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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第11話 祭壇布の、真下で


 婚礼衣装に袖を通すのは、これが、二度目だった。


 一度目のことは、あまり、覚えていない。衣装の色も、裾の長さも、式の間のお祈りの言葉も、たしかに自分の体を通ったはずなのに、後から思い返そうとすると、どれも、他人の記憶のように、輪郭がぼやけている。七年の間、一度も、取り出して思い出そうとしなかったからだ。取り出さなかったのは、取り出す必要が、なかったから、だった。


 今日の衣装は、覚えている。


 淡い、冬の海の色。控えめな襟元。裾の縁に、細かな銀糸の縫い取り。仕立ては、王都の小さな工房にお願いした。先頃、メルツ男爵家の使いの者が嫌がらせに回った、あの仕立屋の主人が、自分の指で、最後の針まで、通してくださった。「ヴァイス伯爵家のご婚礼の衣装を、自分の手で縫わせていただけて、光栄です」と、昨日の夕方、届けに来てくれた時に、背筋を、きちんと伸ばしていた。伸ばした背筋の角度が、私の記憶にずっと残るくらい、清々しかった。


 大聖堂の控えの間で、使用人の方が、裾の最終確認をしてくれている。私は、鏡を、敢えて、見ないようにしていた。


 見たら、また、誰か知らない人の顔が、こちらを見返してくる気がしたからだった。


     ◇


 身支度が整った頃、扉の向こうから、マリーカさんの声が、聞こえた。


「セレナ様ー! こちら軍医局から抜けてきた、マリーカですっ、お時間ぎりぎりで申し訳ありません、馬が──いえ、馬の話はあとで、あとでします、大丈夫です!」


 息継ぎを、しなかった。冬に一度だけ訪ねて来てくれた時と、同じ話し方だった。この人の話し方は、廊下一本分の不安を、吹き飛ばす力があった。


 扉を開けてもらうと、マリーカさんは、普段の旅装の上に、軍医局の細いリボン徽章を、ひとつだけ、胸につけていた。私服と軍服の、ちょうど真ん中の装いだった。


「……ご立派な、お衣装ですね」


 さっきまでの勢いから、声色が、ふと、落ちた。


「今日、あの方、声の方は、ちゃんと、出ておいでですか」


「朝は、掠れが、なかったそうです」


「結構です。それなら、大丈夫。誓いの一言さえ、はっきり出せれば、今日は、それ以上のことは、要りません」


 マリーカさんは、一歩前に出て、私の衣装の襟元を、指先で、ひとすじだけ、整えてくれた。それから、目元を、ふわりと、細めた。


「──ルーカス様、ちゃんと、結婚なさるんですねえ」


 声が、一段、下がった。


「あの方が縁談を断られた日から、ずいぶん、長いこと、見てきました。八年分、見てきました。今日は、あくまでも軍医局の記録のほうでの参列、という立場ですが、記録の外の部分では、ちゃんと、泣いて帰りますので、ご心配なく」


 私は、笑えなかった。笑う代わりに、マリーカさんの手を、一度だけ、両手で、包んだ。


     ◇


 身廊を歩く時間は、記憶より、ずっと、長かった。


 両側の参列者の方々の顔を、全部は、見なかった。見られなかった、というほうが、正しい。ただ、身廊の左の、なかほどよりも少し前のあたりに、ハンネスさんの丸い肩と、その隣に、父の、増えた白い髪が、並んで見えた。父の隣に、王都の商会連合の代表の方々。マッテオさんの帽子の影は、いつもより、低い位置に、沈んでいた。頭を、下げていたのかもしれない。


 身廊の右の、中央の、王家の席に、王妃陛下が、座っておられた。ご装いは、ご公務の時のそれではなかった。──私の婚礼のために、公務ではなく「ご個人として」のお立場で、ここに座ってくださっている、ということだった。あの冬、大聖堂で王家の公式記録を更新してくださった方。あの日と同じ、静かな背筋、だった。


 身廊の、ずっと後ろのほうに、アルベルト様の姿が、見えた。


 後見人として、公式の参列の列の、いちばん端。王家監査官の方と並んで、立っていた。衣装は、控えめな、旅装に近いものだった。私の視線と目が合った瞬間、アルベルト様は、一度だけ、小さく、頭を下げた。それだけだった。それ以上の合図は、今日のあの人の立場では、許されない類の合図、だった。


