第6話 焼き残した、一冊
薔薇の蔓は、冬より、少しだけ太くなっていた。
それが、馬車を降りて、門の外から最初に目に入った景色だった。旧マルガレーテ様のご実家、その古い薔薇園。王都の中心から少しだけ離れた、昔の貴族の住まいが残る通りの奥。門は、鉄細工の、装飾の多い古い形だった。表面の塗装が、あちこちで剥げていて、剥げた場所から、もとの鉄の色が、薄く覗いていた。
薔薇は、まだ、咲いていなかった。
蔓だけが、組まれた鉄のアーチに、ぐるりと巻きついていた。冬の終わりには、この蔓の半分以上が、枯れ色に見えていたのだろうと思う。今日は、枯れ色の中に、明るい緑の筋が、薄くだけれど、確かに、混じっていた。
「……行ってきます」
馬車の扉を閉める前に、ルーカス様に、ひと言だけ、言った。
「ああ」
それだけだった。それだけで、足りた。
ルーカス様は、御者台のすぐ後ろの席で、窓を細く開けて、外の空気を入れていた。外套の襟は、立てていなかった。今日の風は、冬のそれとは違って、この人の喉に障る種類のものではない、という判断らしかった。こちらを見て、軽く、頷いた。──行ってこい、の、頷きだった。
私は、門を、一人で、潜った。
◇
アーチの下を抜けると、砂利を踏む音が、思ったより大きく、自分の耳に返ってきた。
人の気配は、奥のほうに、ひとつだけ。誰かがしゃがんで、蔓の根元を、手でいじっている影が、遠くに、薄く見えた。
近づくまで、声はかけなかった。
砂利の音で、向こうにも、こちらの到着は伝わっていたはずだった。それでも、マルガレーテ様は、しばらく顔を上げなかった。蔓の根元の、土の湿り具合を、親指と人差し指で、確かめていた。その確かめる動作には、迷いが、なかった。──庭師の、動作だった。私が知っているあの方の、どの動作にも、なかったものだ。
やがて、ゆっくりと、立ち上がった。
「……ようこそ」
記憶の中のあの方の声より、重さが、一段、下に落ちていた。
白髪が、以前より、増えていた。いや──もしかしたら、前から同じくらいあったのを、粉で隠さなくなっただけかもしれない。頬の肉が、少しだけ、削げていた。背筋だけは、昔のままだった。あの方は、背筋を落とさないまま、痩せる種類の人だった。
「お呼び立てを、お許しくださいませ」
「……いえ」
自分の声が、思っていたよりも、平坦だった。
怒りは、もう、ずいぶん前からなかった。懐かしさでも、なかった。「この人と並んでいる」という状況そのものが、胸の温度を、普段とは違う場所に置いてしまう。そういう対面だった。
◇
マルガレーテ様は、アーチの下に、私を招いた。
蔓の根元の、古いベンチ。塗りが少しだけ剥げた、木の椅子だった。私が腰かけると、少しだけ間を空けて、マルガレーテ様も、同じベンチの端に、腰を下ろした。並んで座るのではなく、並んで座れる距離のところに、ただ、隣合わせに、座った。
それだけでも、昔とは、ずいぶん違う位置だった。
「蔓を、自分の手で触れるようになるまで、少し、時間がかかりました」
マルガレーテ様は、自分の指先を、膝の上で、一度だけ、見た。指先には、土の粒が、乾いたまま、薄く残っていた。指輪は、していなかった。
「若い頃、この庭の手入れは、全部、庭師に任せておりました。私は、植えたいものを指で示して、水の量も、剪定の時期も、全部、人任せでした」
「……」
「一度も、自分の手で、蔓の根元を、触ったことがなかったのです。六十の手前になって、ようやく、土の湿りを、指で覚えました」
声色に、自嘲の色は、薄かった。嘆きでもなかった。ただ、事実として、自分の手の来歴を、順番に、確かめているような、語り口だった。
私は、返事を、すぐには、返さなかった。
(……このベンチに、隣り合わせで座っていることが)
(昔のどの夜会よりも、落ち着いて、話ができる場所だということ)
声には、出さなかった。
◇
マルガレーテ様が、膝の横に置いていた、小さな包みを、両手で持ち上げた。
革の、薄い冊子だった。古い革だ。角が、擦り切れている。──どこかで、見覚えのある種類の擦り切れ方だった。帳簿を、長く抱えて歩いた人の、手の跡。
