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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第5話 門の外で待つ、という言葉


 机の端に、見慣れない封蝋が、ひとつだけ、載っていた。


 朝の経理室の、昨日の続きの書類の横。雪解けからの風で紙が飛ばないように、私が毎日、文鎮の代わりにしている小さな硝子の重し。その重しの下に、薄い封書が一通、挟み込まれていた。誰かがそっと挟んでおいてくれたのだ。朝、ここに来るのは私だから、見逃しはしないでくれ、という置き方だった。


 封蝋には、見覚えがあった。


 グランツ公爵家のものではなかった。もっと古い、もっと細やかな紋。──旧マルガレーテ様の、ご実家の紋だった。


 宮廷の夜会の席次表を作るために、ある年、私が何度も確認した紋だ。あの頃のマルガレーテ様は、ご実家の紋も、ご嫁ぎ先の紋も、どちらも気にされる方だった。どちらを表に出すかで、社交界の温度が変わる、という種類の気にし方だった。


 今日の封は、実家の方、だった。


(……これは、お呼びの意味が、少し違う)


 指の腹で、封蝋を、そっと撫でた。


     ◇


 開けるのに、少し時間がかかった。


 急ぐ種類の手紙ではなかったし、ゆっくり開けたら中身が変わるわけでもなかった。ただ、朝のこの時間に、一気に開けてしまう気に、どうしてもなれなかった。


 窓を、細く開けた。春の朝の、乾いた風。石畳の端の苔の匂いが、今朝もまだ、薄く立ち上ってきた。


 封筒から、便箋が、一枚だけ、出てきた。


 折り方は、古いやり方だった。読まなくても、折り目の揃え方で、差出人の品位の作り方が透けて見える。そういう種類の折り方だった。


 広げた。


『セレナ 様


 お変わりなく、お過ごしでしょうか。


 私の家の、古い薔薇園を、少しだけ、手入れし始めました。

 庭師の手を借りず、自分の手で、やっております。

 不器用で、蔓の絡ませ方もまだ覚束ないのですが、

 冬の間に枯れたと思っていた蔓が、

 いくつか、戻ってきました。


 もし、お気に障らないようでしたら、

 一度だけ、見にいらしてはくださいませんか。


 返事は、急ぎません。

 お気持ちの通りに、なさってくださいませ。


                 マルガレーテ』


 便箋を、卓の上に置いた。


 しばらく、その字を、見ていた。


 記憶の中のマルガレーテ様の筆は、もっと角が立っていた。整ってはいたが、整い方に重みがあって、読み手に「うっかり返事を書き間違えるな」と言ってくる字だった。


 今日の字は、違った。


 整ってはいた。それは昔のままだった。でも、角が、少しだけ、落ちていた。──落ちた、というより、落とした、のかもしれない。角を自分で、ひとつずつ、削りながら書いた字。そういう字に見えた。


(……不器用で、蔓の絡ませ方もまだ覚束ない)


 あの方が、この言葉を、自分の手で、紙の上に置いたのだ。


     ◇


 便箋を、引き出しの一番上に、そっと入れた。鍵はかけなかった。かける相手もいなかった。


 午前中の仕事に、戻ろうとした。


 戻ろうとしたのに、数字の列を追う目が、いつもと違う動き方をしていた。十の位で、一度、引っかかる。百の位で、もう一度、引っかかる。引っかかる場所が、計算の切れ目ではなく、別のところにあった。


 ペンを、置いた。


 ──父の手紙の時とは、迷い方が、違った。


 父は、謝罪する権利のある人だった。娘の結婚を止めなかったことを、八年、一人で抱えていた人だった。だから、あの呼び出しは、私にとっても、行くか行かないかではなく、どう帰るか、の話だった。


 マルガレーテ様は、違う。


 あの方には、私に謝罪する権利が、ない。


 権利がない人から「一度だけ」と言われた時、受け取る側は、どういう顔をすればいいのか。そのやり方を、私はまだ、教わっていなかった。


(……扇)


