第3話 王都の馬車、三人分の荷物
出発の朝の玄関先は、いつもの朝より、少しだけ、整えすぎていた。
整えすぎているな、と思ったのは、石畳の端の、いつもは放っておかれる落ち葉の一枚までが、今朝は、きちんと、掃き集められていたから、だった。掃いたのは、たぶん、使用人の方ではない。ハンネスさんだ。この人は、何か心配事があると、掃除の仕上げが、妙に、丁寧になる。
「セレナ様、三日後、お帰り、ですねっ」
「はい。三日です」
「シャルロットもー、いってらっしゃい。初めての王都だろ」
「……はい。いってまいります」
隣で、シャルロットが、上着の襟を、指先で、一度だけ、確かめていた。王都行きの、初めての朝。ハンネスさんの声に、頷き返す動作が、普段の経理室よりも、半拍、遅れていた。──緊張している、というのを、この娘さんは、まだ、隠すのが、上手ではない。
私は、何も、言わなかった。緊張は、指摘されるより、自分で呼吸を整えているうちに、勝手に、薄まる種類のもの、だった。
ルーカス様が、馬車のほうへ、先に、歩いていた。
今朝の襟は、立てていた。冬の名残の風が、街道にはまだ、残っている。──マリーカさんの言いつけを、この人は、今年の冬、ちゃんと、守っていた。一度、「立てなくていい日もある」と私が言った朝があったけれど、ルーカス様は、首を横に振って、立てたままだった。
馬車が、動き出した。
◇
街道の揺れは、王都に近づくにつれて、丁寧になっていく。
整備された道ほど、揺れが、細かくなる。細かい揺れというのは、実は、腰に、いちばん、残る。──結婚してから、王都に出る用が増えたぶん、その揺れの名残を、帰りの夜に、自分の腰で、覚えるようになっていた。
向かいの席で、シャルロットが、手元の帳面を、膝の上で、開いていた。王家通商方に持っていく資料の、控えの一冊。シャルロット自身が、先月から、少しずつ、整え直してきたものだった。ハンネスさんから「ひらく」の儀の前段として端のほうを触らせてもらった、あの日から、彼女の書式は、細かいところで、前より、明るくなっていた。
「……シャルロットさん」
「はい」
「その頁、昨日、もう一度、見直したでしょう」
「え、あ、……はい」
「昨夜、経理室の灯り、遅くまで、ついていました」
「……あ、はい、あの、すみません、夜更かしを──」
「叱っているのでは、ないのです。ただ、一度、見直した頁は、王都に着いてからは、もう、いじらないでください」
シャルロットが、ほんの少しだけ、顔を上げた。
「いじると、却って、読みにくくなります。昨夜のあなたの判断が、たぶん、いちばん、まっすぐ、だから」
「……はい」
帳面を、そっと、膝に置き直した。
その手の指の節が、馬車の揺れのたびに、細く、動いていた。緊張のほうは、まだ、抜けていなかった。──抜けないまま、王都に入っていいのだ。抜けた状態で入るほうが、たぶん、怖い。
◇
視界の右下が、一度、薄く、にじんだ。
冬の薔薇園から帰る馬車で、一度、経験した、あの、にじみ方。──涙ではない。眩暈の種類。
座り直した。座り直した自分の動きが、たぶん、向かいのシャルロットの膝の帳面に、ほんの小さく、影を落とした。シャルロットは、気づかなかった。ふりを、してくれた、のかも、しれない。
──隣の席の、ルーカス様のほうは、気づいていた。
視線は、窓の外。外の景色を、見ている格好の、横顔。でも、私の腿のあたりに置いてあった自分の外套を、肩の上まで、持ち上げる動作が、ひとつ、入った。窓の外を見ている人の手の動き、ではなかった。
外套の縁が、私の肩に、乗った。
そのまま、ルーカス様の手が、馬車の前の、小さな格子戸のほうへ、伸びた。御者台との、連絡口。開けて、低い声で、ひと言だけ、仰った。
「……速度、半分に」
それだけだった。
御者の方の返事は、格子戸の向こうで、短く、聞こえた。「承知」。──訊き返さなかった。この屋敷の御者の方は、ルーカス様の短い指示に慣れていた。慣れていない人間は、この声の低さでは、動きづらい。慣れている人間は、この低さで、ちょうど、動ける。
馬車の速度が、落ちた。
揺れの細かさが、ほどけて、ゆっくりとした揺れに、変わった。
ルーカス様は、何も、訊かなかった。
(……訊かないでくれる、ほうが、今は、助かる)
声には、出さなかった。出したら、隣の人が、今度は、訊いてしまう気がした。
◇
王都の宿に、着いた。