「……これを、お持ちいただけないかと、思いまして」
差し出された。
受け取るかどうかを、ほんの一瞬、迷った。迷ったけれど、迷い方は、返事の書き出しでペンが止まった夜より、ずっと、軽かった。
私は、両手で、受け取った。
「……開けても、よろしいですか」
「お願い、いたします」
表紙を、開いた。
一頁目。若い筆だった。若い、というのは、元気のいい、という意味ではなかった。字の線が、少しだけ硬い、という意味での、若さ。経験が、筆に乗り始める前の、整ってはいるけれど、型通りすぎる字。
その字で、びっしりと、家のことが、書いてあった。
『一月二日 朝 ──厨房。カブ、玉葱、塩の壺、いずれも昨日より減。料理長に確認、問題なし』
『一月三日 午後 ──使用人の当番、洗濯女と厨房女中の入れ替え、本日より試行』
『一月五日 夕 ──来賓、公爵閣下の叔父君ご一行。席次、南の窓側』
公爵家の、台所と、人手と、来客の、記録だった。
社交界の裏の噂話では、なかった。誰の秘密でもなかった。──ただの、家のことだった。三十年前、若いマルガレーテ様が、公爵夫人として嫁いだ直後、誰にも教わらずに、自分の手で組み立て始めた、家の帳簿。
(……私の、七年と、同じものだ)
同じものでは、なかった。書式も、符丁も、全部、あの方のやり方で、私のやり方ではなかった。でも、組み立てる時の指の迷いの、跡の残り方が、似ていた。引き継ぎ相手がいない時の、人間の筆が持つ、あの独特の硬さ。誰かに渡す前提で書いていないから、省略が、勝手に起きる。あの省略の癖が、三十年前のこの頁にも、ちゃんと、残っていた。
頁を、何枚か、めくった。
表紙の内側まで、戻ってきた。
革の貼り込みの上に、鉛筆で、走り書きが、あった。線が、震えていた。最近書いたのだと、分かる震え方だった。
『この帳簿の読み方を、次の方に渡せないまま、三十年が、経ちました。
マルガレーテ』
◇
指が、そのまま、止まった。
マルガレーテ様は、ベンチの隣で、蔦のほうを、見ていた。こちらの顔を、見なかった。見ないでいてくれている、というほうが、たぶん、近かった。
「冬に、もう一種類の帳簿を、全部、焼きました」
静かに、言った。
「あれは、焼いてよいものでした。焼くべきものでした。誰にも引き継いではいけない種類のものでした」
「……はい」
「ただ、この一冊だけは、焼けませんでした。焼こうとして、何度か、暖炉の前まで持っていって、そのたびに、戻しました」
マルガレーテ様の指が、膝の上の土の粒を、一度だけ、払った。
「──焼いては、いけない気がしたのです。あなたを見ているうちに、そう、思い始めました」
「私、ですか」
「ええ。あなたが、あの家の帳簿を、七年、お書きになっていたことを、私は、ずっと、知らないふりを、しておりました。知らないふりが、できないと、気づいたのは、冬の、扇の、あの夜でした」
あの夜、と、マルガレーテ様は、言った。「落とした」とも「落ちた」とも、仰らなかった。
私は、冊子の表紙を、そっと、閉じた。
◇
帰りの馬車の中は、揺れが、少なかった。
王都の中の道は、どこもよく整備されている。外の音より、自分の呼吸の音のほうが、耳にはっきりと聞こえる種類の、揺れの少なさだった。
ルーカス様は、隣の席に戻っていた。道中、何も、訊かなかった。ただ、こちらの膝の上の、革の冊子を、一度だけ、目の端で確認した。それだけだった。
私は、冊子を膝の上に置いたまま、少しだけ、横に手を伸ばした。
ルーカス様の手のひらの上に、指先を、そっと、置いた。
ルーカス様は、驚かなかった。驚かないまま、手を、ゆっくり、ひっくり返して、私の指を、包んでくれた。剣だこのある、硬い手だった。──冬の夜の、筆談の時と、同じ温度、だった。
言葉は、要らなかった。
窓の外を、王都の午後の光が、流れていった。光の中に、薔薇の蔦の、あの明るい緑の筋が、まだ、目の奥に、残っていた。
膝の上の冊子の、古い擦り切れ方を、私の親指が、一度だけ、撫でた。
三十年、誰にも渡されなかった一冊が、今、私の膝の上に、置かれていた。




