第12話 ヴァイス、と書く朝
薬指に、指輪が、あった。
目が覚めて、最初に気づいたのは、その小さな冷たさと、小さな重さだった。冷たさは、体温と、もう、ほとんど同じ温度に、溶けかけていた。重さのほうは、まだ、慣れない重さだった。慣れない、というのは、嫌だ、という意味ではない。身体のどこかが、昨日までとは、ほんの少しだけ、違う場所にある、という、朝の気づき方、だった。
寝台の横の窓の外で、ヴァイス領の夏の朝が、いつも通り、潮の匂いで、始まっていた。
婚礼の翌朝は、昨日までの朝と、空気の温度が、ほんの少しだけ、違っているんじゃないか、と、昨日の馬車の中で、少しだけ、想像していた。──実際は、同じだった。同じ潮の匂いで、同じ鳥の声で、同じ、使用人の方の、廊下の足音。違ったのは、空気のほうではなくて、薬指の、その重さのほう、だった。
起きて、身支度を整えた。支度の順番も、昨日の朝までと、ちょうど同じだった。
◇
経理室の扉を開けた時、机の端に、もう、茶が、置いてあった。
今朝のは、レモンバームだった。湯気が、薄く、まだ立っていた。──置きにきた人は、もう、ここにはいない。朝の見回りに、先に、出たのだ。
茶碗を、両手で、包んだ。
今朝の茶の温度は、いつもと、同じだった。いつもと同じ、ということが、今朝は、とても大事なことに思えた。結婚したからといって、急に茶の淹れ方が変わる、ということは、起きなかった。この人が茶を淹れるやり方は、結婚の前も、結婚の後も、同じだった。それだけのことで、胸の内側の温度が、すうっと、元の場所に、戻った。
窓を、いつもの幅だけ、開けた。
潮風が、いつも通り、入ってきた。
机の上には、昨日の夕方までに、ハンネスさんが整えておいてくれたらしい、今日の束の、いちばん上の頁が、すでに、待っていた。
◇
茶を半分ほど飲んだところで、一度、執務室の方へ、回った。
寝台の側の扉ではなくて、経理室の廊下から、向かう側。この動線を通る時は、たいてい、何か朝の用件があるか、気持ちの整理のために、ほんの少しだけ遠回りをしたい時、のどちらかだ。──今朝の私は、後者のほう、だった。
執務室の扉は、半分だけ、開いていた。
中を覗くと、ルーカス様は、地図の前に、立っていた。朝の見回りから、もう戻っていたらしい。襟は、立てていなかった。夏の朝の風は、今日はもう、この人の喉に障る種類のものでは、なかった。
「……お戻り、でしたか」
「ああ」
振り返らずに、短く、答えた。それから、ほんの少しだけ、肩の線が、こちらを意識する方向に、傾いた。──私が入ってきたことに、気づいている時の、この人の傾き方、だった。
壁のほうに、目を移した。
地図の、すぐ隣。ずっと前からそこにあった、最初の分析報告書の額。その隣に、先の冬から増えていた、筆談の紙の額。さらにその隣に、先頃、私が見ていない間に、もうひとつ、入っていたものがあった。『お前の子なら、守る』の一行の、筆談、だった。
そして、そのまた、隣。
今朝、新しく、もうひとつ。
小さな、簡素な、額、だった。
中に入っていたのは、白い紙、一枚。
見覚えのある、筆跡、だった。
──私の、字だった。
「……これは」
「昨日の、下書きだ」
ルーカス様は、振り向かずに、続けた。
「婚礼の、招待状の、宛名の、下書き。『セレナ・フォン・フェルゼン様』と、お前が、最初に書いた紙だ」
思い出した。
婚礼の招待状の宛名書きを、準備の途中の夜に、したことがあった。練習のつもりで、試しに、自分の名前を、自分の字で、一度、書いてみた夜だった。書いてみて、「下書きだから、これは、使わない」と思って、机の端に、そのまま置いていた紙、だった。翌朝、その紙が、机の上から、どこかへ消えていた。使用人の方が掃除の時にまとめて片付けたのだろう、と思って、それ以上、気にしなかった。
消えていた紙は、この人の手に、あった。
「……いつから、ですか」
「ずっと前、だ」
「──いつ、額に?」
「昨日、お前が、衣装の支度に入っている間、だ」
ルーカス様は、初めて、ゆっくりと、こちらを振り向いた。視線は、壁の額を通り越して、私のほうに、まっすぐ、向いた。
「お前が、お祝いごとの紙に、自分の字で、自分の名前を下ろしたのは、八年ぶりだと、思った」
八年。
この人の中の、八年、だった。