冬と春の境目の、王都の空気は、ヴァイス領のそれより、乾いていた。潮の匂いが、ない。代わりに、石畳の、古い水の匂い。──慣れた匂い、だった。七年、この匂いの上で、社交界の微笑みを、毎年、何度も、重ねていた。
宿の、奥の部屋に、三人分の荷物を、運び込んだ。シャルロットには、別の小さな部屋を、一つ、隣に。
荷を解く前に、帳場の方が、小さな封筒を、運んできた。
「ヴァイス伯爵夫人様、ご到着と同時に、と伺っておりました。マッテオ商会からの、先触れでございます」
封蝋は、マッテオさんの店のもの。帯封の絞り方に、見慣れた癖。
開けた。
便箋は、短かった。短いけれど、短さの下に、慎重さが、ぎっしり、敷き詰められた、いつもの、マッテオさんの書き方。
『セレナ様。
王都着、お疲れ様でございます。
先月末から、メルツ男爵家の使いの者が、王家通商方の一部の古参筋に、「ヴァイス伯爵夫人の越権について、申し立てを検討している」という話を、非公式に、配って回っておりました。うちの連合の朝の集まりでも、その話、何度か、耳に入ってきておりました。
本日、朝の時点で──その申し立て、動きが、止まっております。
王妃陛下ご自身のお耳に、話が入ったようで、ご個人のお立場から、「王家として、ヴァイス伯爵夫人の招聘は、既に決定済みの公式事項」と、通商方の古参筋に、書面で、念を押されたとのこと。書面の写し、うちには届いておりません。ただ、古参筋の方々の朝の顔色だけは、うちの連合の者が、確認済みでございます。
──使いの者の足音は、今朝の王都では、聞こえなくなっております。
三日間、ご滞在、つつがなく。
マッテオ』
私は、便箋を、二度、読み直した。
二度目のほうが、一度目より、胸の奥が、ほんの少しだけ、軽くなった。
(……届く前に、倒れていた)
声には、出さなかった。出したら、部屋の向こうで荷を解いているシャルロットが、振り向いてしまう。
メルツ家の使いの足音を、この半年、私は、自分の耳のどこかで、薄く、聞き続けていた。春に、マッテオさんが経理室まで持ってきてくれた、あの話の、続き。続きを、この人たちは、たぶん、冬の間、細く、長く、温めていた。温めて、温めて、王都で放とうとした瞬間に、王妃陛下という別の火で、先に、消されていた。
消されたこと自体には、爽快、というほどの熱は、なかった。あるとすれば、「この人たちは、もう、私の仕事の邪魔を、大きくは、できない」という、静かな、安心、だった。──安心、というのは、たぶん、爽快より、長く続く。
便箋を、畳んだ。
畳み終えた手が、ほんの一瞬、止まった。止まったのを、自分で、気づいた。──さっきの馬車の眩暈の余韻が、まだ、指の先に、残っていた。
◇
夜。
シャルロットは、隣室で、もう、休んでいた。
私は、部屋の窓辺で、乾いた王都の空気を、細く、吸っていた。明日からの、三日。初日は、王家通商方の、顔合わせ。二日目から、本題の書式説明会。頭の中では、すでに、明日の進行表が、きちんと、並んでいた。並んでいるのに、指が、落ち着かなかった。
背後で、ルーカス様の声が、した。
「……セレナ」
「はい」
「……体、何か、あるのか」
振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、顔に、何か、出てしまう。
「……分かりません」
自分の声が、自分でも、少しだけ、遅かった。
「分からないのは、本当です。ただ、冬の旅が、何度か、続きましたから。──王都から戻ったら、マリーカ様に、一度、見ていただこうと、思っております」
「ああ」
ルーカス様は、それ以上、訊かなかった。窓辺のほうへ、歩いてきて、私の肩の外套の縁を、もう一度だけ、整え直した。手の動きは、馬車のそれと、同じ動きだった。整え終わったあと、手は、すぐには、離れなかった。ほんの短い時間、外套の、肩の縫い目のあたりに、置いたままだった。
「……帰ったら、な」
「はい」
それ以上は、仰らなかった。
仰らないのが、今夜のこの人の、優しさの、かたちだった。
窓の外で、王都の夜が、広がっていた。雪の名残が、石畳の端に、薄く、溶け残っていた。溶け残った冬と、乾き始めた春の、境目の夜、だった。
膝の上で、私の指が、もう一度、意味もなく、一度だけ、動いた。動いた自分の指を、自分で、反対の手で、静かに、押さえた。
明日の朝は、王家通商方の、長い廊下を、歩くことに、なる。歩くのは、私一人ではない。──それだけが、今夜、枕を高くしてくれる、ただ一つ、の、事実だった。




