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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第3話 文箱の底の、書かれなかった一行


 父からの手紙が届いたのは、ハンネスさんが自分の手で初めて一頁を締め上げた、その翌朝のことだった。


 封蝋はフェルゼン家のもの。几帳面に整った、少しだけ古風な筆。父の字だった。短い便箋を二度ほど読み返したけれど、用件は、それだけだった。


『セレナへ。


 母の文箱の底から、お前に渡すはずだったものが、出てきた。

 お前の都合のよい日に、一度だけ、帰ってきてくれるか。

 急ぎの用では、ない。


                     父』


 母の、文箱。


 窓辺に置いて、父の字を、もう一度だけ、目でなぞった。「急ぎの用ではない」は、たぶん、本当の意味では急ぎの用だ。父はそういう書き方をする人だった。急がせない、けれど、放っておかれたくない時の書き方。


 母が亡くなってから、もう随分になる。私が嫁いだ春の、その前の冬だった。文箱は、二階の北側の小部屋の、母の文机の上に、蓋をしたまま置いてあったはずだ。最後に私が蓋を開けたのがいつだったか、もう思い出せない。


 机の端に、昨日ハンネスさんが締めた帳簿が、きちんと閉じて置いてあった。あれの感触は、まだ指先に残っていた。人に渡すということの、くすぐったい、妙な重み。


 手紙を畳んで、ルーカス様の執務室へ向かった。


     ◇


「明日、少しだけ、実家に戻ります」


「ああ」


「母の遺品のことで。日帰りで済みます」


「……ああ」


 ルーカス様は、机から顔を上げて、それから、一度だけ瞬きをした。何か言いかけて、やめた。そういう時のこの人の動きには、もう慣れていた。言いかけて、やめる、というのは、この人にとっては「行ってらっしゃい」より長い返事なのだ。


「……一人で、大丈夫か」


「大丈夫です。街道も落ち着きましたから」


「ハンネスをつけてもいい」


「いえ、本当に。すぐ戻ります」


 ルーカス様は、頷いた。頷いてから、少し遅れて、筆談用のノートを引き出しから出して、机の上に置いた。置いたけれど、今日は開かなかった。ペンを持ったまま、しばらく何かを考えて、それから、息と一緒に、声にした。


「……気をつけて」


 掠れてはいなかった。冬の夜よりも、ずっと楽に出た声だった。


 それだけが、いつもより、わずかに長い見送りだった。


     ◇


 父の屋敷の門は、記憶より、さらに小さく見えた。


 離縁で戻ってきた春には、「小さくなったのではない、私の目が公爵家の門に慣れていただけだ」と、自分に言い聞かせたものだった。今日は、そういう話ではない気がした。ただ、家そのものが、こちらを待つような静けさを帯びていた。そういう種類の、静けさの家だった。


 父は、玄関の手前で、いつもと同じ格好で待っていた。


「帰ったか」


「ただいま戻りました、お父さま」


 茶を淹れてくれた。母の台所で、父の手で。カブと玉ねぎのスープの匂いは、今日はしなかった。昼はもう過ぎていたし、父なりに気を遣ったのだろう。


 客間の卓の上に、母の文箱が、蓋をしたまま置かれていた。


 黒漆の、薄くて平たい箱。蓋の表面に、細く野花の紋様が彫られている。母が嫁入りに持ってきたものだと、子供の頃に一度だけ聞いた気がする。それ以上のことは、訊かないまま、母は逝ってしまった。


「……開けるぞ」


 父の手が、蓋に触れた。


 古いものだから、蝶番が固かった。父の指が、慎重に、ゆっくりと持ち上げた。中には古い便箋の束と、細い筆と、畳んだ帛紗ふくさ。それから、底には、一枚の薄い板があった。


「この下だ」


 父は、底板の縁を、親指の爪でそっと押し上げた。底板は二重になっていた。上の一枚を外すと、下に、薄い封筒が、ひとつだけ、横たわっていた。


 封は、一度、切られていた。


     ◇


 私は、それを、両手で受け取った。


 封筒の表の字は、間違いなく、母の字だった。細くて、どこか気まぐれなところのある筆。宛名は、それだけだった。


『愛しい セレナへ』


 裏面には、何もない。日付もない。封蝋の跡は、一度だけ溶かされた跡だけが、薄く残っていた。──父が、一度、開けたのだ。


 中身を、取り出した。


 便箋が、一枚。


 本文は、なかった。


 上の方に、小さく『愛しいセレナへ』と、宛名と同じ書き出しだけがあって、その下が、真っ白だった。インクの染みもない。ペン先を載せようとして、そのまま、載せられなかった紙だった。


