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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第10話 花を植えた朝の、その先で


 春の風は、帳簿の頁を勝手にめくっていく。読まれたがっている頁を、選ぶみたいに。


 経理室の窓を開けたのは、夜明けと一緒だった。外で、鳥が鳴いている。冬の終わりに聞こえ始めた声が、もうしっかりと春の声に変わっていた。


 机の上の帳簿は、昨日までの続き。今日の分は、まだ何も書き込まれていない。ペンは、いつもの場所に、いつもと同じ角度で置いてあった。


 今日は、結婚式の日だった。


 と、書いてしまえば、事実として収まる。でも、事実の外側に、まだ言葉にできないものが残っていた。朝からずっと、胸の奥に、小さな船が浮かんでいるみたいな気分だった。沈まないけれど、どこへ漕ぎ出していいかが分からない船。


 窓から手を出すと、風が少しだけ湿っていた。雨のあとの風の匂い。潮と、土と、花の匂い。


 庭のほうに、目を向けた。


 ああ、今日も、咲いている。


 白い花が、庭の一角から、じわじわと広がっていた。去年の秋、ルーカス様と二人で植えたあの苗が、今では、花壇の縁を越えて、近くの植え込みにまで届いていた。名前は、まだ分からないままの花。市場のおばさんに今年も「丈夫でいい花だよ」と笑われた、あの花。


 扉が、静かに開いた。


「……起きてたか」


 ルーカス様だった。軍服ではなく、結婚式用の礼装を着ていた。襟元は、いつもより少しだけ、低く立てていた。この冬からずっと高く立てていた襟を、今日は、少しだけ下ろしている。それは、喉の調子が戻った、という小さな合図だった。


「起きていました」


「……眠れたか」


「ところどころ」


「ああ。俺もだ」


 それだけの挨拶で、ふたりとも、少しだけ笑った。


     ◇


 屋敷の広間では、ハンネスさんが朝から忙しく動いていた。


「セレナ殿ー、お父上が到着されました! それからマリーカさんも! レオンぼっちゃまも、監査官同行で到着しましたー!」


 私が返事をする前に、ハンネスさんは次の段取りに向かって駆けていった。普段より声が半拍早い。結婚式の朝の副官は、ほとんど行軍の指揮官みたいな顔をしていた。


 最初に挨拶に来たのは、父だった。


 フェルゼン子爵。


 久しぶりに会う父は、白髪が少し増えていた。腰も、少し曲がっていたかもしれない。でも、顔は、あの実家の門で「帰ってきてくれたか」と言った時と同じ顔だった。


「……セレナ」


「お父様。お越しくださって、ありがとうございます」


「お前、痩せてないか」


「痩せていません」


「いや、頬の肉が」


「お父様、今日は結婚式です」


「結婚式だから言っているんじゃないか。新婦が痩せて見えたら、父親の名折れだぞ」


 変わっていなかった。


 少し、笑った。父も、少し、笑った。台所で鍋を前に気まずそうに立っていた父親が、今日は、娘の結婚式に笑って立っている。それだけで、今日は、良かった。


 次に入ってきたのは、マリーカさんだった。


「セレナ様ー、本日はおめでとうございます! ルーカス様のお喉、経過はいかがですか? 発話時間、制限してくれていますか?」


「ええ、制限しています」


「よろしい! いやもう本当に、軍人って基本的に自分の身体を粗末にするから、困るんですよ。もっとも、恋と結婚式の前だけは、ちゃんと言うことを聞くんですけどね、ふふ」


 相変わらず、息継ぎをしない人だった。


 最後に、レオンが入ってきた。


 監査官の男性に連れられて。小さな礼装を着て、背筋をぴんと伸ばして。先月まで手紙でやり取りしていた、あのレオンだった。ルーカス様への手紙も、最近は、少しずつ書き始めていると聞いている。


「……おかあさま」


 一瞬、迷った顔をした。「おかあさま」と呼んでいいのか、今日は別の呼び方のほうがいいのか。迷っている顔だった。


 私はしゃがんで、目線を合わせた。


「今日も、呼んでいいよ。その呼び方で」


 レオンは、小さく頷いた。頷いて、それから、鞄の中から、一通の手紙を取り出した。


「……おとうさまから、です」


 アルベルト様は、今日は来ていなかった。来ないのが、今日の礼儀だった。代わりに、レオンを監査官と共に送り出した。それで、充分だった。


 手紙の文面は、短かった。


『セレナへ。

 本日は、どうかお幸せに。

        アルベルト』


「様」は、もう、ついていなかった。「お許しください」も、ついていなかった。代わりに、旧い呼び捨てが、一つだけ戻っていた。たぶん、それがこの人の、今の精一杯だった。


「……ありがとう、レオン」


 折り畳んで、胸元に入れた。


     ◇


 結婚式の直前、庭に出た。


 広間の外、白い花壇の前。ルーカス様が、先に立っていた。礼装の上に、外套を羽織っていない。春の日差しが、冬の終わりの襟元を、少しだけ温めていた。


「……もうすぐ、始まりますね」


「ああ」


「緊張、してますか」


「している」


「……私もです」


 庭の花を、一緒に見た。白い花弁が、春の風に、小さく揺れていた。去年の秋、この場所で、まだ土だけが黒かった花壇を、ふたりで掘った。ルーカス様のシャベルの使い方が下手で、「塹壕なら掘れる」と言った、あの日のこと。今、思い出せば、遠い昔のようにも、昨日のようにも、感じられた。


