第2話 震える字で、薔薇の蔦を
冬の薔薇園は、春先よりも、蔦の太さが、よく見える。
葉が全部落ちて、枝と茎と蔦だけが、鉄のアーチの上に、残っている。残っているものしか、見えない季節だった。その見え方が、私には、悪くなかった。
馬車を降りたのは、王都の中心から少し外れた、旧い貴族の住まいが並ぶ通りの奥。春に、一度だけ来た場所。鉄細工の門の、剥げた塗装のうえに、年末の乾いた空気が、薄く張りついていた。
「……では、俺は、ここで」
ルーカス様の声が、御者台のすぐ後ろから、落ちてきた。
春と、同じ位置だった。同じように、窓を細く開けて、外の空気を入れていた。襟は、立てていた。冬の王都の風は、この人の喉には、まだ、障る。
「はい。行ってまいります」
「ああ」
それだけだった。それだけで、今日も、足りた。
門を、ひとりで、潜った。
◇
砂利を踏む音が、春のそれより、硬かった。
乾いているぶん、石のかたちが、靴の底に、はっきり、伝わってくる。春には、土の湿りで、音がもっと柔らかかった。──半年ぶりの訪問なのに、私の耳は、そういう違いを、先に、覚えていた。
アーチの下まで、進んだ。
奥のベンチに、小さな影が、ひとつ。
春には、しゃがんで、蔦の根元を、指でいじっていた方だった。今日は、しゃがんでは、いなかった。ベンチに、腰かけて、膝の上に、毛布を、一枚、かけていた。誰かが、かけてくれたのだろう。ご自分ではない。ご自分では、今日のこの方は、毛布を、膝の上までは、持ち上げられなかったかもしれない。
背筋だけは、まだ、伸びていた。
そこだけ、春と、同じだった。
「……ようこそ」
声の、低さは、春と同じ。ただ、声の、続く長さが、半分だった。半分のところで、呼吸を、一度、挟んでおいででした。
「ご無沙汰しております、マルガレーテ様」
並んで座れる距離のところに、腰を下ろした。
ベンチの、もう半分。半年前、初めて隣に座った時と、同じ位置だった。
◇
しばらく、何も、話さなかった。
話さないことが、今日は、礼儀のかたち、だった。冬の薔薇園は、話さない時間のほうが、ずっと、似合っていた。枝と蔦の、乾いた音。遠くで、鳥の声。──そういうもののほうが、今日のこの方の、口の代わりに、なっていた。
やがて、膝の上の毛布の、端を、マルガレーテ様の指が、一度だけ、撫でた。
撫でた指が、春より、細かった。骨の形が、袖口から、うっすら、見えていた。
「……残りの帳簿を、持ってきていただけたかしら」
「はい」
侍女の方が、奥の玄関から、運んできてくださった。古い革の、小さな箱。春に、いちばん古い一冊を、ベンチで受け取った時の、あの箱だった。今日は、その中に、続きの冊子が、何冊か、並んで、入っていた。
「全部で、九冊」
マルガレーテ様が、数を、小さく、仰った。
「春に、あなたにお渡ししたのが、最初の一冊。残り、八冊。今日、お渡しします」
「……はい」
「私のほうで、もう、預かっていられる年数が、そう、長くはございませんので」
私は、顔を、上げなかった。上げたら、この方に、失礼な表情を、お見せしてしまう気がした。
「……承知いたしました。お預かりいたします」
箱の、蓋を、開けた。
革の匂いが、薄く、立ち上がった。春に嗅いだのと、同じ匂い。──三十年、同じ棚に並んでいた冊子の、同じ匂い、だった。
◇
マルガレーテ様が、いちばん上の、一冊の背表紙に、指を、置いた。
震えていた。
春の時より、一段、はっきりと、震えていた。でも、震えている指のほうが、なぜか、三十年前のこの方の筆跡を、今、手元に引き寄せている感じが、した。
「これは、二冊目」
ゆっくりと、仰った。
「最初の一冊を書き終えた冬、もう一冊、始めようとして、机の前で、ペンが、下りなかった冊子」
「……下りなかった」
「ええ。書き出しを、三回、書き直しました。三回とも、うまく書けなくて、結局、四回目で、諦めて、普通の書き出しに、しました」
マルガレーテ様は、少しだけ、目元を、細められた。笑ったのではなかった。笑う、の、ひとつ手前の、目の細め方、だった。ルーカス様が時々する、あの、細め方と、少しだけ、似ていた。
「三回、書き直したことを、私、誰にも、言っていなかったのです。誰にも、言わないまま、三十年、経ちました」
「……」
「今日、あなたに、お話ししました。──これで、一つ、減りました」
──減った。
長くここに残しておけないものが、ひとつ、この方の中から、減った。その減り方が、私の頬のあたりを、少しだけ、熱くした。熱いのを、外の風の冷たさで、すぐに、冷ました。
「最初の一頁を、一緒に、お開きいただけないでしょうか」
「……はい」
二冊目の、表紙を、開いた。
