第4話 届く前に、倒れていた
嫌がらせというのは、届く前に自分で倒れてしまうことがあるらしい。
昼前の経理室に、マッテオさんが姿を見せた時、私は咄嗟にそう思った。マッテオさんの顔は、怒ってはいなかった。笑ってもいなかった。仕事ができる商人の、「面倒事を片付けに来た時の顔」だった。
母の文箱の話をしてから、春が、ひとつ、先に進んでいた。石畳の縁に生えた苔が、もう青い。窓辺の鉢の土が、朝になると匂いを少しずつ変える。そういう季節だった。
この頃はもう、婚礼に関わる小さな段取りが、ちらほらと動き始めていた。──「ちらほら」で済ませていたのは私の性分のせいで、周りはそれなりに忙しかったらしい。私は婚礼という行事の経理のことしか考えていなかった。いけない、と気づいたのは、マッテオさんに会ってからのことだった。
「セレナ様。ちょいと、耳に入れておきたい話が、ひとつ」
マッテオさんは、帽子を脱いで、椅子の背にかけた。脱ぎ方で分かる。今日は、長居をするつもりの話し方だ。
「王都の、マルタ商会の奥方から、魔法鳥で連絡がありましてね。あちらに出入りしてる小さな仕立屋が、先日、妙な依頼を受けた、と」
「妙な依頼、と言いますと」
「『ヴァイス伯爵家の婚礼は、結局、取りやめになった。注文の小物一式の納品は、急がなくていい』と。使いの者が、そう伝えにきた、と」
ペンを、机の上に置いた。
「……取りやめ、ですか」
「取りやめ、です。はっきりと、そう」
マッテオさんは、帽子の縁を指で撫でながら、続けた。
「その仕立屋、仕事の義理堅い方でしてね。こっちに確認の便を投げてくれるまでが、早かった。確認してみたら、当然、うちは取りやめる予定なんて、聞いてない」
「誰からの、伝言だったのですか」
「使いの者は名乗らず。でも、仕立屋が目ざとい人でね。外套の内側に縫い付けてあった家の紋を、ちらりと見てたんですよ」
マッテオさんは、声を、少しだけ落とした。
「メルツ、でした」
◇
(……メルツ、ですか)
頭の中で、記憶の引き出しが、ひとつ、静かに開いた。
メルツ男爵家。──リーリエさんの、生家。公爵家から送還されたあと、長く社交界から遠のいていた、家。
何かが、指先を一瞬だけ冷たくしかけた。けれど、それよりも先に、別のことに気づいた。
この話、まだ、私の耳にしか、入っていない。
──つまり、この場で私がどういう顔をするかを、マッテオさんは見に来たのだ。商人らしい判断だった。情報というものは、持ち込む相手の顔色次第で、扱いの軽さが、変わる。
「……マッテオさん」
「はい」
「この話、ルーカス様にも、お聞かせしてよろしいですか。一緒に、伺いたいのです」
「もちろんです。その方が、話が、早い」
マッテオさんは、帽子をまた被り直した。
◇
ルーカス様の執務室は、午後前の静かな時間だった。
扉を叩いて、マッテオさんを先に通した。ルーカス様は書類から顔を上げて、マッテオさんと私を、順に見た。すでに何か察している顔に、見えた。そう見えた、という話で、本当のところは分からない。この人は、察していても、察していないふりがうまい。
マッテオさんが、先ほどの話を、もう一度、短く、繰り返した。
話が終わると、ルーカス様は、しばらく机の木目を見ていた。木目を見ている時のこの人は、怒っているのでも、困っているのでもない。頭の中で地形を描き直している時の顔だ。
やがて、短く、言った。
「……俺の問題だ」
口の中で、その言葉を一度だけ転がしたらしい。わずかな間があって、言い直した。
「──俺たちの、問題だ」
マッテオさんの帽子の縁が、ほんの少しだけ動いた。笑いを堪えた、というのに近い動きだった。商人は、こういう間を、見逃さない。
「ありがとうございます、ヴァイス伯爵。じゃあ、うちとしては、例の使いの紋の話、ちょっとばかり、別の形で広がってしまっても、お構いなく、ってことで」
「……どういう意味だ」
「うちの連合の、朝の集まりで、自然と話題になるって話ですよ。誰かが仕向けるわけじゃない。マルタ商会の奥方が『こういう妙な使いが来たんですよ』って笑い話にするだけで、話は、一日で王都を回ります」
マッテオさんの語り口は、相変わらず穏やかだった。穏やかだからこそ、中身の重さが、よく見えた。
ルーカス様は、しばらく、返事をしなかった。
「……お前が、決めろ」
マッテオさんのほうではなく、私のほうを見て、言った。
(……ああ)
少しだけ、驚いた。驚いた、というよりは、ちゃんと気づかされた、が近かった。この人は、自分の問題として引き取って、それから、自分の問題じゃないほうに、もう一度、丁寧に戻したのだ。
私は、少しだけ、考えるふりをした。答えは、考える前から、決まっていた。
「……マッテオさん。朝の雑談は、いつも通りに、どうぞ」
「了解です」
マッテオさんは、帽子の縁に指を当てた。商人の、短い礼だった。
◇
マッテオさんを玄関まで送って戻る途中、廊下の真ん中で、ハンネスさんに出くわした。息を、少しだけ切らしていた。
「セレナ殿ー。今、マッテオの兄さんから軽く聞きましたけど。あれ、あれですよね、メルツの話ですよね」
「ええ」
「俺、王都の知り合いの副官筋に、一応、先触れ出しときました。念のため、にはなるんですけど」
「……念のため、ですか」
「連合が話題にするより先に、将校筋で一回だけ、話の裏を取っておくと、後々、商人の信用の話にせずに済むんで。連合は連合、軍は軍で、別のルートを通しておくのが、手堅いです」
(……手堅い)
副官という職業が、ここのところ、少しずつ別の顔を見せ始めていた。ノートに私の符丁を写していた人と、廊下でこういう段取りを口にする人は、同じ人だった。同じ人だと気づくまでに、私は、ずいぶん時間がかかっていた。
「お願いします」
「了解です、セレナ殿」
ハンネスさんは、そのまま廊下を抜けていった。背中の歩幅が、普段よりずっと、詰まっていた。
◇
夕方。
経理室の窓から、西の光が少しだけ傾いて差し込んでいた。机の端に、使用人が、また別の書簡を置いていった。
封蝋は、今度は王都の外務方のもの。
開けると、中身は、簡潔だった。
『予備連絡。ノルデン王国外務省より、五年に一度の通商改定のための使節団派遣の打診あり。貴領地を窓口とする案にて調整中。後日、正式な日程を通知いたします』
ノルデン王国。
隣国の、外務省。
書簡を、静かに卓の上に置いた。置いた手が、一瞬だけ、止まった。
朝に届かなかった嫌がらせが、ひとつ、勝手に倒れた。同じ日の夕方に、もっとずっと先の仕事が、ひとつ、こちらへ向かって歩き出していた。こういう日は、たぶん、人生に、何度もない。
窓の外で、午後の光が、庭の白い花壇を、ゆっくりと渡っていくところだった。花弁は、冬より、少しだけ大きく、開いていた。




