第2話 副官の、秘密のノート
副官という職業の人は、時々、隠しごとが下手になる。
いや、本当は下手ではないのだと思う。戦場でも、交渉の席でも、ハンネスさんはきっと上手に隠せる側の人だ。ただ、経理室という場所に来ると、この人の引き出しは少しだけ緩む。数字を見ている時間が長いと、神経の別の場所が疲れるのかもしれない。
雪解けから、何日か経った朝だった。
石畳の継ぎ目を細く走っていた水の筋は、もう見えない。代わりに、路面の乾いた匂いが戻ってきていた。冬の湿りが引いたあとの、少しだけ軽い匂い。窓を細く開けて、私は昨日の続きの書類に向かっていた。
「セレナ殿ー、おはようございまーす!」
扉の開き方で、もう何も心配しなくていいのが分かる。毎朝のこれが、この人の開け方だった。両手に書類の束、外套の裾からまだ朝の冷気を連れてきている。副官って朝型の人がいいのかしら、と、どうでもいいことをふと考えた。
「今日の取り急ぎですね、港のマッテオの兄さんのとこの──」
ハンネスさんが、机の手前に書類を置こうとして──束の下から、何かが、すべり落ちた。
小さな、薄い、革表紙の帳面だった。
床の上でくるりと半回転して、こちらに表紙の裏側を見せた格好で止まった。
止まった瞬間、ハンネスさんの動きも、止まった。
◇
「……セレナ殿、それ、ちょっと、待ってください」
普段、滅多に聞かない声色だった。速くも遅くもない、中間の、なんというか──「見られたら困るやつを見られた瞬間の」声色だ。軍人という職業の人でもこういう声を出すのか、と、少しだけ感心してしまった。
私の足元に落ちたそれを、ハンネスさんが慌てて手を伸ばした。伸ばしたけれど、私のほうが机に近かった。膝を落とすのが、偶然、私のほうがわずかに早かった。
「あの、それ、俺の、ええと」
「落ちましたよ」
「落ちました、はい、落ちました、落ちたんですけど、それは、その、アレです、アレ」
ハンネスさんの語彙が、急に貧しくなった。
帳面の表紙に、インクで題字が書いてあった。大きくて、少しだけ不揃いな字。ああ、この字は、よく知っている。
『セレナ殿 語録 並びに 符丁の翻訳について(私案)』
読み上げそうになって、飲み込んだ。飲み込んで、もう一度、今度は心の中で読み直した。
(──語録)
(私の、語録)
「……ハンネスさん」
「はい」
「これ、開けても、よろしいですか」
「えー……ちょっとだけ、心の準備を、いただいてもいいですか、セレナ殿」
「どうぞ」
「……数えてから、お願いします」
数えるふりだけ、した。本当は数えていない。
◇
帳面を、開いた。
一頁目。几帳面に区切られた欄。左の欄に日付。右の欄に、私の書いた符丁が、そのまま写されていた。頭に点のあるもの、ないもの。横の小さな星。そしてその下に、鉛筆で、ハンネスさんの字。
『点あり→たぶん「急ぐ」の意。セレナ殿は急ぐと点を打つ気がする(仮説)』
『点なし→たぶん「普通」。でもたまに「重要だけど急がない」のときも点なし(要確認)』
『星ひとつ→優先。星ふたつ→……本人に聞くこと』
次の頁。交易路関税の欄の、四捨五入の扱いについて、ハンネスさんなりの解釈が並んでいた。間違ってはいなかった。半分くらい、合っていた。残りの半分は、私の書き方が悪い部分だった。
さらに次の頁。冬の在庫分類について。マッテオさんの声まで、鉛筆で書き起こしてあった。「うちの倅でも読めるようにしてほしい、と兄さん言ってた」の、短い一行。
息を、ゆっくり吐いた。吐いてから、自分が呼吸を止めていたことに、ようやく気づいた。
(……この人)
(一年、こんなことを)
顔を上げた。ハンネスさんは、机の向こうで、普段の倍くらい姿勢がよかった。副官の基本姿勢、らしい、たぶん、それは。でも、耳の先が、少しだけ赤かった。
「……怒りました?」
「いいえ」
「怒りますよね」
「怒ってません」
「怒ってないんですね」
「怒ってません」
同じ言葉を繰り返している時点で、ハンネスさんはたぶん、私の顔を見ていない。視線が、帳面の表紙に落ちたまま、上がってこなかった。
「……俺、帳簿、苦手なんですよ。知ってるでしょう。足し算のたびに頭痛がする人間で。でも、セレナ殿の書くもの、毎日見てると、なんか、分からないまま、『分かる日が来るかもしれない』って、思えてきて」
ハンネスさんは、ゆっくり息を整えた。
「分からないまま『分かる日が来るかも』って思えるのは、たぶん、書いてる人が信用できる時だけなんです。で、俺は、そういう時は、メモを取るしか、できないんで」