若い筆跡。春に渡された一冊目と、同じ、若さの、字。頁の上に、几帳面な罫線。罫線の上に、冬の、厨房の記録。塩。油。薪の在庫。──家の、帳簿。三十年前の、この屋敷の、台所の、あたりまえの、毎日。
マルガレーテ様の指が、いちばん上の日付の、横を、一度だけ、撫でた。
「……ここから、始めた冬でした」
仰った声の、最後のほうが、少しだけ、掠れた。
掠れを、私は、聞かなかったふりを、しなかった。聞いた。聞いたけれど、言葉では、拾わなかった。拾うのは、失礼だった。この方の掠れは、この方のものだった。
代わりに、指を、そっと、頁の余白に、置いた。マルガレーテ様の指と、私の指が、紙の上で、短い距離を、保ったまま、並んだ。
紙の白さが、二つの指を、静かに、繋いでいた。
◇
日の傾き始める前に、辞した。
ベンチから、門まで、一緒に、歩こうとしてくださったけれど、途中で、ご自分で、「ここまで」と、仰った。アーチの、ちょうど、真下で。
蔦の、乾いた枝が、頭の上で、組まれていた。
「……セレナ様」
「はい」
マルガレーテ様の手が、アーチの脇の、小さな鉢のほうへ、伸びた。鉢の中に、冬の薔薇の、小さな蕾が、一つだけ、咲きかけのまま、残っていた。赤よりは、薄い、淡い色。春までは、咲けないだろうと、一目で、分かる蕾、だった。
その、蕾の、枝を、鋏で、一本、切ってくださった。
鋏の持ち方は、春のそれより、ずっと、頼りなかった。でも、切り口は、まっすぐ、だった。
「これ、お持ちになって」
「……よろしいのですか」
「ええ。──お宅の、花壇に、置いていただけたら、嬉しゅうございます」
受け取った。
枝の、切り口の、少しだけ濡れた感触が、手袋の上から、うっすら、伝わってきた。
「ありがとうございます」
それ以上、何も、言わなかった。マルガレーテ様も、何も、仰らなかった。
アーチの下で、一度だけ、私のほうから、深く、頭を下げた。この方が、春のあの日、大聖堂の広間で、下げられなかった会釈の、返事、だった。──そう考えたのは、私の勝手。でも、勝手な考えを、今日は、自分に、許した。
◇
帰りの馬車。
箱を、膝の上に、置いていた。革の表面に、夕方の、斜めの光が、薄く、乗っていた。
「……お渡しいただけたか」
「はい。八冊、全部」
「……そうか」
ルーカス様は、窓の外を、見ていた。王都の、夕方の、灯り。春には、同じ窓から、同じ景色を、見ていた。同じ、はずだった。
私は、膝の上の箱の、縁を、指で、一度だけ、なぞった。なぞったあと、その指を、隣の席のほうへ、少しだけ、伸ばした。
途中で、気づいた。
ルーカス様の手のひらが、先に、上を向いていた。
膝の横。指の、ちょうど、届く場所で。私の指が、そこに、辿り着くのを、待っていた。
「──……」
声には、出さなかった。出すと、この人の喉に、障る。
指先を、その手のひらの上に、置いた。ルーカス様は、いつもの、剣だこのある硬い手で、ゆっくりと、私の指を、包んでくれた。
馬車の、揺れに合わせて、指が、かすかに、動いた。
その時だった。
視界の端が、ほんの少しだけ、滲んだ。
涙では、なかった。眩暈の、種類の、にじみ。冬の長旅の、疲れ、だと思った。──思いたかった、が、正しいのかもしれない。
「……セレナ」
「大丈夫です。少し、目を、閉じています」
「ああ」
ルーカス様の手は、離れなかった。私の指を、離さずに、馬車の、残りの揺れを、二人で、数えた。
◇
夜、自室に戻ってから、机の上に、箱を置いた。
九冊のうちの、八冊。──春に受け取った一冊と合わせれば、九冊。三十年分の、誰にも渡されなかった家の、全部。
上から、三冊目を、引き抜いた。
一番薄い、一冊だった。三冊目だけ、背表紙に、小さな、擦り切れ方があった。他の冊子より、よく、開かれた、跡。表紙を、開いた。
一頁目の、いちばん下の、余白。
古いインクの跡。ごく小さな、署名のようなもの。
『S.F.』
頭文字だけ。ほとんど、染みに、近い、薄さ。
マルガレーテ様の筆跡ではなかった。もっと、若い、女の字、だった。
(……S.F.)
指が、止まった。
私の生家の、頭文字。──フェルゼン。
同じ頭文字を持つ家は、王都にも、他の領地にも、いくつか、ある。偶然、と、思うのが、いちばん、自然、だった。
でも。
窓の外で、雪が、また、少しだけ、降り始めていた。
机の端に、冬の薔薇の、小さな蕾の、枝を、挿した。水を、細い花瓶に、入れた。花瓶の水面に、燭台の灯りが、細く、折れて、映った。
三冊目を、閉じた。
閉じてから、しばらく、両手を、箱の革の上に、置いていた。革は、三十年分の、温度を、持っていた。──持っていないのに、そう、感じた。
S.F.の、頭文字が、まぶたの裏に、まだ、残っていた。
今夜、この頭文字を、誰かに訊くには、この屋敷の廊下は、少し、長すぎた。




