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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第8話 木剣と、子供用の帳簿


 馬車の車輪が、砂利を噛む音が、門の内側で、止まった。


 夏の、少し手前の、晴れた朝だった。雲の薄い、青の、わずかに濃くなり始めた空の下。ヴァイス領に続く街道の埃が、馬車の車輪の裾に、薄く、ついていた。王都からの道のりを、そのまま運んできた埃、だった。


 ルーカス様は、玄関の手前に、私の一歩だけ後ろに、立っていた。姿勢がいつもより、まっすぐだった。ハンネスさんは、その後ろで、珍しく、声をひとつも出さずに立っていた。ハンネスさんの無言は、たいてい、気合の代わりだった。


 馬車の扉が、開いた。


 先に降りてきたのは、監査官の方だった。冬に来た時とは、違う方だった。痩身で、物腰の柔らかい、初老の方。会釈だけをして、一歩、横に退いた。


 次に、アルベルト様。


 冬の時よりも、また少し、角の取れた顔をしていた。角が取れた、というより、摩耗して、これ以上は削れないところまで来てしまった、という種類の顔だった。


 最後に、レオン。


 外套ではなく、初夏の薄い上着を着ていた。ちゃんと、自分の足で、降りてきた。砂利の上に立って、私を見た。見てから、少しだけ、姿勢を正した。──八歳の子供が姿勢を正すというのは、大人よりも、難しいことなのだ。私はそれを、あの家で過ごした七年間で、知っている。


「……おはよう、レオン」


「おはようございます、おかあさま」


 胸の内側で、何かが、柔らかく、落ちた。ぶつけたような音ではなかった。ただ、そっと、落ちた。


     ◇


 アルベルト様は、昼前には王都へ戻ると言った。


 書類上の引き渡しだけを、玄関の客間で済ませた。王家監査官の立ち合いのもとで、滞在期間、連絡方法、緊急時の手順。全部、アルベルト様自身が、自分の手で、署名した。代筆は、ひとつもなかった。


 署名の、最後の一画まで、ゆっくりと下ろしていた。公爵位が一時停止している家の後見人の、署名。──そういう場面では、このひとはもう、代筆を使わない。それだけの話だった。


「レオン。ひと月、よろしくお願いするんだよ」


「はい、お父様」


「セレナ様に、ご迷惑をおかけしないように」


「はい」


 アルベルト様は、レオンの肩に、一度だけ、手を置いた。置いて、すぐに、離した。短い置き方だった。


 それから、私のほうを、一度だけ見た。


「……お願いいたします」


 それだけだった。


「はい。お預かりします」


 それだけで、足りた。


     ◇


 アルベルト様の馬車が門を出ていくのを、レオンは、玄関先で、ずっと見送っていた。見送っている間、何も言わなかった。窓が見えなくなるまで、上着の裾の端を、指先で、一度だけ、握っていた。


 馬車の音が完全に消えてから、レオンが、小さく言った。


「……おとうさまは、馬車の中で、ずっと書類、見てました」


「そうなの」


「ぼくが、眠ってる間も、たぶん」


 レオンは、足元の砂利を、爪先で、軽く、蹴った。蹴ったあと、蹴ったことを気にして、ちらりとこちらを見た。叱られるかどうかを、確かめる目だった。七年間、何度も、見てきた目だった。


「……砂利は、蹴ってもいいのよ」


「はい」


 レオンの肩の位置が、ほんの少しだけ、下がった。


     ◇


 午後、庭に出た。


 ルーカス様が、腰の横に、木剣を二本、ぶら下げて現れた時、私は経理室の窓越しに、思わず、手を止めた。


 大人用と、子供用。子供用のほうは、この屋敷にそんなものがあったとは、私には聞き覚えのない代物だった。ハンネスさんが、ルーカス様の背中の向こうで、軽く拳を握っていた。──昨日のうちに、どこかで手配した、という顔、だった。


「レオン」


「はい」


「……剣、持ってみるか」


 レオンの目が、少しだけ、大きくなった。


「……いいの、ですか」


「軽いやつだ。木だ。怪我はしない」


「はい」


 レオンは、ルーカス様の差し出した木剣を、両手で受け取った。両手で持つと、重さよりも先に、長さのほうに、戸惑った顔をした。私も子供の頃、初めて筆を握った時、長さのほうに戸惑った覚えがある。道具というのは、最初は、重さよりも先に、長さで、怖い。


「……足は、こう」


 ルーカス様が、自分の足を、地面の上で、わずかに、開いた。


「半分、右。半分、左」


 言いながら、自分の足の位置を、レオンに見せた。ルーカス様の説明は、軍の言い方ではなかった。子供に向かって、自分の体で見せる、ゆっくりした言い方だった。──たぶん、この人が、子供に剣の持ち方を教えるのは、今日が、初めてなのだ。動作のひとつひとつの繋ぎ目が、わずかに、ぎこちなかった。


