第1話 冬の三杯目の茶
冬の朝に届く書簡というものは、夏のそれより、紙の感触が、少しだけ、重い。
寒さで紙の繊維が締まるのか、それとも受け取る側の指の感覚のほうが、冬は鈍くなるのか。──毎年、冬の最初の書簡を受け取る朝に、同じことを思う。今年もまた、思った。
経理室の窓を、いつもの幅より一指ぶんだけ、狭く開けた。
潮風は、夏より乾いていた。乾いた風の中に、海の遠い匂いが、薄く混じっている。冬のヴァイス領の朝は、こういう匂いから、始まる。──去年も、一昨年も、たぶん、同じ匂いだった。匂いは変わらないのに、机の前に立っている人数だけが、年ごとに、変わっていく。
花壇を広げた春の朝から、季節が、ふたつ、過ぎていた。
◇
「セレナ様、おはようございますっ」
「おはようございますっ」
ふたつの声が、ほとんど同時に、机の向こうから飛んできた。
地元青年のオスカーと、商会連合出向のシャルロット。半年前、夏の終わりに来たばかりの娘さんは、もう、この経理室の朝の挨拶を、自分の声の高さで、ちゃんと、出せるようになっていた。最初の頃は、語尾が震えていた。今は、震えない。
「おはようございます。今日も、よろしくお願いします」
返してから、自分の机の前に、座った。
机の端に、もう、茶が、置いてあった。
今朝のは、レモンバームだった。湯気が、まだ、薄く立っていた。──置きにきた人は、もう、ここにはいない。朝の見回りに、先に出た。冬の見回りは、夏より、少しだけ、長い。
茶碗の位置が、いつもより、半指ぶんだけ、こちら側に寄っていた。
昨日の朝、私が「茶碗を取るのに、肘が、書類の角に当たって」と、ハンネスさんに笑い話のひとつとして言ったのを、たぶん、誰かが、聞いていた。聞いていて、置く位置を、半指ぶんだけ、ずらした。──聞いていた人は、私には、訊いてこなかった。訊かないまま、ただ、位置を、変えていた。
(……気づくの、私が、二日めっ)
声には、出さなかった。出したら、シャルロットが顔を上げて、「セレナ様、なにか」と、訊いてしまう。今朝のこの気づきは、私の机の上だけで、終わらせておきたかった。
茶碗を、両手で、包んだ。
温度は、いつも通り。今朝も、いつも通り、だった。
◇
午前中の仕事を、半分ほど進めたところで、廊下の足音が、いつもの形で、聞こえた。
「セレナ様ー! 王都から、早便、来てまーす」
ハンネスさんの声だった。冬の見回りから戻ってきたばかりの、まだ、外気の冷たさを連れた声。──去年の冬の声と、ほとんど、同じ歩幅だった。歩き方だけは、副官という職業を辞めても、たぶん、この人は、変わらない。
扉が、開いた。
差し出された封筒の蝋を、見た。
王家のもの。ただし、公式の行政の紋ではなかった。片隅に、小さな、もうひとつ別の紋が、併記されていた。
──王妃陛下の、個人紋。
春に届いたのと、同じ紋、だった。
「……ありがとうございます」
「ご返事、急ぎですか?」
「いえ、たぶん、日程の確定だけです。今、開けます」
ペーパーナイフを、引き出しから出した。引き出しの一段目、いつもの位置。指の動きが、いつも通り、だった。──いつも通り、というのは、いつもより、ほんの少しだけ、慎重な動き、ということでもあった。
封を、切った。
便箋は、一枚だけ。短かった。短いけれど、短さの作り方に、相変わらず、気を遣った痕が、残っていた。
『ヴァイス伯爵夫人 セレナ様へ。
お変わりなく、お過ごしのこと、何よりに存じます。
春先のご相談の件、王家通商方との日程が、確定いたしました。
来春、第三月の第二旬。三日間のご滞在を、お願い申し上げます。
ご都合に難があれば、いつでも、書面にて、お知らせくださいませ。
王妃』
最後の一行のところで、指が、止まった。
止まったのは、文面のせいではなかった。文面は、丁寧で、強制でもなく、押し付けでもない。──ただ、「来春」の、その一語を、自分の指で、紙の上から拾った瞬間、息の下半分が、少しだけ、軽くなった。それから、すぐに、また重くなった。軽くなったり重くなったりする胸を、自分でもうまく説明できないまま、便箋を、二度、ゆっくり、畳んだ。
(……来春)
春が、もう一度、来る。来春の自分は、今日の私と、どのくらい、違う場所に、立っているのだろう。
便箋を、引き出しの一番上に、入れた。鍵は、かけなかった。かける相手も、いなかった。
◇
昼前に、もうひとつ、廊下の足音が、聞こえた。
ハンネスさんの足音ではなかった。歩幅が、半分。ただし、息の継ぎ方が、ない。
「セレナ様ー! マリーカ様、ご到着です! いやもう本当に、王都の街道、今年は雪の入りが早くて、馬車が二回ぬかるみで──」