 ルーカス様が、私のほうに、手を差し出した。


 迷いのない動作だった。ただ、どこかで一度だけ、呼吸を抜いたような一拍があった。軍人が、八年前からずっと自分の中で練習してきた動作だった、と思った。ようやく、本番を迎えた練習。


 私は、その手を取った。


「……セレナ」


「はい」


「八年分の『はい』を、今日、返す」


 短い一言だった。


 でも、その一言が、八年前の縁談の席で、彼が喉の奥に押し込んだまま出せなかった言葉の、ようやく動き出した音だった。


「……待たせましたね」


 自分でも、意外なほど、軽い声が出た。


「今更、ですけどね」


「今更、でいい」


 ルーカス様の手が、少しだけ、強く握り直された。


 手の温度は、今日は、最初から温かかった。


     ◇


 広間での誓いは、短かった。


 公爵家の大聖堂で挙げるような、立派なものではなかった。参列したのは、ほんの数人だった。それで、良かった。


 式を取り仕切ったのは、ヴァイス領で長年奉仕している老年の神職の方だった。白い衣、穏やかな声、慣れた手つき。誓いの言葉を読み上げる声が、広間の低い天井に、静かに沁み込んだ。


「このお二人は、生涯の伴侶となることを、誓いますか」


 ルーカス様が、先に答えた。


「はい」


 低いけれど、今日の彼の声は、ちゃんと音になっていた。掠れても、震えてもいなかった。八年前、厳命を受けて出せなかった「はい」が、今日、ようやく、ちゃんとした形で部屋に落ちた。


 次が、私の番だった。


「はい」


 短い一言を、私も返した。


 言ってから、少しだけ、喉が熱くなった。そういえば、公爵家に嫁いだ朝、私は「はい」と言った記憶が、あまりなかった。あの朝は、家同士の取り決めに、ただ立ち会っただけだった。今日が、初めてだったのかもしれない。自分の口で、自分のために、「はい」と言った日。


 老神職が、最後の祝祷を唱えた。


 広間の片隅で、レオンが、小さく手を叩いていた。拍手のつもりだったのだろう。マリーカさんが隣で、涙を拭っていた。父が、反対側の列で、ハンカチを片手に、明後日のほうを向いていた。


 ハンネスさんは、一番後ろに立っていた。その顔は、初めて見る顔だった。いつもの軽口の顔ではなかった。ただ、じっと、こちらを見ていた。それから、私の視線に気づいて、小さく頷いた。


 それだけ、だった。


 それだけで、充分だった。


     ◇


 式のあと、少し時間ができた。


 招待客の夕食の準備がまだ整わないうちに、私は、一度だけ、経理室に戻った。


 部屋の空気は、朝のままだった。開け放した窓から、春の風が入っていた。帳簿は、開いたまま。ペンは、置いたまま。


 壁に、新しい額が、一つ、掛けられていた。


 額装したのは、先週のことだった。中に入れたのは、二枚の紙だった。


 一枚目は、あの筆談の夜の紙。『……できなかった』『怖かった』『お前に、無愛想な男だと思われたまま終わるのが』。そのあと、涙の跡が乾いて、薄い輪になった紙。インクが少しだけ滲んだ部分も、そのまま残っていた。


 二枚目は、ルーカス様ご本人のものではあったけれど、ご本人はそこに存在することを知らなかった紙。


 マリーカさんが、先月、持ってきてくれた。


「先日、亡くなった師匠の遺品を整理していましたら」と、マリーカさんは前置きした。「下書きの紙が、何枚か、混じっていました。師匠の字ではありません。ルーカス様の字です」


 紙の断片だった。破られた跡が残っていた。書いては破り、書いては破り、結局、誰にも見せなかった、八年前の下書き。師匠は、なぜか、それを捨てずに、整理箱の隅に取っておいたらしい。


 破れて読めない部分が、ほとんどだった。


 読める言葉も、ほとんどなかった。唯一、繋がって読めたのは、最初の一行の書き出しだけだった。


『フェルゼン子爵家 セレナ様へ』


 その下から先は、破られて、残っていなかった。


 でも、それで、充分だった。宛先が、私だったと、証明されていたら、それで。


 涙の滲んだ紙と、破られた下書き。並べて飾ると、不思議と、一枚の長い手紙のように見えた。八年分の。


 壁の額を、一度だけ、見上げた。


 窓から、潮風が入ってきた。


 机の端に、いつもの毛布が、畳んで置いてあった。今日はもう必要ないはずなのに、ハンネスさんか、誰かが、律儀に畳んでおいてくれたらしい。


 隣の執務室から、小さく、剣を磨く音がしていた。


 どちらも、去年にはなかった音だった。いや、違う。あったのかもしれない。ただ、私の耳が、聞こえる場所にいなかっただけで。


 経理室の扉が、軽く、叩かれた。


 ルーカス様の声が、向こうからした。


「……セレナ」


 名前だけ。様も殿もつかない、いつものやつ。


「はい」


 今日の「はい」は、これで、何度目だろう。


 数え切れないくらい、返したい。


 春の風が、帳簿のもう一つの頁を、静かに、めくった。

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― 新着の感想 ―
あの嫌がらせをしてきた新興貴族や商人とはどうなったのかしら? セレナの社交界での地位が確立された今、少しはざまぁできたのかな?
続きをありがとうございました! とても素敵な幸せな結婚式が読めて感謝です
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