第15話 花壇を、広げる朝
春の、いちばん最初の朝は、去年の春より、目覚めが、少しだけ、遅くなった。
遅くなった、というのは、怠けた、という話では、ない。朝の経理室に、いちばん乗りで入らなくても、今は、回る。私より先に、鍵を開ける人が、ひとり、増えた。正確には、ひとり増えて、そのあと、もうひとり増えかけている。今朝の経理室の扉は、私が廊下の角を曲がった時には、もう、半分だけ、開いていた。
引き継ぎの儀を執り行った、あの夏から、季節が、ひとめぐり、した。
そのあいだに、ヴァイス領では、いろいろなことが、少しずつ、起きていた。五年に一度の通商条約は、ノルデン王国との間で、無事に、改定の運びとなった。カスパル様は、二度目の会談のあとで、もう、国境の会談場には、いらっしゃらなかった。「次の代の人間に、席を、渡しました」と、短いご挨拶の文で、ヴァイス領に、知らせが届いた。あの方の、外交官らしい、静かな退き方、だった。
秋には、マルガレーテ様の薔薇園で、蔦に、小さな蕾が、戻ってきた。便箋の字は、少しずつ、震えが、増えていた。返事を書いた。長くは、書かなかった。けれど、年末に、一度、薔薇園の手入れを、見に伺う約束を、取り付けた。
冬には、アルベルト様から、また、一通。『今月の進捗』という題字だけが書かれた、短い手紙だった。便箋の欄外に、レオンの、ひらがなの書き込みが、一行、追加で、あった。『おとうさまは、こんげつ、けいさんを、じぶんでしめました』。あの子の字は、去年より、少しだけ、まっすぐ、になっていた。
そして、ハンネスさんの育てた新しい冊子には、いまや、薄い青の魔力紋が、ちゃんとした色で、頁の端にまで、育っていた。頁数も、去年の倍に、なっていた。
◇
「セレナ様、おはようございまーす」
扉の向こうで、副官の声が、朝のいつもの勢いで、飛んできた。今年の初めから、ハンネスさんの呼び方が、「セレナ殿」から、「セレナ様」に、ちゃんと、変わった。「結婚されてもう丸一年なんで、さすがに、そろそろっす」と、照れながら、自分で、切り替えた。
扉を開けて、中に入った。
経理室の、私の机の向こう側に、若い事務官が、ふたり、既に、座っていた。ひとりは、半年前から勤め始めた、地元の青年。もうひとりは、先月から来たばかりの、王都の商会連合からの出向の、年若い娘さん。マッテオさんが、「うちの連合の、若い子を、ヴァイス領の書式で、育ててもらえませんか」と、相談に来た時からの、受け入れだった。
「セレナ様、おはようございますっ」
「おはようございます」
ふたりの机の上には、ハンネスさんが、去年、「本書単体での完結は、意図しない」という注釈から始めた、あの書式の、最新の改訂版が、広げてあった。改訂版の表紙には、ハンネスさんの字と、地元青年の字と、そして娘さんの字、それぞれの手跡が、小さく、横に並んでいた。──書式が、一人で書かれるものではなくなって、一年と、少し、経っていた。
机の端には、もう、温かい茶が、置いてあった。
今朝は、三杯、だった。
いちばん左の、私の定位置のところに、レモンバーム。真ん中、娘さんのところに、カモミール。右の、青年のところに、ペパーミント。ひとり、ひとりに、違う種類を、この人が、用意していた。──私の好みだけを覚えるのは、もう、この屋敷の朝の決まりごとの、半分にしか、なっていなかった。残りの半分は、「その日、机の前に座る人の好み」に、広がっていた。
茶碗を、両手で、包んだ。
温度が、いつもの温度だった。
◇
しばらく、若い事務官の、頁の確認を、横で、見ていた。
娘さんのペンの持ち方が、少しだけ硬かったので、「ペン軸、細いものに替えてみてくださいね」と、ひと言、伝えた。言ってから、少しだけ、自分で、おかしくなった。──去年、レオンに初めて子供用の書見台で書かせた時に、「軸の細いものを」と、頭の隅で思ったのと、同じ言葉だった。子供と、大人の、境界線は、ペンの軸の太さで測れるほど、単純なものでは、ないのだろう。
青年のほうは、もう、私の手を借りずに、ひとつの頁を、最後まで、締めていた。締め方は、まだ、少しだけ、型が古かった。けれど、型が古いのは、慣れれば直る類のことで、根本が危うい類のことでは、なかった。──ハンネスさんが、後ろで、腕を組んで、目だけで、頷いていた。
ハンネスさんが、不意に、声を、落として、言った。
「……セレナ様」
「はい」
「今日の午後、あの子に、ちょっと、読ませてみてもいいですか」
