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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第7話 お前の子なら、守る


 後見人という立場の人から手紙が来ると、朝の空気の、かたちが、少しだけ変わる。


 正確には、空気そのものが変わるわけではない。手紙を読んだ私の呼吸の幅が、読む前と、少し違う幅になる。それだけだ。けれど、同じ経理室の、同じ窓から入ってくる同じ潮風が、違って感じられる。それだけで十分に、季節の進み方が変わる気がした。


 ヴァイス領の春は、ゆっくりと、初夏に傾き始めていた。石畳の端の苔が、青い色を通り越して、うっすら黄みを帯びる時期。庭の白い花壇に、蕾が、ぽつぽつと戻り始めていた。薔薇園のあの明るい緑の筋は、帰りの馬車からずいぶん経った今も、時々、目の奥に、ふと浮かんでくることがあった。


 朝、使用人が机の端に置いていった書簡の束の、一番上。見覚えのある筆跡が、静かに、待っていた。


 封蝋は、グランツ家のもの。ただし、蝋の横に、もうひとつ、小さな紋が併記されていた。王家監察局の印だった。公爵位が一時停止中の家が、監査下を明示して出す書式。──あの家の、今の、正しい、出し方だった。


     ◇


 封を切った。


 便箋は、一枚だけ。短かった。短いけれど、短さの作り方に、気を遣った痕が、はっきりと残っていた。


『セレナ 様


 過日のご訪問を、お許しいただけましたこと、あらためて、お礼申し上げます。


 本日のお便りは、後見人としての、正式な申し入れでございます。


 夏の盛りの前後の、ひと月ほど──

 レオンを、ヴァイス伯爵領にて、お預かりいただけませんでしょうか。


 王家監察局の同行、および、滞在中の報告の義務は、すべてこちらで引き受けます。

 費用も、こちらで整えます。


 ご迷惑であれば、遠慮なく、お断りくださいませ。


 今回の申し入れは、私からではなく──

 あの子が、私に申し出たことを、そのまま、お伝えしております。

 レオン自身の、望みです。


 お返事は、急ぎません。


           アルベルト・フォン・グランツ』


 便箋の、最後の二行のところで、指が、止まった。


 ──あの子の、望み。


 私からではない、という一行。


 父親のほうが「自分の希望」として書かなかったこと。それが、この手紙の重さの、ほとんどを、占めていた。


(……レオン)


 冬にこの屋敷に来て、白い花壇の前で、小さな手を私に差し出したあの子の、ひと月。


 ひと月というのは、子供にとって、どれくらいの長さの単位なのだろう。大人のひと月と、八歳のひと月は、たぶん、流れ方が違う。私の記憶の中の子供時代の夏は、いつも、終わらない長さだった。あの終わらない長さが、あの子の中に流れる。それが、ヴァイス領で、流れる。


 便箋を、畳んだ。畳んだけれど、封筒には戻さなかった。戻したら、そのまま引き出しに入れてしまいそうな気がしたからだった。


     ◇


 ルーカス様の執務室の扉を叩いたのは、午前の、いちばん忙しくない時間帯を選んでのことだった。


 朝の見回りから戻ってしばらく、午後の書類の前に机を整えている時間。この時間のこの人は、たいてい、壁の地図の前に立っている。今日もそうだった。


「……少し、お時間、よろしいですか」


「ああ」


 机の前の椅子を、少しだけ動かしてくれる動作は、もういつもの動作だった。私は腰かけて、便箋を机の上に差し出した。宛名の「セレナ様」の一行が、ルーカス様の側から読める向きに、整えて。


 ルーカス様は、読んだ。今日は、飛ばさなかった。短い手紙だったけれど、短いぶんだけ、きちんと、追っていた。読み方で分かった。──この人は、数字は飛ばすが、人の声が混じった文字は、飛ばさない。そういう読み手だった。


 最後の二行のところで、視線が、少しだけ、長く止まった。


 顔を上げないまま、机の左の引き出しに、手を伸ばした。


 ──筆談ノートが、出てきた。


 ルーカス様の声は、日中のほとんどの時間、もう普通に使える。朝の見回りのあとに短い咳が残る程度だ。それでも、この人は、大事なことを口にする時、時々、ペンのほうを選ぶ。冬の夜の、あの紙から、少しずつ、この人の中に育ってきた癖だった。