縁談を断られた日から、セレナ・フォン・フェルゼンという字が、この人の中で、ずっと、どこかに、置かれたままだった。グランツの姓で過ごした七年の間、私は、自分の字で、自分の生家の名前を、お祝いの紙の上に下ろすことが、なかった。──下ろしたとしても、それは、お祝い以外の場所での、業務の一行だった。
今度は、人前に出るための、下書きだった。
「……もったいない使い方、です」
少しだけ、声が、かすれた。
「下書き、なのに」
「下書きだから、いい」
ルーカス様の返事は、短かった。
「下書きは、迷いの跡だ。迷った末の一行のほうが、清書した一行より、物として、重い」
そういうことを、口に出して言う人ではなかったはずだった。冬の筆談の頃と比べて、この人の言葉の出方は、少しずつ、変わってきていた。ペンの代わりに、口から、重い言葉を下ろせる場面が、増え始めていた。
私は、しばらく、その額を、見ていた。
壁のほうに向けて、一度だけ、小さく、頭を下げた。額に下げたのか、ルーカス様に下げたのか、自分でも、よく、分からなかった。たぶん、両方、だった。
◇
経理室に、戻った。
机の端の茶は、もう、ほとんど、冷めていた。冷めた茶の、最後のひとくちだけ、飲んだ。冷めた茶の、少しだけ苦くなった味は、経理室の朝の、いつも通りの味だった。
今日の最初の頁を、開いた。
港湾の関税の、先月分の最終確認。数字の並びは、昨日の夕方までに、ハンネスさんと一緒に整えておいたもの。最後の欄に、管理者の署名を入れる場所があった。──ここだけは、私がまだ、自分の指で、下ろしていなかった。
ペンを、取った。
いつもの手癖で、自分の名前を、書き始めようとした。
『セ──』
ペン先が、そこで、一度、止まった。
私の手の癖は、まだ昨日までの続きで、そのまま『セレナ・フォン・フェルゼン』と下ろそうとしていた。頭が、まだ、昨日の続きの姿勢で、座っていた。
止めて、その紙を、一枚、横に避けた。
新しい紙を、取り出して、もう一度、ペンを、紙に下ろした。今度は、ゆっくりと、文字の順番を、自分の中で、ちゃんと、並べ直してから。
『セレナ・フォン・ヴァイス』
初めて、自分の指で、その順番を、書いた。
書いた瞬間、胸のどこかで、ささやかに、何かが、ひとつ、動いた。泣きたい種類の動きでは、なかった。笑いたい種類の動きでも、なかった。──新しい名前が、やっと、自分の筆の重心と、ちょうど、釣り合った、という、その種類の動きだった。
署名の墨が、乾くのを、待った。
乾いた。乾いたら、私は、次の頁に、進んだ。
◇
朝の見回りから遅れて戻ってきたハンネスさんは、いつもの勢いで、経理室の扉を、開けた。
「セレナ殿、おはようございまーす! ああ、いえ、今日は、セレナ様、とお呼びしたほうがいいんでしょうか。伯爵夫人、というか──」
「ハンネスさん」
「はい」
「今まで通りで、お願いします」
「……了解っす」
ハンネスさんは、一瞬だけ、救われた顔をした。その一瞬だけで、この屋敷の朝の空気が、ほとんど、昨日までの続きに、戻った。
ハンネスさんは、机の向こう側に、書類の束を、置いた。置きながら、少しだけ、姿勢を、副官のほうに、寄せた。
「セレナ殿。ひとつ、お願いが、あります」
「はい」
「前に、お約束した、あの、試し締めの件──もう一度、今日、もしよろしければ、やらせてもらえませんか」
頁の上の、指が、止まった。
前の試し締めの、いちばん最初の一頁は、もう、終わっている。その時の紙は、引き出しの奥に、しまってある。ハンネスさんが今、言っているのは、その、続きの話、だった。次の頁、という意味、だった。
「……どの、頁ですか」
「冬季の、在庫再分類の頁です。マッテオの兄さんに、『倅でも読めるように』って言われてたやつ。あのあと俺の手も、少しは動くようになったんで、今度は、本腰で、やらせてもらいたいです」
ハンネスさんの声は、いつもの軽さを、半分だけ、戻していた。もう半分のほうは、まだ、慎重な色、だった。
(……引き継ぎの、次の一歩)
この話が、ここで、出てくる。結婚の翌朝の、経理室の、私の署名の、墨が乾いたばかりの、ちょうど、この瞬間に。
偶然でも、ちょうどでも、なかった。たぶん、この順番は、ハンネスさんのほうが、私より先に、読んでいた。
「──お願いします」
「了解っす」
ハンネスさんは、頁を、自分の側に、そっと、引き寄せた。
経理室の窓から、夏の朝の光が、机の上に、薄く、差し込んでいた。机の端の茶碗の底に、冷めたレモンバームの、薄い葉の欠片が、一枚、沈んでいた。