扉の手前で、ハンネスさんの声を、追い越して、別の声が、入ってきた。
「ハンネスさん、その話、もう、応接間で、二回はしましたよね、ふふ」
マリーカさんの、息継ぎをしない笑顔だった。
冬の旅装の上に、軍医局の細い徽章が、ひとつ。婚礼の日と、同じ位置に、ついていた。
「セレナ様、ご無沙汰しております! ルーカス様の、定期診察に、お邪魔いたしましたっ。冬季の、喉のほうの、定例の確認ですので、お時間は、半刻だけいただければ──」
マリーカさんが、応接間の扉を半分開けたところで、視線を、こちらに、一度、向けた。
軍医の目だった。
一瞬で、私の顔の、たぶん、頬と、目の下のあたりを、見た。
見て、すぐに、笑顔の側に、戻した。
戻し方が、ほんの少しだけ、ゆっくり、だった。──気のせい、かもしれない。
「あ、それから、ルーカス様、見回りからお戻りになって、執務室に、おいでです。今、ハンネスさんが、お呼びに行ってくださってます」
「はい。私も、伺います」
立ち上がった。立ち上がる時に、机の端の茶碗が、空になっていた。──いつ飲み干したのか、自分で、覚えていなかった。
◇
ルーカス様の喉の、診察は、無事に、終わった。
「合格ですっ。冬の出始めとしては、上々の状態ですよ。襟、立てる回数を、もうひと冬、続けてくださいね。──春になったら、立てなくて、いいです」
マリーカさんの、いつもの、軽いまとめ方だった。ルーカス様は、頷いた。返事は、声では、なかった。
応接間で、お茶を、四杯、出した。
一杯目はマリーカさん、二杯目はルーカス様、三杯目は私、四杯目は──ハンネスさん。シャルロットも、オスカーも、午前の頁の続きで、机から、動けなかった。今朝の経理室の三杯と、応接間の四杯。──同じ屋敷の、同じ時間に、七つの茶碗が、別の場所で、別の人の手に、置かれている。
マリーカさんが、湯呑みを置いて、にこやかに、私のほうを見た。
「ヴァイス領のお茶は、本当に、渋みがないですねー。何度いただいても、これだけは、王都には負けないんですよ、ふふ」
去年の冬と、同じ台詞だった。
台詞が同じことに、気づいて、私のほうが、少しだけ、笑ってしまった。マリーカさんは、こちらが笑った理由を、訊かなかった。代わりに、湯呑みを、もうひとくち、傾けた。
◇
夕方、マリーカさんを、玄関先で、見送った。
馬車の扉が、半分、閉まりかけて。
マリーカさんが、もう一度、こちらを、振り返った。
「……セレナ様」
「はい」
「最近、よく、眠れていますか?」
軍医の声では、なかった。世間話の声、でも、なかった。──そのちょうど、真ん中の声、だった。
「……眠れて、いるとは、思います。冬は、朝が、少しだけ、起きづらいですけれど」
「そうですか」
マリーカさんは、それ以上、訊かなかった。頷いて、にこやかに、もう一度、笑った。
「次の定期は、また、来月に。お風邪、召されませんように」
馬車の扉が、閉まった。
車輪が、雪混じりの石畳を、ゆっくり、噛みながら、門のほうへ、戻っていった。
◇
夜。
ルーカス様の執務室で、王妃陛下の便箋を、机の上に、置いた。来春の日程の、その一行のところを、ルーカス様の側から読める向きに、整えて。
ルーカス様は、読んだ。今夜は、飛ばさなかった。短いけれど、ちゃんと、追っていた。
「……来春、か」
「はい」
「お前の、仕事だ」
「ええ」
「──お前の、行きたいように、行け」
春の朝、花壇の前で言われた、ひと言と、同じ、ひと言だった。
同じだったのに、今夜の声色は、春のそれより、ほんの少しだけ、低かった。低いのは、夜のせい、かもしれない。それとも、冬の喉の、襟の内側に、まだ、半分だけ残っている、古い線のせい、かもしれない。
私が便箋を畳んでいる間に、ルーカス様が、椅子から立ち上がっていた。
外套を、ひとつ、手に取った。冬の見回りで使っている、軍用ではない、柔らかいほうの外套。私の肩の上に、ゆっくりと、かけ直された。
昼間、応接間で、私が肩掛けを忘れていたのに、たぶん、気づいていた。気づいていて、何も言わずに、夜まで、待っていた。
「……ありがとうございます」
「ああ」
短い返事だった。
肩の上の重さが、ほのかに、温かかった。
窓の外で、冬の最初の雪が、薄く、降り始めていた。
(……来春には、私、どこに、いるのだろう)
声には、出さなかった。
出さなくても、肩の外套の重さが、答えを、半分だけ、こちらに、預けてくれていた。残りの半分は、たぶん、来春の自分が、自分で、見つけにいく分、だった。
机の端に、空の茶碗が、四つ、まだ、置いたままだった。誰かが、明日の朝、片付けてくれる。誰が、というのは、もう、訊かなくても、いい。