 そして、身廊の右の、ずっと後ろのほう。


 扉に近い、いちばん目立たない列の端に、マルガレーテ様が、座っておられた。


 扇は、持っておられなかった。顔を、隠していなかった。私の視線と、一度だけ、目が合った。それだけだった。会釈は、返されなかった。返さないこと、それが今日の、あの方の、精一杯の、出席の仕方なのだと、私は感じた。


     ◇


 祭壇の、前まで来た。


 祭壇の上に、あの布が、かけられていた。


 白地の布。金糸と銀糸で刺繍された、蔦と、花と、天使の羽と、古いルーンの祝祷文。七年前の冬、私が、深夜の書斎で、凍える指先で、一針ずつ、刺した布だ。


 そして、布の縁の、金文字の下。


 冬の終わりに、私が王家監査局にお願いして、小さく、添えていただいた一行。


『制作:セレナ・フォン・フェルゼン』


 その文字の、真下に、私は、立っていた。


 七年前の冬、自分がこの文字の下に立つことになるとは、あの頃の私は、露ほども、思っていなかった。あの冬の私は、ただ、期日に間に合わせたかった。徹夜の指先の震えを、誰にも気取られないで済ませたかった。それ以上の望みは、なかった。


 それ以上のことが、今日、この真下で、起きている。


 隣に、ルーカス様が、立っていた。


 正装の軍服。襟元は、きっちりと締まっていた。喉の古傷の線は、今日もまた、その襟の内側に、あった。あの襟の中で、あの線は、きっと、昨日より、ずっと静かに、今日のこの瞬間の空気を、待っている。


     ◇


 指輪を、差し出された。


 司式の方の声が、祝祷のための古い言葉を、ゆっくりと、告げていく。大聖堂の高い天井が、その一語一語を、石の壁に撫でつけて、私の耳と、ルーカス様の耳のあたりに、薄く、返してきた。


 誓いの言葉を、問われた。


 ルーカス様は、一度、小さく、息を、吸った。


 それから、はっきりと、口にした。


「誓います」


 掠れなかった。震えも、しなかった。短い、迷いのない、ひとつの言葉だった。それ以上のことは、仰らなかった。仰らないのが、今日のこの人にとっての、医師との約束だった。その約束を、ちゃんと、守っていた。


 私の番が、来た。


 祭壇布の金文字の、「制作:セレナ・フォン・フェルゼン」の、すぐ真下。


 自分の、生まれた家の姓の、その真下で、私は、息を吸った。


「──誓います」


 ルーカス様の指が、私の左手の薬指に、指輪を、ゆっくりと、通してくれた。指輪の内側の冷たさが、一瞬だけ皮膚に触れて、すぐに、私の体温に、溶けた。


 大聖堂のいちばん後ろのほうで、マルガレーテ様が、目を閉じた、ような気がした。気がした、という話で、本当のところは、身廊の先の私の位置からは、分からない。


 マリーカさんのほうでは、たぶん、もう、記録の外の涙が、落ち始めていた。


     ◇


 退出の時、ルーカス様が、私の手を、取った。


 先月までと同じ、剣だこのある、硬い手だった。でも、今日の握りは、先月までより、ほんの少しだけ、確かだった。


 大聖堂の扉が、開いた。


 外の光が、差し込んできた。夏の、白い、強い光だった。それまで石の天井の下で、細く流れていた空気が、その外の光の中に、一瞬で、解けた。


 扉の外の階段で、レオンが、待っていた。


 花を、持っていた。白い、夏の花だった。庭の、あの花壇の花と、同じ種類の花だった。「おかあさま」と、小さな声で、呼んだ。私は、身を屈めて、花を受け取った。


「ありがとう、レオン」


 レオンは、ルーカス様のほうを、一度見て、それから、前を向いて、私の横に並んだ。ルーカス様は、一度だけ、レオンの肩を、軽く、叩いた。


     ◇


 馬車が、王都の門を出たのは、夕暮れの時間だった。


 今夜のうちに、ヴァイス領に、戻る。──新婚旅行は、無しにしたのは、ふたりの合意だった。明日の朝、経理室の窓を、いつもの時間に、開ける。ハンネスさんは、先に、屋敷に戻っている。レオンは、後日、アルベルト様のお迎えで、王都へ戻る。今日の参列が、あの子の「ひと月」の、区切りだった。


 馬車の窓の外で、街道の、夏の夕日が、流れていた。


 ルーカス様の肩に、私は、わずかに、体重を、預けた。ルーカス様は、受け止めて、何も、言わなかった。


 膝の上に、レオンから受け取った白い花が、一輪、まだ、残っていた。夜、屋敷に着いたら、明日の朝、花壇の縁に、そっと、植え足そう、と思った。

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