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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第9話 国境の、同じ部屋の空気


 国境の会談場というものは、王都の会議室より、空気の乾き方が違う。


 石壁の、古い建物だった。ヴァイス領の南の端、ノルデン王国との境界線から、ほんのわずかの場所に、両国が古い取り決めで建てた場所だ。廊下の壁の色も、窓枠の木の色も、どこの国のものでもなく、どこの国のものでもある色をしていた。五年に一度だけ、通商の改定のために使われる建物、という話だった。五年の間、風しか通らない部屋の空気というものは、こういう乾き方になるものらしい。


 レオンは、ハンネスさんに預けてきた。


 朝、玄関先で見送られる時、あの子は「おかあさま、ふつか、だけですね」と、少しだけ真面目な顔で、確認した。ふつか、という単語を、子供は、大人より、ずっと、重く口にする。「ええ、ふつか。お土産は、ないけれど、帰ったら、お庭の帳簿の練習を、また一緒にしましょう」と返したら、頷いた。頷いてから、ハンネスさんの背中に、少しだけ寄った。ハンネスさんは、子供相手にも副官の姿勢を完全には崩さないまま、あの子の頭の上に、手のひらを、そっと乗せていた。乗せ方が、妙に上手だった。子供の扱いというのも、たぶん、副官という職業の一部分らしかった。


 馬車の中で、ルーカス様は、ずっと、外套の襟を、立てていた。


 夏の前の道の風は、冬のそれとは違って、この人の喉に障る種類のものでは、ないはずだった。朝、そのことを一度、口に出しかけて、途中でやめた。──そういう話ではないのだ、と、自分で気づいた。


 襟を立てているのは、温度の話では、なかった。


     ◇


 会談の部屋に通されたのは、昼前のことだった。


 長机がひとつ。向かい合わせに、椅子が、ふたつずつ。書記の席が、それぞれの国側に、ひとつずつ。部屋の隅には、ヴァイス領側の通商代表の方と、王家の通商方の同席者が、一人ずつ、立っていた。


 私とルーカス様は、自国側の席に、腰を下ろした。向かいの席には、まだ、誰もいなかった。


「……先に、着いたな」


 ルーカス様の声は、いつもより、一段、低かった。掠れては、いなかった。ただ、低いだけ、だった。


「ええ」


「お前は、数字の側で話せ。俺は、それ以外の側で、座っている」


「はい」


 それ以上は、何も言わなかった。たぶん、この人は、今日の役割分担を、昨日の夜のうちから、一度、自分の中で決めていた。決めてから、朝、外套の襟を立てた。そういう順番だった。


 部屋の向こうの扉が、開いた。


     ◇


 先に入ってきたのは、書記と、副官らしい男性。その後ろに、主席。


 三十代の後半、と思えた。背は、ルーカス様より、ほんの少しだけ、低い。濃い紺の外衣。襟元の刺繍は控えめで、紋章は、ノルデン王国外務省のもの、だった。顔立ちは、整ってはいたが、整え方に、過剰な気負いが、なかった。


 足の運びが、軍人のそれに、少しだけ、似ていた。


(……軍歴のある人だ)


 そう思った。外交官として整えた姿勢の下に、別の姿勢の癖が、薄く、残っていた。その癖を見た時、朝からずっと気にしていた「ルーカス様の襟」の意味が、急に、一段、重くなった。


「ヴァイス伯爵閣下。並びに、伯爵のご婚約者、セレナ様、でいらっしゃいますね」


 丁寧な、落ち着いた声だった。


「カスパル・フォン・エーレンベルク、と申します。ノルデン王国外務省、通商条約改定団の、主席を務めております」


 深く、礼をした。礼の深さは、外交官の、きちんとした深さだった。過剰ではなかった。けれど、どこか、もうひとつ別の気配の礼が、混じっていたような気がした。──一度、戦場のどこかで体に覚えた種類の、礼の、深さ。


 そう見えた、という話で、本当のところは、私からは、分からない。


 ルーカス様は、軍人の礼を、返した。短く、無言で。


 席に、全員が、座った。


     ◇


 議題の提示は、カスパル様のほうから、始まった。


「五年に一度の改定、ということで、本日と明日、二日に分けて、こちらの原案をお示ししたく存じます。初日の本日は、主に、ヴァイス領の山道を、平時の交易路として開放いただく件について、ご説明を」


 山道。


 来ると思っていた議題だった。私が、この数週間、夜の経理室で、数字を何度も重ねてきた議題。隣でルーカス様が、指先で地形を描き直していた議題。ふたりで、同じ窓から朝のパンの匂いを吸いながら、同じ机の上に広げていた議題、だった。


