第10話 これは、交渉ではなく
書式を見せる、ということを、私はこれまでの人生で、ひとつの勇気として、数えたことがなかった。
勇気、という言葉は、たぶん、違う。勇気は、怖いものを押し返す時の単語だ。朝、宿舎の窓辺で、書式の束を一度ずつ整え直している間に、私の胸の中にあったのは、そういう前向きの強さではなかった。もっと素朴に、「これを、ちゃんと、外側の誰かに差し出したら、どうなるのだろう」という、はじめての好奇心の混じった、恐る恐るの感情だった。七年と一年、自分だけが読めるように組み立ててきたものが、外側の人の目の前に置かれる時の、かたちを、見てみたかった。
ルーカス様は、すでに、起きていた。
昨日のうちに頼んで用意してもらった、南の森の細かい地形図を、卓の上に広げて、指先で、一筆ずつ、道をなぞっていた。気配で分かった。この人は、地図を読む時、頭より先に、指のほうが動く。頭より、指のほうが、地形を覚えている。
「……朝、咳は」
「ない」
「掠れも、ないですか」
「ない」
短い返事だった。けれど、昨日の夕方より、声の出方が、少しだけ、楽に聞こえた。
「朝ごはんの前に、温かいお茶だけ、いただきましょう」
「……ああ」
私は、書式の束を、革の紐で、丁寧に、縛った。縛る時に、結び目の引き方を、一度、自分で意識して、作り直した。──今日、これを解くのは、向こうの、誰かの手、だった。
◇
部屋に通されたのは、昨日と、同じ時間だった。
同じ長机、同じ椅子の並び、同じ書記の位置。違ったのは、机の上にあらかじめ置いておく紙の束が、昨日はこちら側の手元にだけあったのに対して、今日はその束の上に、革紐で結わえた私の書式の束が、もうひとつ、載っていることだった。
カスパル様が、入室した。今日も、昨日と同じ順番で。
向かいの席について、机の上を、最初に見た。視線が、私の書式の束の、革紐の上で、ほんの一瞬、止まった。止まって、すぐに、私の顔のほうに、戻した。
「……本日、ご覧に入れます」
私は、革紐を、ゆっくり、ほどいた。
紐を、机の端に、置いた。
束のいちばん上の頁を、カスパル様の側へ、そっと、滑らせた。
◇
それから、しばらくの時間、部屋の中で動いていたのは、カスパル様の読む目と、書記のペンの音、それから、ルーカス様の浅い呼吸の音だけだった。
カスパル様は、読み方を、急がなかった。
いちばん上の頁は、山道の季節別の通行可能日数の、推定。符丁の凡例は、頁の下に、小さく、私の字で書いてあった。『点あり=急ぎ、点なし=通常、星ひとつ=優先、星ふたつ=要再確認』。──先日、ハンネスさんの語録ノートに、私が書き足した凡例と、同じものだった。
カスパル様の指が、凡例の上で、一度、止まった。
顔を上げた。
「……これは、貴領内の、どなたに向けて、書かれた凡例でございますか」
問いの、出し方が、柔らかかった。
「……副官のハンネスに向けて、書き足したものです。先ほどの山道の頁の凡例と、同じ凡例を、領内の副官が、最初に読めるように」
「なるほど」
カスパル様は、また、視線を紙に戻した。
次の頁。通行量の期待値の試算。こちらは、今朝までに、ルーカス様と一緒に組んだ、最新のものだった。数字の右下に、小さな「ル」の字が、ひとつ、ある。ルーカス様が地形で補正を入れた箇所、という印だった。──私が、最近になって、自分の書式に新しく追加した符丁だった。
カスパル様の指が、「ル」の字の上で、また、止まった。
今度は、顔を、上げなかった。ただ、頁の上で、線を、細く、なぞった。
次の頁。冬季の海路の代替案。ここには、マッテオさんの名前が、小さく、添えてあった。『海路の時化の時期について、現地商人マッテオの証言による』。
その次の頁。関税の逓減表。ここには、去年の秋、まだ私一人の符丁だけで書かれた古い頁が、下敷きとして、残っている。その下敷きの欄外に、ハンネスさんの鉛筆書きが、いくつか、残っていた。『?』の跡。「分かろうとしている途中」の、跡だった。
