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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第4話 ぼくの赤えんぴつ


 王都のベンチは、ヴァイスりょうの木のベンチより、ちょっと、冷たかった。


 石でできているから、だと、おもう。座ると、おしりから、ひんやりが、上にのぼってくる。ぼくは、すこしだけ、お尻を、うかせた。うかせたら、お父様が、気づいて、じぶんの外とうの、はじっこを、ぼくのおしりの下に、しいてくださった。


「……あったかい」


「ああ」


 お父様は、それだけ、仰った。


 最近のお父様は、むかしより、言葉の数が、すくない。でも、すくない言葉の中に、前より、ぬくもりが、ある。これは、ぼくが、かってに、そう感じているだけかも、しれない。でも、たぶん、かってじゃない。おかあさまが、そう教えてくれた。「人の、ことばのぬくもりは、自分で、ちゃんと、感じていいのですよ」と。


 きょうは、お父様と、いっしょに、王都に、きた。


 王家通商方という、ながいなまえの、建物の、おくの部屋で、お父様は、書類に、お名前を、書く、お仕事だった。ぼくは、そのあいだ、ちいさなひかえの部屋で、本を、読んでいた。本は、ぼく用の、絵の多いやつ。字は、だいぶ、読めるようになった。でも、つかれる漢字は、まだ、すこし、ある。


 お父様の署名は、三十分くらいで、おわった。


 おわってから、お父様が、「すこし、歩くか」と、仰ったので、近くの公園まで、いっしょに、歩いた。おかあさまと、ルーカス様は、となりの建物の、べつの部屋で、まだ、お仕事をしていた。あと一時間くらいで、おわる、と、ハンネスさん──ではなくて、王家監察局の人が、教えてくださった。


     ◇


 お父様のひざの上に、小さな帳面が、のっていた。


 革の表紙の、うすいやつ。お父様が、自分のおうちから、もってきたもの、らしかった。


「……レオン」


「はい、お父様」


「見るか」


「え」


「……見てもいい、と、思って、もってきた」


 お父様が、帳面を、ぼくのほうに、むけて、ひらいてくれた。


 中には、お父様の、字が、ならんでいた。大人の字。きちんとした、大人の、几帳面な字。漢字も、たくさん、あった。ぼくが、まだ、全部は読めない漢字も、いくつか、あった。


 でも、字の並びは、まえに、ちらっと見たことがある、おかあさまの帳面と、すこしだけ、にていた。欄のくぎりかた、日付のかきかた。──たぶん、お父様は、おかあさまの書式の、いちばん、かんたんなところを、まねて、書いている。まねているのを、かくしていなかった。むしろ、ならっていることが、ちゃんと、見えるように、書いている、ように、見えた。


 ぼくは、しばらく、ページを、めくっていた。


 一月の頁。二月の頁。──二月の、あるページの、まん中あたりで、指が、とまった。


「……お父様」


「ん」


「ここの、足し算」


「うん」


「……まちがえてます」


 お父様が、帳面を、こちらに、ひきよせた。自分の目で、たしかめた。


 しばらく、だまっていた。


 それから、小さく、息を、はいた。


「……ほんとうだ」


「すみません、勝手に、見ていたのに」


「いや。──見てくれて、よかった」


 お父様の声は、しかっていない声だった。叱るときのお父様は、声が、高くなる。叱らないときのお父様は、声が、低くなる。さいきんの、お父様は、ぼくには、ずっと、低い声のほうで、しゃべってくれている。


 ぼくは、ぽけっとの中から、赤えんぴつを、とりだした。


 おかあさまに、いつも、言われていた。「帳面を見るときは、かならず、赤いえんぴつを、持っていきなさい。青よりも、黒よりも、赤が、いちばん、あとで、じぶんで、見つけられるから」。ぼくは、おかあさまに言われたことは、わりと、ちゃんと、守る。


 赤えんぴつで、まちがえた数字の、となりに、小さく、正しい数を、書いた。


「……これで、あってますか」


 お父様は、ぼくの赤えんぴつの跡を、じっと、見ていた。


 見ていたのは、数字のほうではなかった、ような、気が、する。赤えんぴつの、線そのものを、見ているような、見かただった。ぼくの、きちんと、引けていない、少しだけ、ななめな、線を、しずかに、見ていた。


「……あってる」


 ちいさく、そう、仰った。


 それから、帳面を、とじた。


     ◇


 公園の向こうから、足音が、きこえた。


 二人分。ひとつは、ほそい歩きかた。もうひとつは、おもい歩きかた。ぼくは、顔を、あげた。


 おかあさまと、ルーカス様が、歩いてきていた。


 おかあさまの、肩に、うすい外套が、かかっていた。色は、あわい、ふゆの海の色。──ああ、あの、けっこんしきのときの、ドレスと、おなじ、色。あのときの色が、きょうは、外とうに、かわっている。