声の、いつもの軽さは、戻っていなかった。
◇
帳面を、閉じた。
閉じて、しばらく、手の甲で表紙を撫でていた。革の、少し擦れた手触り。副官が一年、外套の内側に入れて持ち歩いた手触りだった。毎日、誰にも見られないように、そっと抱えていたのだろう。
(……私、知らなかった)
(知ろうとも、していなかった)
一年、私は「自分にしか読めない書式」を作り続けていた。その隣で、「読めるようになりたい」と思っている人が、毎日こっそりノートを取っていた。昨日の朝、箱の中で見た符丁の欄外の鉛筆の跡は、ハンネスさんの「?」だった。あれは「分からない」の印ではなかった。「分かろうとしている途中」の印だった。
同じ鉛筆の跡でも、昨日と今朝で、ずいぶん違って見えた。
「ハンネスさん」
「……はい」
「これ、お借りしてもいいですか」
「あー、それは、ちょっと、恥ずかしいんで」
「恥ずかしい?」
「字が汚いんですよ。あと、仮説のところ、半分くらい間違ってるので」
「間違っているところを、教えてください」
ハンネスさんが、初めて、顔を上げた。
「……教える、って」
「正解を、お伝えします。あなたの仮説の隣に、私が、書き足します」
言ってから、自分で、少しだけ、驚いた。
一年、渡さずにいたもの。渡せないと思い込んでいたもの。その半分くらいは、相手がすでに、自分の側から、こちらへ橋を架けてくれていた。私は、向こう側からの橋に、気づいていなかっただけだった。
◇
昼前に、一度だけ、ルーカス様の執務室に寄った。
昨日のうちに頼まれていた関税率の試算を、届けるためだった。扉を叩いて、「入れ」の返事を聞いて、いつも通りに中へ入った。
入って、一歩で、止まった。
壁の地図の横。あの最初の分析報告書の額の、すぐ隣。
──新しく、額がひとつ、増えていた。
近づいて、中を見た。白い紙に、細い字で、ひと言だけ。見覚えのある筆跡だった。冬の夜の、筆談の紙。涙の跡が、乾いて薄い輪になっている、あの一枚だった。
(……いつの間に)
ルーカス様は、机の向こうで、ペンを動かしていた。こちらの気配には気づいているはずなのに、顔を上げなかった。上げない、というよりは、上げられない、という種類の背中だった。
「……ルーカス様」
「ああ」
「これ、飾られたんですね」
「……ああ」
短い返事だった。短いけれど、今朝のハンネスさんの耳の先と、同じ色の返事だった。
私は、試算の紙を机の上に置いた。ルーカス様は受け取って、相変わらず、数字の部分は飛ばしていた。その飛ばし方が、もう、愛嬌のようなものに見え始めていた。
額のことは、それ以上は、訊かなかった。訊かなかったのは、たぶん、私のほうが先に、耳の先が赤くなりそうだったからだ。
◇
午後。
経理室に戻ると、ハンネスさんが、机の向こう側に、例の帳面を広げて待っていた。
いつもの、慌ただしい姿勢ではなかった。軍人の基本姿勢でもなかった。副官としての、少しだけかしこまった姿勢だった。
「セレナ殿」
「はい」
「ひとつ、お願いがあります」
帳面の、ある頁の一か所を、指で押さえていた。港湾使用料の、逓減の欄。先日マッテオさんから「倅でも読めるように」と言われた、あの草稿の場所だった。
「この頁、ひとつだけ、俺に締めさせてもらえませんか」
一瞬、息が、止まった。
止まった、というよりは、吸うのを、うっかり忘れた、が近かった。
「締める、って」
「最初から最後まで。セレナ殿に渡さずに、俺が、俺の字で、俺の判断で。一回だけでいいんです。間違ってたら、あとで、いくらでも直してもらっていいので」
ハンネスさんの目は、机の上を、見ていた。見ていたけれど、逃げてはいなかった。
私は、少しだけ、考えた。
考えるというよりは、胸の中で、昨日の朝、自分に言い聞かせたことを、もう一度、確かめていた。──ほどくのだ。自分で結んだ結び目を、自分の指で、ひとつずつ。
ひとつずつ、というのは、たぶん、一人で、という意味ではなかった。
「……お願いします」
声は、平坦だった。平坦だったけれど、震えてはいなかった。
ハンネスさんが、顔を上げた。耳の先の赤みは、もう消えていた。代わりに、普段のあの、人懐っこい笑顔が、少しだけ、戻っていた。
「了解です」
机の上で、帳面が、静かに開かれた。
窓の外で、雪解けの水は、もう走っていなかった。石畳は乾いていて、午後の光が、その上に薄く、落ちていた。