「──どちらの、あの子、ですか」
「娘さんのほうです。あちらのほうが、符丁の話、早いんで。本物の、魔力紋の頁、試しに、端のほうだけ、触ってもらおうかと」
──それは、引き継ぎの、次の段階、だった。
ハンネスさんが、自分の、育て始めた冊子の紋を、さらに別の指先へ、少しだけ、差し出す、という話だった。去年の夏の儀で、私からハンネスさんへ、指先が渡った。その指先が、今年は、ハンネスさんからもうひとり、娘さんのほうへ、少しだけ、伸びようとしていた。
「……はい。お願いします」
「了解です」
ハンネスさんは、いつもの笑顔に、戻った。でも、笑顔の奥に、去年の夏の書見台の前で、「読めた、っす」と言った時の、あの表情の芯の一枚が、まだ、残っていた。
◇
午前のうちに、今日の予定を、ひとつだけ、前倒しに、した。
春の、いちばん最初の朝の、花壇の、拡張。
去年の夏に白い苗を増やしたのと同じ、庭の隅の一画だった。冬を越した苗は、今年も、ちゃんと、根を残していた。その根の外側に、今年は、もう一歩、幅を広げる。──これは、去年の今頃の私だったら、たぶん、「午後、時間があれば」と、後回しにしていた仕事だった。書類のほうが、先に、私の机を呼んでいたからだ。
今年は、違った。
書類のほうは、若い事務官ふたりとハンネスさんに、午前のぶんを、任せられる。任せられる、ということは、私が、午前中に、庭に出ていい、ということだった。
外に出ると、春の風が、去年とは違う角度で、頬の横を、抜けた。
花壇の、端に、ルーカス様が、先に、来ていた。外套を脱いで、腕まくりをして、去年と同じ、あまり上手とはいえない持ち方で、シャベルを、握っていた。──塹壕なら掘れる、というこの人の専門は、今年も、あまり、活かされない。
「……朝の見回り、早めに、済ませたのですか」
「ああ」
「花壇の、ため、ですか」
「……お前と、植えるためだ」
振り向かずに、答えた。答え方の中に、去年より、少しだけ、ためらいが、減っていた。
私は、土の手前に、膝を、ついた。
苗の袋を、広げた。白い花の苗が、いつもの、小さな束で、入っていた。市場のおばさんに、去年と同じ種類を、と頼んだら、「今年は去年より、うちの畑でたくさん育ったんだよ、お使いなさいな」と、束の数を、気持ち、増やしてくれていた。
ルーカス様の、シャベルで、土の、ひとつ目の穴が、開いた。
「もう少し、深くですか」
「いや、今年は、これで、いい」
苗を、穴に、下ろした。土を、上から、被せる。水を、やる。──動作の順番は、去年と、何も、変わっていなかった。違ったのは、庭の向こうのほうで、今朝の経理室の扉の向こう側で、別の誰かが、書類に向かっている、ということ、だった。
私の手の届く範囲の、仕事の地平線が、去年より、ひとまわり、広がっていた。
◇
ルーカス様が、ふと、手を、止めた。
シャベルを、土に、浅く、刺したまま。両手を、腰の横で、土で汚れたまま、下ろした。それから、こちらを、見た。
「……よくやった」
ひと言、だった。
──広場の、あの日の言葉と、同じ、ひと言。
去年より前の、ずっと前の、あの日、ヴァイス領の中央広場で、領民の前で、私の名前を、この人がはじめて口にした日。私が、人前で名前を呼ばれる、という経験そのものに、言葉を失っていた、あの日。あの日と、同じ声色で、同じ短さで、今朝、私の名前の代わりに、一年と少しの仕事全部を、この人は、ひと言で、包んだ。
膝をついたまま、土のついた手で、私は、自分の頬を、押さえそうになった。
押さえなかった。押さえる代わりに、自分の口から、ほんの、小さな声で、言った。
「……渡せる、ということは」
「……」
「一人ではなかった、ということです」
ルーカス様は、何も、言わなかった。
言わないまま、土のついた自分の手を、ゆっくりと、こちらに、差し出した。私も、土のついた自分の手を、その手の上に、そっと、乗せた。ふたりの手の甲に、同じ春の土が、薄く、ついていた。
指のあいだで、かすかに、砂粒が、鳴った。
◇
花壇の、最後の苗を、植え終えた頃、屋敷のほうから、ハンネスさんの声が、した。
「セレナ様ー! お客さんですー!」
遠くから聞こえる声の感じで、急ぎの用では、なさそうだった。振り向くと、玄関先から、旅装の女性が、ひとり、こちらを見ていた。細身で、姿勢がよくて、息継ぎをしない種類の笑顔、だった。
マリーカさん、だった。
「──マリーカ様、お久しぶりですっ」
距離のある庭先から、私のほうが、手を、振り返した。