 となりを、ルーカス様が、あるいていた。ルーカス様の歩きかたは、前のルーカス様より、ちょっと、ゆっくり、だった。おかあさまの歩く速さに、あわせている、ようだった。


 ぼくは、ベンチから、立ち上がった。立ち上がりかけて、となりのお父様を、ちらっと、見た。お父様も、立ち上がった。でも、歩きだしては、こなかった。お父様は、ここから、うごかない、と、きめている顔、だった。


 だから、ぼくだけ、すこしだけ、前に、歩いた。


 歩きながら、ぼくは、おかあさまの、左手を、見た。


 うすい手ぶくろの上からでも、やくゆびの、ふくらみが、わかった。指輪。──ルーカス様と、やくそくした指輪。結婚式で、ルーカス様が、ゆっくり、通してくださった、あの指輪。


(……ある)


 声には、ださなかった。


 でも、むねの、なかで、ひとつ、うごいた。なにが、うごいたのか、じぶんでは、まだ、よく、わからない。でも、うごいた。たぶん、安心の、うごきかた。


 おかあさまの指輪が、そこに、ちゃんと、ある。──それが、きょうの、ぼくの、いちばんの、しごとの、こたえ、だったような、気が、した。誰もぼくに、そのしごとを、たのんではいなかった。でも、ぼくは、じぶんで、こっそり、そのしごとを、していた。きょう、それが、終わった。


「レオン」


 おかあさまが、しゃがんで、目線を、あわせてくださった。


「お待たせしました」


「……ううん、大丈夫でした」


 おかあさまは、ぼくの頬に、手ぶくろの、手の甲を、そっと、あてた。手ぶくろの布のむこうから、おかあさまの、手のあたたかさが、うっすらと、つたわってきた。


「お父様と、何を、していたの」


「……あの、えーと、お父様の、帳面を、見ていました」


「まあ」


「足し算、ちょっとだけ、なおしました」


 おかあさまが、わらった。しずかな、わらいかただった。しかってはいなかった。それから、ぼくの後ろの、ベンチの、お父様のほうに、いちど、目を、むけた。


 お父様は、立ったまま、すこしだけ、頭を、さげた。


 おかあさまは、それに、かえして、おなじくらいの、角度で、頭を、さげた。それだけだった。遠かったけれど、ぼくには、そのやりとりが、あいさつだと、わかった。大人の、あいさつ。きちんと、作法として、かわされた、あいさつ。


 ルーカス様は、おかあさまの後ろで、だまって、立っていた。ルーカス様は、きょうは、お父様のほうに、目を、あわせなかった。あわせないのが、きょうの、ただしさだった、と、おもう。あの二人は、きっと、まだ、ふつうに目をあわせる、練習の、とちゅうだ。


     ◇


 べつの馬車が、むかえに、きた。


 ぼくは、お父様と、いっしょの馬車にのって、王都のおやしきに、もどる。おかあさまとルーカス様は、べつの宿に、もどる。──今夜は、あえない、けれど、明日、もういちどだけ、みんなで、お会いする、やくそくに、なっていた。


 馬車にのるまえに、お父様が、ぼくのとなりに、ひざを、おって、顔を、ちかづけてくださった。


「……レオン」


「はい」


 お父様は、しばらく、だまっていた。


 言いかけて、何度か、ひきとめて、それでも、結局、ちいさく、仰った。


「……お前、最近、一人称、『私』って言うことも、あるんだって?」


 ぼくは、びっくりした。


 そのことを、お父様が、知っているとは、おもっていなかった。だれに、聞いたんだろう。──たぶん、マリーカさん。マリーカさんは、うちの王都のおやしきにも、ときどき、お父様の、首の、なにかで、みにくる。きっと、そのときに、ぼくのことを、すこし、はなしていた。


「……はい」


「……そうか」


 お父様は、それ以上、仰らなかった。ただ、ぼくの、かみの毛の、てっぺんのあたりを、いちど、ぽん、と、軽く、たたいてくださった。


 馬車にのってから、ぼくは、窓から、そとを、見た。


 おかあさまと、ルーカス様の、うしろすがたが、ちいさく、見えた。ルーカス様の、おおきな外とうの、かたあたりに、おかあさまの、あたまが、すこしだけ、よりかかっていた。──もたれている、わけじゃ、なかった。ちょっとだけ、かぜの、むきが、そっちだっただけ、かもしれない。


 でも、ぼくは、もたれている、ほうだと、おもうことに、した。


 むねの、さっきのうごきが、もういっかい、おなじかたちで、うごいた。


 きょうのぼくの、こっそりのしごとは、ぜんぶ、ほんとうに、おわった。


 あしたの、しごとは、あしたに、する。

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