 レオンは、見様見真似で、両足を開いた。半分、右。半分、左。──足の開き方だけは、子供のほうが、素直だった。


 木剣を、ゆっくり、上に、持ち上げた。


 先が、震えた。


「……重い、です」


「ああ」


「でも、たのしい、です」


 ルーカス様の口元が、ほんの少しだけ、緩んだのを、私は経理室の窓から、見た。


 見て、ペンを、机の上に、そっと、置き直した。


     ◇


 夕方、今度は経理室。


 私は、自分の机の隣に、小さな机をもうひとつ、寄せた。ハンネスさんが、昨日のうちに、どこかから見つけてきた、子供用の、古い書見台だった。


 そこに、真っ白な紙を、何枚か、置いた。


「レオン。今日のお庭のこと、書いてくれる?」


「書く、って」


「お昼に、お庭で、何があったか。ルーカス様が、剣を教えてくれたでしょう。あれを、紙の上に、写してほしいの」


「絵、ですか」


「ううん、字で」


 レオンの目が、ふたつに割れた。困った目と、少しだけ楽しみな目の、ふたつに。


「ちょうぼ、ですか?」


「そう。今日は、『ちょうぼの練習』」


 レオンは、椅子に座って、ペンを握った。握り方は、年齢相応に、まだ硬かった。大人用のペン軸は、あの子の指には、太すぎた。──明日、軸の細いものを、ハンネスさんに探してもらおう、と、頭の隅で思った。


 一行目。『きょう、おにわで、ルーカスさまから、けんのもちかたを、おしえてもらいました』


 二行目のところで、すでに、手が止まっていた。


「……つぎ、なにを書けばいいのか、わかんない」


「さっき、ルーカス様に言ったこと、そのまま書いていいのよ」


「……『おもかったけど、たのしかったです』?」


「いいわね、それ」


 レオンは、小さく頷いて、三行目を書いた。『おもかったけど、たのしかったです』。


 それだけの、紙だった。


 でも、それだけの紙を、私は、自分の引き出しの、いちばん上に、そっと入れた。


     ◇


 夜。


 レオンが寝付いたのを、庭側の部屋の扉越しに、ハンネスさんが確認してくれた。──ハンネスさんが、戻ってくる時の、廊下を踏む歩き方の静けさは、いつものこの人の歩き方とは、別人だった。副官という職業は、本当に、別の顔を、たくさん持っている。


 ルーカス様の執務室で、筆談ノートを、真ん中で、開いた。


 ペンを、ルーカス様に、渡した。


「今日の、あの子のこと、書いてください。ひとつだけで、いいので」


 ルーカス様は、少しだけ、迷ってから、短く、書いた。


『足、素直だった』


 それだけだった。


 私は、その下に、自分のペンで、書いた。


『ペン、持つ手、まだ硬い。明日、軸を細く』


 二本のペンの、それぞれのひと言が、同じ頁の上で、並んだ。


 同じ頁の上に、大人ふたりの、今日のあの子の見方が、ちゃんと、並んだ。七年前、この作業を、私は一人で、公爵家の書斎で、していた。今夜は、隣に、ペンをもう一本、握っている人がいた。


(……一緒に書く、ということ)


 それ以上は、考えなかった。考えなくても、分かっていた。


     ◇


 頁を閉じようとした時、扉が、静かに叩かれた。


「セレナ殿。夜分に、失礼します」


 ハンネスさんだった。普段の軽さが、声の前半から、抜けていた。


「王都から、先触れが、今」


 封書を、差し出した。


 蝋の紋は、王家のものではなかった。外務方のものでもなかった。──ノルデン王国の、外務省の印、だった。


『先触れ。通商条約改定のため、当方の交渉団主席以下が、貴領境に向けて、近日中に出発いたします。正式な日程は、別便にて』


 短い文面だった。短いぶん、中身の重さだけが、丁寧に、押し込まれていた。


 ルーカス様は、封書を受け取って、しばらく、壁の地図のほうを見ていた。国境線の、薄く引かれた線を、指先で、一度だけ、なぞった。


 私は、筆談ノートを、先に、閉じた。今日の頁の、ふたりで書いた並びの上を、もう一度だけ、手のひらで、撫でてから。


 夏の夜の風が、執務室の窓の外で、庭の花弁を、ゆっくりと揺らしていた。明日も、あの子の朝があり、その次の日も、ある。──その、どこかに、今日の封書が、重なって、来る。

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