第4話 ぼくの赤えんぴつ
王都のベンチは、ヴァイスりょうの木のベンチより、ちょっと、冷たかった。
石でできているから、だと、おもう。座ると、おしりから、ひんやりが、上にのぼってくる。ぼくは、すこしだけ、お尻を、うかせた。うかせたら、お父様が、気づいて、じぶんの外とうの、はじっこを、ぼくのおしりの下に、しいてくださった。
「……あったかい」
「ああ」
お父様は、それだけ、仰った。
最近のお父様は、むかしより、言葉の数が、すくない。でも、すくない言葉の中に、前より、ぬくもりが、ある。これは、ぼくが、かってに、そう感じているだけかも、しれない。でも、たぶん、かってじゃない。おかあさまが、そう教えてくれた。「人の、ことばのぬくもりは、自分で、ちゃんと、感じていいのですよ」と。
きょうは、お父様と、いっしょに、王都に、きた。
王家通商方という、ながいなまえの、建物の、おくの部屋で、お父様は、書類に、お名前を、書く、お仕事だった。ぼくは、そのあいだ、ちいさなひかえの部屋で、本を、読んでいた。本は、ぼく用の、絵の多いやつ。字は、だいぶ、読めるようになった。でも、つかれる漢字は、まだ、すこし、ある。
お父様の署名は、三十分くらいで、おわった。
おわってから、お父様が、「すこし、歩くか」と、仰ったので、近くの公園まで、いっしょに、歩いた。おかあさまと、ルーカス様は、となりの建物の、べつの部屋で、まだ、お仕事をしていた。あと一時間くらいで、おわる、と、ハンネスさん──ではなくて、王家監察局の人が、教えてくださった。
◇
お父様のひざの上に、小さな帳面が、のっていた。
革の表紙の、うすいやつ。お父様が、自分のおうちから、もってきたもの、らしかった。
「……レオン」
「はい、お父様」
「見るか」
「え」
「……見てもいい、と、思って、もってきた」
お父様が、帳面を、ぼくのほうに、むけて、ひらいてくれた。
中には、お父様の、字が、ならんでいた。大人の字。きちんとした、大人の、几帳面な字。漢字も、たくさん、あった。ぼくが、まだ、全部は読めない漢字も、いくつか、あった。
でも、字の並びは、まえに、ちらっと見たことがある、おかあさまの帳面と、すこしだけ、にていた。欄のくぎりかた、日付のかきかた。──たぶん、お父様は、おかあさまの書式の、いちばん、かんたんなところを、まねて、書いている。まねているのを、かくしていなかった。むしろ、ならっていることが、ちゃんと、見えるように、書いている、ように、見えた。
ぼくは、しばらく、ページを、めくっていた。
一月の頁。二月の頁。──二月の、あるページの、まん中あたりで、指が、とまった。
「……お父様」
「ん」
「ここの、足し算」
「うん」
「……まちがえてます」
お父様が、帳面を、こちらに、ひきよせた。自分の目で、たしかめた。
しばらく、だまっていた。
それから、小さく、息を、はいた。
「……ほんとうだ」
「すみません、勝手に、見ていたのに」
「いや。──見てくれて、よかった」
お父様の声は、しかっていない声だった。叱るときのお父様は、声が、高くなる。叱らないときのお父様は、声が、低くなる。さいきんの、お父様は、ぼくには、ずっと、低い声のほうで、しゃべってくれている。
ぼくは、ぽけっとの中から、赤えんぴつを、とりだした。
おかあさまに、いつも、言われていた。「帳面を見るときは、かならず、赤いえんぴつを、持っていきなさい。青よりも、黒よりも、赤が、いちばん、あとで、じぶんで、見つけられるから」。ぼくは、おかあさまに言われたことは、わりと、ちゃんと、守る。
赤えんぴつで、まちがえた数字の、となりに、小さく、正しい数を、書いた。
「……これで、あってますか」
お父様は、ぼくの赤えんぴつの跡を、じっと、見ていた。
見ていたのは、数字のほうではなかった、ような、気が、する。赤えんぴつの、線そのものを、見ているような、見かただった。ぼくの、きちんと、引けていない、少しだけ、ななめな、線を、しずかに、見ていた。
「……あってる」
ちいさく、そう、仰った。
それから、帳面を、とじた。
◇
公園の向こうから、足音が、きこえた。
二人分。ひとつは、ほそい歩きかた。もうひとつは、おもい歩きかた。ぼくは、顔を、あげた。
おかあさまと、ルーカス様が、歩いてきていた。
おかあさまの、肩に、うすい外套が、かかっていた。色は、あわい、ふゆの海の色。──ああ、あの、けっこんしきのときの、ドレスと、おなじ、色。あのときの色が、きょうは、外とうに、かわっている。