「軍医局の、巡回診察で、このあたりに参りましたもので、少しだけ、お立ち寄りをっ。いえ、お時間は、取らせませんので、御心配なく、そのまま、花壇を、続けてくださいっ」
マリーカさんは、玄関先で、ひらひらと、手を振った。それから、視線を、ルーカス様の喉の、襟の内側のあたりに、一瞬だけ、向けた。医師の目、だった。一瞬で、診察は、終わったらしい。
「伯爵! 今日の喉は、合格ですっ!」
大きな声で、遠くから、言った。
ルーカス様は、返事の代わりに、軽く、片手を、上げた。
マリーカさんは、屋敷の中のほうに、先に、戻っていった。廊下の向こうから、ハンネスさんが、「マリーカ様、お茶、何がいいですかー」と、明るく呼ぶ声が、届いてきた。
庭に、また、ふたりになった。
◇
午後、経理室に戻ると、机の端に、一通の書簡が、届いていた。
封蝋は、王家のもの。王妃陛下の、個人紋、だった。婚礼の日に大聖堂で見たのと、同じ紋だった。
封を切った。
『ヴァイス伯爵夫人 セレナ様へ。
お変わりなく、お過ごしとのこと、何よりでございます。
先頃、ノルデン王国との通商条約の改定が、無事に成立いたしましたこと、
王家として、心より、御礼申し上げます。
つきましては、来春のご都合のよい日に、
王都にて、あらためてお話を伺いたく存じます。
ひとつ、お願いがございます。
貴殿がヴァイス領で整えられた「引き継ぎの儀」の書式を、
王家の通商方、および、他の領地のお役に立てていただけないでしょうか。
無論、押しつけではございません。
お気持ちの通りに、お決めくださいませ。
王妃』
便箋を、両手で、持ち上げた。
一年前の冬の、あの日、大聖堂の天井の下で、この方が、王家の公式記録を、私の名前のほうへ、書き直してくださった。その流れが、今日、もうひとつ先の頁へ、静かに、続いていた。
──王家の、通商方へ。ほかの領地へ。
一年前の私は、自分の書式を「他人に読める形」に書き直すことで、精一杯だった。一年経って、その書式が、王家のほうから、借りたいと、言われている。
少しだけ、笑ってしまった。声には、出さなかった。出さなくても、経理室の空気が、少しだけ、暖かく、なった気がした。
◇
夕方、ルーカス様の執務室に、王妃陛下からの便箋を、持って、寄った。
壁の額は、この一年で、また、少しだけ、増えていた。左の端に、去年の冬の筆談の紙。その隣に、婚礼の招待状の宛名の下書き。そのまた隣に、『お前の子なら、守る』。そして今年の始めに、新しく増えたのは──ハンネスさんの締めた、あの最初の試し締めの頁の、写しだった。額に入れたのは、私ではなかった。ルーカス様だった。頼んでいない。頼んでいないのに、いつの間にか、入っていた。
便箋を、机の上に、置いた。
ルーカス様は、ゆっくり、読んだ。
「……来春、か」
「はい」
「お前の、仕事だ」
「ええ」
「──お前の、行きたいように、行け」
それだけ、だった。
私は、便箋を、折り畳んで、懐に、入れた。
窓の外で、春の午後の光が、庭の、広げたばかりの花壇を、ゆっくりと、撫でていた。白い苗の列は、去年より、少しだけ、長く、伸びていた。
経理室の方から、ハンネスさんが、若い事務官のふたりを、冗談で笑わせている声が、遠く、届いてきた。そのいちばん向こう、廊下の奥のほうから、マリーカさんが、「ヴァイス領のお茶は渋みがないですねー」と、去年の冬と、同じ台詞を、繰り返している声も、聞こえた。
机の上に、朝の茶碗が、まだ、置いたままだった。飲み干していた。底に、レモンバームの葉の欠片が、薄く、沈んでいた。
(……私の、居場所は)
声には、出さなかった。
出さなくても、もう、誰も、訊いてこない。誰も訊いてこないこと自体が、この一年と少しの、答えだった。
立ち上がって、空の茶碗を、両手で、持った。
窓を、開けた。
潮風と、土の匂いと、花の匂いが、経理室の中に、一度に、入ってきた。ヴァイス領の、春、だった。
──明日の朝も、また、この窓を、私は、開ける。開けたら、机の端に、誰かが淹れた茶が、置いてある。三杯あるか、四杯あるか、ある日はもうひとつ増えているかもしれない。同じ朝は、もう、二度と、来ない。来ないのに、どの朝も、いつもの朝として、続いていく。
七年間、役目は終わりですと言って出てきた扉の、その続きの場所に、私は、ようやく、たどり着いていた。
役目は、終わるものでは、なかった。
──渡して、広げていく、ものだった。




