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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第4章

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第2話 震える字で、薔薇の蔦を


 冬の薔薇園は、春先よりも、蔦の太さが、よく見える。


 葉が全部落ちて、枝と茎と蔦だけが、鉄のアーチの上に、残っている。残っているものしか、見えない季節だった。その見え方が、私には、悪くなかった。


 馬車を降りたのは、王都の中心から少し外れた、旧い貴族の住まいが並ぶ通りの奥。春に、一度だけ来た場所。鉄細工の門の、剥げた塗装のうえに、年末の乾いた空気が、薄く張りついていた。


「……では、俺は、ここで」


 ルーカス様の声が、御者台のすぐ後ろから、落ちてきた。


 春と、同じ位置だった。同じように、窓を細く開けて、外の空気を入れていた。襟は、立てていた。冬の王都の風は、この人の喉には、まだ、障る。


「はい。行ってまいります」


「ああ」


 それだけだった。それだけで、今日も、足りた。


 門を、ひとりで、潜った。


     ◇


 砂利を踏む音が、春のそれより、硬かった。


 乾いているぶん、石のかたちが、靴の底に、はっきり、伝わってくる。春には、土の湿りで、音がもっと柔らかかった。──半年ぶりの訪問なのに、私の耳は、そういう違いを、先に、覚えていた。


 アーチの下まで、進んだ。


 奥のベンチに、小さな影が、ひとつ。


 春には、しゃがんで、蔦の根元を、指でいじっていた方だった。今日は、しゃがんでは、いなかった。ベンチに、腰かけて、膝の上に、毛布を、一枚、かけていた。誰かが、かけてくれたのだろう。ご自分ではない。ご自分では、今日のこの方は、毛布を、膝の上までは、持ち上げられなかったかもしれない。


 背筋だけは、まだ、伸びていた。


 そこだけ、春と、同じだった。


「……ようこそ」


 声の、低さは、春と同じ。ただ、声の、続く長さが、半分だった。半分のところで、呼吸を、一度、挟んでおいででした。


「ご無沙汰しております、マルガレーテ様」


 並んで座れる距離のところに、腰を下ろした。


 ベンチの、もう半分。半年前、初めて隣に座った時と、同じ位置だった。


     ◇


 しばらく、何も、話さなかった。


 話さないことが、今日は、礼儀のかたち、だった。冬の薔薇園は、話さない時間のほうが、ずっと、似合っていた。枝と蔦の、乾いた音。遠くで、鳥の声。──そういうもののほうが、今日のこの方の、口の代わりに、なっていた。


 やがて、膝の上の毛布の、端を、マルガレーテ様の指が、一度だけ、撫でた。


 撫でた指が、春より、細かった。骨の形が、袖口から、うっすら、見えていた。


「……残りの帳簿を、持ってきていただけたかしら」


「はい」


 侍女の方が、奥の玄関から、運んできてくださった。古い革の、小さな箱。春に、いちばん古い一冊を、ベンチで受け取った時の、あの箱だった。今日は、その中に、続きの冊子が、何冊か、並んで、入っていた。


「全部で、九冊」


 マルガレーテ様が、数を、小さく、仰った。


「春に、あなたにお渡ししたのが、最初の一冊。残り、八冊。今日、お渡しします」


「……はい」


「私のほうで、もう、預かっていられる年数が、そう、長くはございませんので」


 私は、顔を、上げなかった。上げたら、この方に、失礼な表情を、お見せしてしまう気がした。


「……承知いたしました。お預かりいたします」


 箱の、蓋を、開けた。


 革の匂いが、薄く、立ち上がった。春に嗅いだのと、同じ匂い。──三十年、同じ棚に並んでいた冊子の、同じ匂い、だった。


     ◇


 マルガレーテ様が、いちばん上の、一冊の背表紙に、指を、置いた。


 震えていた。


 春の時より、一段、はっきりと、震えていた。でも、震えている指のほうが、なぜか、三十年前のこの方の筆跡を、今、手元に引き寄せている感じが、した。


「これは、二冊目」


 ゆっくりと、仰った。


「最初の一冊を書き終えた冬、もう一冊、始めようとして、机の前で、ペンが、下りなかった冊子」


「……下りなかった」


「ええ。書き出しを、三回、書き直しました。三回とも、うまく書けなくて、結局、四回目で、諦めて、普通の書き出しに、しました」


 マルガレーテ様は、少しだけ、目元を、細められた。笑ったのではなかった。笑う、の、ひとつ手前の、目の細め方、だった。ルーカス様が時々する、あの、細め方と、少しだけ、似ていた。


「三回、書き直したことを、私、誰にも、言っていなかったのです。誰にも、言わないまま、三十年、経ちました」


「……」


「今日、あなたに、お話ししました。──これで、一つ、減りました」


 ──減った。


 長くここに残しておけないものが、ひとつ、この方の中から、減った。その減り方が、私の頬のあたりを、少しだけ、熱くした。熱いのを、外の風の冷たさで、すぐに、冷ました。


「最初の一頁を、一緒に、お開きいただけないでしょうか」


「……はい」


 二冊目の、表紙を、開いた。


 若い筆跡。春に渡された一冊目と、同じ、若さの、字。頁の上に、几帳面な罫線。罫線の上に、冬の、厨房の記録。塩。油。薪の在庫。──家の、帳簿。三十年前の、この屋敷の、台所の、あたりまえの、毎日。