となりを、ルーカス様が、あるいていた。ルーカス様の歩きかたは、前のルーカス様より、ちょっと、ゆっくり、だった。おかあさまの歩く速さに、あわせている、ようだった。
ぼくは、ベンチから、立ち上がった。立ち上がりかけて、となりのお父様を、ちらっと、見た。お父様も、立ち上がった。でも、歩きだしては、こなかった。お父様は、ここから、うごかない、と、きめている顔、だった。
だから、ぼくだけ、すこしだけ、前に、歩いた。
歩きながら、ぼくは、おかあさまの、左手を、見た。
うすい手ぶくろの上からでも、やくゆびの、ふくらみが、わかった。指輪。──ルーカス様と、やくそくした指輪。結婚式で、ルーカス様が、ゆっくり、通してくださった、あの指輪。
(……ある)
声には、ださなかった。
でも、むねの、なかで、ひとつ、うごいた。なにが、うごいたのか、じぶんでは、まだ、よく、わからない。でも、うごいた。たぶん、安心の、うごきかた。
おかあさまの指輪が、そこに、ちゃんと、ある。──それが、きょうの、ぼくの、いちばんの、しごとの、こたえ、だったような、気が、した。誰もぼくに、そのしごとを、たのんではいなかった。でも、ぼくは、じぶんで、こっそり、そのしごとを、していた。きょう、それが、終わった。
「レオン」
おかあさまが、しゃがんで、目線を、あわせてくださった。
「お待たせしました」
「……ううん、大丈夫でした」
おかあさまは、ぼくの頬に、手ぶくろの、手の甲を、そっと、あてた。手ぶくろの布のむこうから、おかあさまの、手のあたたかさが、うっすらと、つたわってきた。
「お父様と、何を、していたの」
「……あの、えーと、お父様の、帳面を、見ていました」
「まあ」
「足し算、ちょっとだけ、なおしました」
おかあさまが、わらった。しずかな、わらいかただった。しかってはいなかった。それから、ぼくの後ろの、ベンチの、お父様のほうに、いちど、目を、むけた。
お父様は、立ったまま、すこしだけ、頭を、さげた。
おかあさまは、それに、かえして、おなじくらいの、角度で、頭を、さげた。それだけだった。遠かったけれど、ぼくには、そのやりとりが、あいさつだと、わかった。大人の、あいさつ。きちんと、作法として、かわされた、あいさつ。
ルーカス様は、おかあさまの後ろで、だまって、立っていた。ルーカス様は、きょうは、お父様のほうに、目を、あわせなかった。あわせないのが、きょうの、ただしさだった、と、おもう。あの二人は、きっと、まだ、ふつうに目をあわせる、練習の、とちゅうだ。
◇
べつの馬車が、むかえに、きた。
ぼくは、お父様と、いっしょの馬車にのって、王都のおやしきに、もどる。おかあさまとルーカス様は、べつの宿に、もどる。──今夜は、あえない、けれど、明日、もういちどだけ、みんなで、お会いする、やくそくに、なっていた。
馬車にのるまえに、お父様が、ぼくのとなりに、ひざを、おって、顔を、ちかづけてくださった。
「……レオン」
「はい」
お父様は、しばらく、だまっていた。
言いかけて、何度か、ひきとめて、それでも、結局、ちいさく、仰った。
「……お前、最近、一人称、『私』って言うことも、あるんだって?」
ぼくは、びっくりした。
そのことを、お父様が、知っているとは、おもっていなかった。だれに、聞いたんだろう。──たぶん、マリーカさん。マリーカさんは、うちの王都のおやしきにも、ときどき、お父様の、首の、なにかで、みにくる。きっと、そのときに、ぼくのことを、すこし、はなしていた。
「……はい」
「……そうか」
お父様は、それ以上、仰らなかった。ただ、ぼくの、かみの毛の、てっぺんのあたりを、いちど、ぽん、と、軽く、たたいてくださった。
馬車にのってから、ぼくは、窓から、そとを、見た。
おかあさまと、ルーカス様の、うしろすがたが、ちいさく、見えた。ルーカス様の、おおきな外とうの、かたあたりに、おかあさまの、あたまが、すこしだけ、よりかかっていた。──もたれている、わけじゃ、なかった。ちょっとだけ、かぜの、むきが、そっちだっただけ、かもしれない。
でも、ぼくは、もたれている、ほうだと、おもうことに、した。
むねの、さっきのうごきが、もういっかい、おなじかたちで、うごいた。
きょうのぼくの、こっそりのしごとは、ぜんぶ、ほんとうに、おわった。
あしたの、しごとは、あしたに、する。




