 立ち上がる音が、した。


 ベネディクト局長の、真後ろの、席の、若い書記たちが、数人、ほとんど同時に、立ち上がった。


 足音は、乱暴ではなかった。むしろ、慎重だった。椅子を、引く音が、静かに、揃っていた。誰かが合図したわけでは、なかった。──たぶん、合図は、要らなかった。二日間、目の下に隈をつくっていた人たちが、今朝、同じ方向に、歩き出した。ただ、それだけの、動きだった。


 前のほうの、私の机の、すぐ隣の、空いていた椅子に、一人、座り直した。


 もう一人は、資料の山の、反対の側に、回った。


 フランツさんは、最後に、もう一度だけ、ベネディクト局長のほうを、振り返った。振り返って、深く、頭を、下げた。それから、こちらの列の、端の席に、静かに、腰を下ろした。


 私の机の、下で。


 ルーカス様の手の重さが、さっきより、ほんの少しだけ、強くなった。


 握り、では、なかった。置かれていた手の、指の一本が、動いただけだった。でも、その一本の動きだけで、「答えなくていい」が、伝わってきた。


 だから、私は、何も、返さなかった。


 立ち上がって、「ありがとうございます」と、言うことも、しなかった。


 したのは、前の資料を、ゆっくり、一枚、めくることだけ、だった。


 めくって、次の頁の、説明の続きを、静かな声で、始めた。


     ◇


 説明会が終わったのは、日が、傾き始める頃、だった。


 ベネディクト局長は、ご自分の席から、最後まで、動かなかった。


 部屋を出る時、わたしの席の、すぐ横を、通った。一度だけ、立ち止まった。何かを、言いかけた気配が、あった。──結局、言葉は、ひとつも、出なかった。


 浅く、一礼、された。


 顔の角度は、私のほうではなく、机の上の、私の資料の、表紙の端のほうに、向いていた。表紙に、向けて、下げられた一礼、だった。


 それだけで、扉のほうへ、歩いていかれた。


 扉が、閉まった。


     ◇


 帰りの馬車の中で、ルーカス様は、しばらく、何も、言わなかった。


 窓の外を、王都の、午後の終わりの光が、流れていた。


 膝の上で、私は、両手を、重ねていた。重ねた手の、上のほうが、ほんの少しだけ、冷たかった。たぶん、朝の食卓で、黄身を一つ、分けてもらった時から、指の先は、少しだけ、冷たいままだった。


 ルーカス様が、懐から、筆談ノートを、出した。


 昼、念のために、と言って、持ってきていたもの。今朝の宿の朝食の前、この人が、何も言わずに、外套の内側に、入れていたのを、私は、見ていた。見ていたけれど、用途は、訊かなかった。


 膝の上で、開いた。


 ペンは、自分で、取られた。声を、使わない、選択だった。


『お前の勝ちじゃない』


 その下に、続けて。


『あれは、皆の負けが、半分だけ、ほどけた日だ』


 それで、終わりだった。


 私は、筆を、借りなかった。借りずに、紙の上を、右手の指で、一度だけ、撫でた。インクは、もう、乾いていた。


 窓の外で、王都の、夕方の雲が、低く、流れていた。


 宿に戻ったら、王妃陛下のお耳に、今日のことが、届くだろう。届いた時、あの方は、たぶん、何も、驚かない。──ベネディクト局長の席に、何が起きるか、あの方は、今朝の段階から、見ていた。見ていて、見守っていた。それが、朝、食卓で配られなかった、私のぶんの、もう一つの黄身の、正体だった。


 馬車の揺れの中で、指が、もう一度、冷えた。


 冷えた指を、ルーカス様の手が、上から、包んだ。


 朝の、半熟の卵の、温度に、少しだけ、近かった。

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