 マルガレーテ様の指が、いちばん上の日付の、横を、一度だけ、撫でた。


「……ここから、始めた冬でした」


 仰った声の、最後のほうが、少しだけ、掠れた。


 掠れを、私は、聞かなかったふりを、しなかった。聞いた。聞いたけれど、言葉では、拾わなかった。拾うのは、失礼だった。この方の掠れは、この方のものだった。


 代わりに、指を、そっと、頁の余白に、置いた。マルガレーテ様の指と、私の指が、紙の上で、短い距離を、保ったまま、並んだ。


 紙の白さが、二つの指を、静かに、繋いでいた。


     ◇


 日の傾き始める前に、辞した。


 ベンチから、門まで、一緒に、歩こうとしてくださったけれど、途中で、ご自分で、「ここまで」と、仰った。アーチの、ちょうど、真下で。


 蔦の、乾いた枝が、頭の上で、組まれていた。


「……セレナ様」


「はい」


 マルガレーテ様の手が、アーチの脇の、小さな鉢のほうへ、伸びた。鉢の中に、冬の薔薇の、小さな蕾が、一つだけ、咲きかけのまま、残っていた。赤よりは、薄い、淡い色。春までは、咲けないだろうと、一目で、分かる蕾、だった。


 その、蕾の、枝を、鋏で、一本、切ってくださった。


 鋏の持ち方は、春のそれより、ずっと、頼りなかった。でも、切り口は、まっすぐ、だった。


「これ、お持ちになって」


「……よろしいのですか」


「ええ。──お宅の、花壇に、置いていただけたら、嬉しゅうございます」


 受け取った。


 枝の、切り口の、少しだけ濡れた感触が、手袋の上から、うっすら、伝わってきた。


「ありがとうございます」


 それ以上、何も、言わなかった。マルガレーテ様も、何も、仰らなかった。


 アーチの下で、一度だけ、私のほうから、深く、頭を下げた。この方が、春のあの日、大聖堂の広間で、下げられなかった会釈の、返事、だった。──そう考えたのは、私の勝手。でも、勝手な考えを、今日は、自分に、許した。


     ◇


 帰りの馬車。


 箱を、膝の上に、置いていた。革の表面に、夕方の、斜めの光が、薄く、乗っていた。


「……お渡しいただけたか」


「はい。八冊、全部」


「……そうか」


 ルーカス様は、窓の外を、見ていた。王都の、夕方の、灯り。春には、同じ窓から、同じ景色を、見ていた。同じ、はずだった。


 私は、膝の上の箱の、縁を、指で、一度だけ、なぞった。なぞったあと、その指を、隣の席のほうへ、少しだけ、伸ばした。


 途中で、気づいた。


 ルーカス様の手のひらが、先に、上を向いていた。


 膝の横。指の、ちょうど、届く場所で。私の指が、そこに、辿り着くのを、待っていた。


「──……」


 声には、出さなかった。出すと、この人の喉に、障る。


 指先を、その手のひらの上に、置いた。ルーカス様は、いつもの、剣だこのある硬い手で、ゆっくりと、私の指を、包んでくれた。


 馬車の、揺れに合わせて、指が、かすかに、動いた。


 その時だった。


 視界の端が、ほんの少しだけ、滲んだ。


 涙では、なかった。眩暈の、種類の、にじみ。冬の長旅の、疲れ、だと思った。──思いたかった、が、正しいのかもしれない。


「……セレナ」


「大丈夫です。少し、目を、閉じています」


「ああ」


 ルーカス様の手は、離れなかった。私の指を、離さずに、馬車の、残りの揺れを、二人で、数えた。


     ◇


 夜、自室に戻ってから、机の上に、箱を置いた。


 九冊のうちの、八冊。──春に受け取った一冊と合わせれば、九冊。三十年分の、誰にも渡されなかった家の、全部。


 上から、三冊目を、引き抜いた。


 一番薄い、一冊だった。三冊目だけ、背表紙に、小さな、擦り切れ方があった。他の冊子より、よく、開かれた、跡。表紙を、開いた。


 一頁目の、いちばん下の、余白。


 古いインクの跡。ごく小さな、署名のようなもの。


『S.F.』


 頭文字だけ。ほとんど、染みに、近い、薄さ。


 マルガレーテ様の筆跡ではなかった。もっと、若い、女の字、だった。


(……S.F.)


 指が、止まった。


 私の生家の、頭文字。──フェルゼン。


 同じ頭文字を持つ家は、王都にも、他の領地にも、いくつか、ある。偶然、と、思うのが、いちばん、自然、だった。


 でも。


 窓の外で、雪が、また、少しだけ、降り始めていた。


 机の端に、冬の薔薇の、小さな蕾の、枝を、挿した。水を、細い花瓶に、入れた。花瓶の水面に、燭台の灯りが、細く、折れて、映った。


 三冊目を、閉じた。


 閉じてから、しばらく、両手を、箱の革の上に、置いていた。革は、三十年分の、温度を、持っていた。──持っていないのに、そう、感じた。


 S.F.の、頭文字が、まぶたの裏に、まだ、残っていた。


 今夜、この頭文字を、誰かに訊くには、この屋敷の廊下は、少し、長すぎた。

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