 カスパル様は、几帳面に束ねられた紙を、机の上に、並べた。数字が並んだ図表と、簡単な地図。


 私は、自分の手元の数字の束を、そっと、前に出した。


 数字の読み上げは、ゆっくり、始めた。山道を平時に開放した場合の、通行量の期待値。ただし、冬の三月、雪で通行が不可能になる現実。代替の海路の日数。商人連合の、冬の輸送費の見積もり。


 カスパル様は、途中で、遮らなかった。聴き方が、丁寧だった。時々、「その数字の根拠は」と、短く、訊いた。訊き方に、粗が、なかった。──このひとは、数字を嫌わない人だ、とすぐに分かった。外交官には、数字を嫌う人が、一定数、いる。嫌う人が議場にいると、場の温度が、勝手に、偏ってしまう。


 数字の説明が、ひと区切りついた時、カスパル様の視線が、一度だけ、机の向こうで、動いた。


 私の顔では、なかった。ルーカス様の、ほうだった。


 顔でも、なかった。


 ──首元の、外套の襟の、すぐ、内側。


 古傷の、線の上、だった。


     ◇


 視線は、本当に、一瞬だった。


 一瞬で、すぐに、机の上の紙に戻った。ルーカス様が、その視線に気づいたかどうかは、私の位置からでは、読めなかった。たぶん、気づいた。気づいたけれど、顔色は、動かさなかった。外套の襟は、朝から一度も、下がらなかった。


 部屋の中で、書記のペンの音だけが、数拍、続いていた。


 それから、カスパル様は、机の上で、両手を、静かに、組んだ。外交の場の、ひとつ目の区切りの、動作だった。


「……今日のご説明、大変、よく整っておりました。セレナ様のご提示、拝受いたしました」


「恐れ入ります」


「ひとつ、差し出がましいお願いを、申し上げてもよろしいでしょうか」


「……どうぞ」


 カスパル様は、ゆっくりと、続けた。


「明日、改めて、セレナ様が組まれた書式そのものを、お見せいただきたいのです。数字だけでは、貴領地の実情の半分しか、こちらに見えません。書式の作り方まで拝見できれば、こちらの原案にも、差し替える余地が、多く、残せます」


 書式を、見せる。


 見せる、ということの意味を、私は、七年間、公爵家の書斎で、一度も考えたことがなかった。今日、初めて、他国の外交官から、そのことを、真正面から、お願いされた。


(……書式を、見せてほしい、と)


(ノルデン側の主席が、自分の口で)


 私は、少しだけ、間を置いた。返事のためではなかった。胸の中の、どこかの引き出しを、ひとつ、静かに、開けるためだった。


「……承知いたしました。明日、ご覧に入れます」


「ありがとうございます」


 カスパル様は、もう一度、礼をした。今度の礼は、外交官の礼、だけだった。戦場の気配は、先ほどより、薄くなっていた。


 書記のペンが、こちらの返事を、短く、書き取った。


     ◇


 その日の会談は、予定通り、夕方に、終わった。


 部屋を出る時、ルーカス様は、後ろから、ごく短い息を、一度だけ、吐いた。襟は、まだ、立てたままだった。廊下に出てから、ようやく、半分だけ、下ろした。


 会談場の宿舎は、建物の西側にあった。静かな部屋だった。窓の向こうに、南の森の端が、夕日に、少しずつ、染まっていくところだった。


 ルーカス様は、椅子に腰かけて、外套を脱いで、襟の内側を、一度だけ、指で、撫でた。自分の手で、自分の喉の線を、確かめているような、動作だった。


「……あの人」


「はい」


「知っていたな」


「──ええ」


 私も、同じ場所で、気づいた。口に出すまでもなかった。


「俺を狙って来たわけでは、ない。それは、分かる。座り方に、そういうものは、なかった」


「はい」


 ルーカス様は、しばらく、黙った。沈黙の形だけが、国境の乾いた空気と、よく合っていた。


 やがて、低く、言った。


「明日、書式、見せるか」


「見せます」


「……全部、か」


「今日のぶんの、下敷きは、全部。──必要なら、符丁の読み方も」


 ルーカス様は、ほんの少しだけ、こちらを見た。


「……それは、お前の、七年、だぞ」


「ええ。それも、含めて」


 返事をしてから、自分でも、少しだけ、驚いた。驚いた、というよりは、静かに、気づいた。──七年、と口にした時の声の重さが、朝、馬車に乗り込んだ時とは、もう、違っていた。


 窓の向こうで、夕日が、森の縁を、ゆっくりと、削っていた。


 明日の同じ時間、私は、自分の七年を、他国の主席の前で、一度、開いて見せることになる。──今夜、ヴァイス領にいるあの子は、ハンネスさんと、どんな話をしているだろう、と、一瞬だけ、思った。

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― 新着の感想 ―
内部書式を他国に見せるってありえないと思うだけど… 自領の内情を他国に開示するのも基本的に無いと思うのだけど…
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