 ノートを開いた。白い頁の、ちょうど真ん中あたり。ペンを持ち直して、静かに、書いた。


『お前の子なら、守る』


 それだけだった。


 紙を、私のほうに、向けた。


     ◇


 文字を、目でなぞった。


 ──お前の子。


 あの子の血は、私のものではない。それは、あの子も、私も、この人も、全員、承知の話だ。承知のうえで、この人は、「お前の子」と書いた。


 血の話ではない、と、ペンは、言っていた。この人の判断の中では、あの子は、私が育てた子、という、ただ一点によって、私の子だった。そのひとつの基準だけで、この人は、迷いなく、筆を下ろしていた。


 ──守る。


 守る、という言葉が、これほど短く、これほど重く、紙の上に置かれているのを、見たのは、初めてだった。軍人の書き方なのだろう、と、思う。軍人はたぶん、この言葉の重みを、体のほうで覚えている。でも、軍の外の誰かに向けて、自分からこの言葉を書く場面は、そう多くはないのだろう。


(……この一行、私が、もらっていいのだろうか)


 顔を上げたら、ルーカス様は、机の木目を見ていた。こちらの反応を見るのが、少しだけ怖い時の顔だった。この人がこういう顔をする時は、たいてい、本人は、それに気づいていない。


「……お預かりします」


 声は、平坦に出た。平坦だったのは、感情がなかったからではなくて、これ以上は何も足せない、という種類の平坦さだった。


「ああ」


 ルーカス様は、ノートを、閉じなかった。閉じないまま、開いた頁を、机の上に、そのまま残した。たぶん、今夜、もう一度、この頁を読んで、それから、どこかに、保管するのだろう。壁の額の、隣に増やすのかもしれない。──それは、この人の、好きにすればいい話だった。


 私は、便箋を、畳み直して、封筒に戻した。今度は、ちゃんと、戻せた。


     ◇


 夕方、ハンネスさんを、廊下で捕まえた。


 事情を、短く話した。ひと月、八歳の子供が、この屋敷に来る。──ハンネスさんの反応は、早かった。


「了解っす。部屋、どこ使います?」


「……部屋」


「子供部屋ですよ、セレナ殿。冬に坊ちゃんが来た時は日帰りだったから、用意しなかったですけど、今回はひと月でしょ。寝る場所、遊ぶ場所、勉強する場所、分けといたほうが、あとあと楽です」


「……そう、ですね」


「経理室の隣、物置になってる部屋、使います? 窓がひとつしかないんですけど、日当たりは悪くないんで」


 経理室の、隣。


 その一言が、私の中で、一瞬、引っかかった。


 引っかかった自分に、自分でも、少しだけ、驚いた。──七年間、私は公爵家で、あの子の部屋を、自分の書斎のすぐ隣に置いていた。夜中に帳簿をつけている私の耳に、あの子の寝息が届くように。私の朝が、あの子の朝より、わずかに早く始まるように。


 それが、私の、「子供部屋の置き方」の、手癖だった。仕事のすぐ隣に、あの子を置く、という手癖。


 ──今度は、それではいけない、と思った。


 ひと月、ここにあの子が来るのは、私の仕事の隣に座らせるためではない。私が顔を上げたら、ちゃんと自分で外を見て走り回れる場所に、あの子の居場所を、置かなければならない。


「……ハンネスさん。経理室の隣ではなくて、お庭に面した部屋を、ひとつ、お願いできますか」


「お庭、ですね」


「はい。白い花壇の見える側の」


「了解っす」


 ハンネスさんは、特に何も訊かずに頷いた。訊かないのが、今日のこの人の、いちばんの優しさだった。


     ◇


 夜。


 自室の窓を開けた。潮風と、苔の匂いと、土の匂いが、少しずつ、夏の匂いに混ざり始めていた。


 机の上に、アルベルト様の封筒と、ルーカス様の筆談の頁を、並べて置いた。筆談の頁は、ルーカス様が執務室から引き取って、夕食の前に、私の机まで、自分で届けてくれたものだった。「これは、お前に」とだけ言って、置いていった。


 二枚の紙の間に、夏の、ひと月分の時間が、静かに、横たわっていた。


 窓の外で、夜の風が、花壇の蕾を、ゆっくりと、揺らしていた。あの子が来る頃には、この蕾はたぶん、もう、開いている。

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