 冬の終わりに、大聖堂の広間で、あの方の手から落ちた、硬い、乾いた音。あの音を、私は、拾い上げなかった。拾いに行った側仕えの方を、あの方ご自身が、手の動きだけで、制した。──あの時の判断を、今でも間違いだったとは思っていない。


 ただ、間違っていなかったことと、正しかったことは、少し、違う。


 紙に向かって、私はようやく、そのことに気づいた。気づいたからといって、何かが解ける話でもなかった。


     ◇


 午後。


 ルーカス様の執務室の扉を叩いた。


 この扉を叩く時の心臓は、近頃はずっと穏やかだった。それでも今日は、少しだけ、違う種類に戻っていた。仕事の相談ではない相談を持ち込む、あの頃の叩き方だった。


「入れ」


 入った。


 ルーカス様は、壁の地図の前に立っていた。新しい付け足しの線を見ている途中だったらしい。振り返って、私を見て、何も言わずに、机の前の椅子を、わずかに動かしてくれた。腰かけろ、という、それだけの動きだった。


 便箋を、机の上に置いた。差出人の名前が見えるように、向きを整えて。


 ルーカス様は、読んだ。読むというよりは、文字の並びを目でなぞる、というふうの読み方だった。読み終わって、少しだけ、息を吐いた。


「……薔薇園の話、だな」


「はい」


「行くのか」


「まだ、決められずにいます」


 ルーカス様は、机の木目を、一度だけ見た。木目を見ている時のこの人は、頭の中で地形を描き直している時の顔だ。この頃はもう、どういう時にその顔が出るか、こちらにも少しは読める。


「……お前が、決めろ」


 予想通りの一言だった。これで終わると思っていた。


 私は、小さく頷いて、便箋を引き取ろうとして、──手が、途中で止まった。


 ルーカス様の声が、続いていた。


「行くなら、俺も行く」


「──え」


「中には入らない。お前の話に、俺の顔を混ぜるのは、筋が違う」


 ルーカス様は、机に両手をついた。両手をついたまま、こちらを、まっすぐ見た。


「門の、外で、待つ」


 短かった。短いけれど、いつものあの「お前が決めろ」の一言とは、重さが、はっきり違っていた。


「……門の、外で」


「ああ」


「どれくらい、ですか」


「お前が、帰ってくるまで」


(……ああ)


 耳の後ろの骨のきわのあたりが、少しだけ、熱くなった。耳全体ではない。骨のきわの、小さな場所だけ。


 この人は、「決めるのはお前だ」を、八年前から変わらず、今日も言った。でも今日は、そのあとに、ちゃんともう一行が、ついていた。──お前が決めたあと、俺は、そこにいる。


 便箋を、もう一度だけ、両手で畳み直した。


「……ありがとうございます」


 ルーカス様は、頷いた。頷いてから、ほんの少しだけ、目元を細めた。笑ったのではなかった。笑う前の、呼吸のひとつ手前の、目の細め方だった。


     ◇


 夜。


 自室の机に、返事の便箋を広げていた。


 宛名の「マルガレーテ様」を、書き出そうとして、止まった。止まったまま、ペンの先のインクが、紙に落ちないように、手の角度だけを、慎重に守っていた。


 ──「お伺いいたします」、と書くのか。


 ──「今は、お伺いしかねます」、と書くのか。


 行きたいのでも、行きたくないのでもなかった。ただ、書き出しが、どちらにしても、今夜は決まらなかった。


 ペンを、硯の横に、静かに戻した。戻してから、少しだけ、自分でおかしくなった。七年、迷いなく筆を走らせてきた手が、今夜はこんなに、動かない。


 窓の下で、春の夜風が、白い花壇の花弁を、ゆっくりと揺らしていた。花弁の揺れる幅が、昼より、ほんの少しだけ、大きかった。


 書き出しは、明日の朝、もう一度、考えてみることにした。


 門の外で待つ、という言葉が、机の端の空気の中に、まだ、静かに、残っていた。

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