(……お母さま)


 指先が、紙の上で、止まった。


 父は、しばらく、卓の向こうで、何も言わずにいた。そのうちに、一度だけ、短く咳払いをして、それから、口を開いた。


「……書こうとして、書けないまま、逝った」


 私は、顔を上げなかった。


「お前が嫁ぐ前の冬だ。もう、体が言うことを聞かなくなっていた頃だったが、それでも、文机に向かって、この紙を何度も広げていた。何を書くのか、訊かなかった。訊いたら、お前の結婚に影が差す気がしてな」


 父の指が、卓の縁を、一度だけ、撫でた。


「母が逝ったあと、文箱を片付けていて、出てきた。お前に渡すかどうかを、迷った。──迷ったまま、底板の下に入れて、そのまま、八年になった」


 父が、少しだけ、頭を下げた。


「渡さなかったのは、俺の勝手だ。今になって、ようやく、それが俺の勝手だったと、分かる。お前の結婚を止める言葉だったのかもしれない、と、何度も思った。思ったから、余計に、渡せなかった」


 父は、そこで、一度、言葉を切った。


「……すまなかった」


 子供の頃から今まで、父に頭を下げられた記憶は、なかった。


     ◇


 紙を、胸に当てた。


 当てたまま、しばらく、声が出なかった。


 怒ってはいなかった。責める気持ちも、なかった。ただ、母が、最後の冬に、文机の前で、この紙を、何度も広げていたことだけを、今、ようやく知った。──私が知らないまま嫁いだあの冬に、誰かが、私のために、書こうとして、書けないで、いた。


 誰かが、書こうとして、書けないで、いた。


 それは、母だけではなかった気がした。


 一瞬だけ、頭の奥で、別の誰かの姿が、かすかに、重なった。けれど、今は、この紙のことだけを、考えていたかった。


「……お父さま。これ、いただいてよろしいですか」


「ああ。もともと、お前のものだ」


 父は、そう言ってから、もう一度、短く咳払いをした。咳払いは、この父にとっての、泣き声の代わりだった。子供の頃から、そうだった。


 封筒を、鞄の内側に、丁寧に入れた。


     ◇


 ヴァイス領に戻ったのは、日が落ちてからだった。


 馬車を降りた時、門の前に、ルーカス様が立っていた。見送りのときには言わなかったけれど、帰りは、待っているつもりだったらしい。外套の裾に、夜風の冷たさが、薄くついていた。


「……お帰り」


「ただいま戻りました」


 それ以上、道中のことは訊かれなかった。訊かれないのが、今日はありがたかった。


 夕食のあと、自室の机の前で、母の封筒を、もう一度だけ広げた。便箋の白さは、家にいた時と、同じ白さだった。灯りを少し落として、ずっとその白さを見ていた。


 それから、扉を叩いて、ルーカス様を呼んだ。


 入ってきたこの人に、便箋をそのまま見せた。長く説明はしなかった。母が最後の冬に書けなかったこと。父が、八年間、底板の下に入れていたこと。それだけを、短く、話した。


 ルーカス様は、しばらく、便箋の白い部分を見ていた。


 それから、低い声で、言った。


「……俺も、書けなかった」


「──ええ」


「八年、書けなかった」


 冬の夜の筆談で、この人はもう、似たことを書いた。それでも、母の白い紙を前にして、もう一度、同じ言葉が、この人の口から出てきたことの意味は、少しだけ、違った。


 ルーカス様は、便箋を、私の手に、そっと戻した。


「これは、お前のお母様のだ。俺が書くところじゃない」


「……はい」


「俺のは、俺のぶんで、別に書く」


 そう言って、今夜は、執務室へ戻っていった。引き留めはしなかった。たぶん、今夜、この人は、この人の紙に向かう。


     ◇


 翌朝。


 経理室の窓を開けたら、机の上に、白い紙が一枚、置いてあった。


 見覚えのある筆跡で、短く、書いてあった。


『八年前、行ってしまわないでくれ、と、書けなかった。


         ──だから、今、書く』


 紙を、両手で持ち上げた。指先の付け根のあたりが、小さく震えていた。


 昨夜、母の便箋の上に落ちなかった分の何かが、今朝、この紙の上に、一度に落ちてきたような気がした。


 鞄の中で、母の封筒が、そのまま眠っていた。白いままの便箋と、今朝、机にあった白い紙と。──同じ色の、違う沈黙だった。


 窓の外で、雪解けのあとの風が、庭の白い花壇を、ゆっくりと撫でていた。

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