私は、その鉛筆の跡を、今日、拭いていなかった。拭くかどうかを、昨夜の宿舎で、一度、迷った。迷って、そのままにした。あの「?」も、この書式の一部、だった。
カスパル様の目は、鉛筆の「?」の上でも、止まった。
◇
読み終えるまでに、予定よりも、時間がかかった。
書記が、何度か、こちらを窺うような仕草を見せたけれど、カスパル様は、軽く手を挙げて、そのままにさせた。急がせなかった。自国の書記にも、彼は、外交の場の静けさを、守らせていた。
最後の頁を読み終えて、カスパル様は、顔を上げた。
机の向こうで、両手を、静かに、組んだ。
「……ひとつだけ、申し上げます」
「はい」
「これは、交渉では、ございません」
部屋の中の空気が、ほんの少し、止まった。
書記のペンも、一瞬、手を、止めた。
「──数字、そのものです」
カスパル様は、続けた。
「貴領地の実情を、こちら側が論破できる、ということが、前提の書式では、ございません。ここに書かれているのは、貴領地が、今、立っている地面の、かたちそのもの、です。山道の雪も、港の時化も、副官の『?』も、全部、その地面の、一部分です」
静かな、声だった。
「こちら側の原案は、本日、持ち帰ります。差し戻して、練り直します。もともと我々が差し出していた数字は、この地面に、うまく、嵌まりません」
カスパル様は、書類を、丁寧に、束ね直した。今度は、私の革紐には、触れなかった。自分の側で、新しく、紙の帯を、回した。──よその家の結び目は、よその家の手に、返す、という動作、だった。
「次の会談の日程は、こちらの側の事情で、お時間を、いただきます。差し替えた原案を、改めてお持ちいたします」
「承知いたしました」
「それから」
カスパル様の視線が、ほんの一瞬だけ、ルーカス様のほうに、動いた。
今日の視線は、古傷の線の上では、なかった。顔の、目のあたりだった。
「──お疲れのところ、二日間のお付き合い、感謝申し上げます」
ルーカス様は、頷いた。返事は、声では、なかった。
◇
部屋を出て、廊下に出た瞬間、だった。
ルーカス様の肩が、一度、短く、揺れた。
咳、だった。一度だけ。掠れも、血の気も、なかった。でも、冬の朝の廊下で、時々出ていた、あの形の咳、だった。
私は、歩く速さを、半分に、落とした。
何も、訊かなかった。訊けば、この人は「大丈夫だ」と返す。その「大丈夫だ」に、私は、反論ができない。だから、訊かなかった。
代わりに、懐から、筆談ノートを、出した。
朝、宿舎を出る時、念のため、と思って持ってきていたものだった。念のため、というのは、今朝の、私の、小さな嘘、だった。本当は、念のためでは、なかった。今日のどこかで、この人に、声を休んでもらう時間が、一度だけ、来るような気が、していた。
無言で、差し出した。
ルーカス様は、受け取って、ペンを取り、短く、書いた。
『今日、よく、やった』
それだけ、だった。
私は、同じ紙に、書き返さなかった。自分のペンを、出さなかった。──ここで私が書き返したら、今のこの字が、「やりとりの途中の一行」に、なってしまう。今日のこの字は、最後の一行で、いい、と思った。
ノートを、そのまま、両手で、閉じた。
◇
馬車の中で、ルーカス様は、眠った。
眠り方は、軍人の眠り方だった。背筋を少しだけ預けて、外套の襟を、半分だけ立てたまま、目を閉じる。体の緊張を、半分だけ抜く眠り方。完全には、抜かない。旅の途中の男の、古い習慣、だった。
私は、膝の上に、筆談ノートを、閉じたまま、両手で、包んでいた。
窓の外で、ヴァイス領の南の森が、少しずつ、北の平野に変わっていく。あと半日で、あの屋敷に戻る。レオンが、ふつか、待っている。ハンネスさんも、少しだけ疲れた顔で、待っている気がした。
ふと、帰り道の途中で、気がついた。
婚礼の正式な日程は、もう、ひと月の内側に、入っていた。
仕事の頁で、一日一日を数えていたら、いつの間にか、新月からもう一度、新月が来るまでの、その内側に、私の名前の上に載る日が、近づいていた。
馬車の揺れに合わせて、膝の上の筆談ノートの重みが、ほんの少しだけ、上下した。




