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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第1話 雪解けと、未処理の箱


 七年間の敵を全員倒したあと、鏡の中に残っていたのは、私だった。


 そう気づいたのは、経理室の窓を開けた朝のことだった。


 ヴァイス伯爵領の春先は、雪解けの匂いから始まる。石畳の縁から、昨夜の名残がじわりとしみ出してくる。土と木と、ほんの少しだけ潮の混じった匂い。冬と春の、ちょうど継ぎ目の匂いだった。窓の桟に指を這わせたら、薄い水の層が指先についた。拭く布を探そうとして、なぜか、探している手のほうが途中で止まった。


 机の上に、箱がひとつ、残っていた。


「未処理」と自分の字で書いた紙が、側面に貼ってある。冬の間、手が回らなかった書類をまとめて入れた箱だった。蓋を上げるのは、今朝が初めてだ。開けた瞬間、紙と、ほんのり冷えたインクの匂いが上がってきた。懐かしい匂いだった。懐かしすぎて、少しだけ怖い匂いでもあった。


 重ねられた束の、一番上を、引き抜いた。


 ──私の字だった。


 当たり前だ。私が書いたものを、私が入れたのだから。でも、問題はそこではなかった。


『第三四半期 交易路関税改訂案 草稿a三』

『港湾使用料逓減表 試作──暫定』

『冬季在庫の再分類について(私見)』


 この一年で私が組んだ書式の、原型たちだった。草稿。試作。改訂。改訂の改訂。──欄の切り方に、自分にだけ通じる符丁が、あちこちに散らばっていた。品目コードの頭に、点がある、ない。日付の横に小さな星。星の数は、たぶん、優先順位。


(……たぶん、じゃない)


(私が、そう決めたの)


 椅子に、座った。座ったら、しばらく立ち上がれなくなった。


     ◇


 紙を膝に置いたまま、窓の外を見ていた。風が冷たいのか温かいのか、今日は分からなかった。雪解けの季節はいつもそうだ。肌に当たるまで、こちらの気温なのか向こうの気温なのか、決まらない。


 七年前の書斎で、私は同じような箱を開けていた。


 形は違った。革の匣だった。インクの匂いが、今よりずっと重かった。でも、中身は似ていた。自分にしか読めない草稿。自分にしか意味の通らない符丁。あの頃の私は、「引き継ぐ相手がいない」という前提で書いていた。引き継がれないと決まっているなら、効率だけを追えばいい。──そう、思い込んで書いていた。


 それを。


 一年がかりで、ちゃんと、また作っていた。


 ここで。この経理室で。新しい家で。新しい人の、新しい机の端で。


(……やっていることが、おんなじだ)


 気づいた瞬間に、おかしくて、少しだけ笑ってしまった。


 笑ったのは、半分は自分のためで、半分は七年前の私のためだった気がする。あの冬の夜の彼女に、教えてあげたいと思った。ねえ、場所を変えても、手癖は、そんなに簡単には変わらないよ、と。


 たぶん、あの夜の私は、今の私を、睨み返してくる。


     ◇


 扉が、静かに開いた。


 ハンネスさんではなかった。あの人の開け方はもう少し賑やかだ。使用人のノックでもない。足音の、扉の前までの間の取り方で、分かった。


「……冷えるな」


 ルーカス様だった。


 朝の見回りから戻ってきた格好で、外套の肩に、溶けかけの雪の粒が、まだ薄く残っていた。腕に、毛布を抱えている。


 冬の間、机の端に置かれていたあの軍用のものとは、生地の感じが、違った。もっと柔らかそうで、縁の縫い目が、妙に丁寧だった。


 ──新しいもの、だった。


 机の端に、そっと置かれた。置き方だけは、今までと同じだった。


「……ありがとうございます」


 返事は、今朝は、すぐに口から出た。


 いつから即答できるようになったのか、自分でもよく分からない。ただ、指先が草稿の紙に触れたまま、お礼の一言が、喉で引っかからずに通った。それだけのことが、今朝の、ささやかな、勝利だった。


「ああ」


 ルーカス様は、扉の手前で、一度だけ、軽く咳をした。冬の喉を守っていた、あの咳の名残だ。前より、ずっと短かった。それから、こちらを振り返らずに、廊下へ出ていった。


 扉が、閉まる。


 毛布に、手を当てた。


 ほのかに、温かかった。抱えて歩いてきた体温が、まだ残っている温かさだった。


(……この人)


(いつの間に、新しい毛布を、用意していたのだろう)


 それ以上は、考えないことにした。考え始めたら、たぶん、今朝の仕事に戻れなくなる。


     ◇


 もう一度、箱の中を見た。


 上から三枚目、港湾使用料の逓減表。欄外に、ハンネスさんの鉛筆の跡が残っていた。「?」が、いくつか並んでいる。ここ、分からなかったのだ。分からなかったのに、私は「そういうものなので」と言って、そのまま通してしまった記憶がある。


 四枚目、冬季在庫の再分類。こちらには、違う鉛筆の跡。マッテオさんの字だった。先月、港の倉庫で相談を受けたときに、試しに見せた草稿だ。別れ際にマッテオさんが笑いながら言っていた。「これ、うちの倅でも読めるように、もうひと工夫、お願いできますかね」と。


 その場では「考えておきますね」と答えた。そして、この箱に入れて、そのまま、忘れていた。


 忘れていた、というよりは、向き合うのが、少しだけ、怖かったのだ。


 紙を膝の上に広げて、自分の書いた符丁の上を、指でなぞった。点の、ある、ない。小さな星。自分にだけ通じる、私だけの言葉。


(……ああ、私)


(また、同じことを、している)


 声には、出さなかった。


 出さなかったけれど、胸のどこかで、ひとつだけ、静かに、決まった。


 七年間向き合ってきたどの相手よりも、たぶん、いちばん長く、付き合うことになる。倒すのとは違う。ほどくのだ。自分で結んだ結び目を、自分の指で、ひとつずつ。


 机の端の毛布に、もう一度だけ、触れた。ほのかな温度は、さっきより少しだけ、冷めかけていた。冷めかけて、でも、まだ消えてはいなかった。


 窓の外で、雪解けの水が、石畳の継ぎ目を、細く走っていくのが見えた。


 春は、もう、そこまで来ていた。

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