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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第9話 扇が、床に落ちる音


 大聖堂の天井は、高い。だから、小さな音ほど、よく響く。


 扉が開いた瞬間、私はその天井の高さを思い出した。七年前、ここの祭壇の前で徹夜で刺繍を仕上げた冬にも、この石の天井を見上げて、同じことを思った。天井が高いと、針を落とした音が、自分の耳にずっと残る。


 王都大聖堂の年末慈善会。王家主催。年に一度、王家が直々に開くこの会に招かれるのは、社交界の地位の証明でもある。


 入り口で、名前が読み上げられた。


「ヴァイス伯爵、ならびに、ご婚約者 セレナ・フォン・フェルゼン様」


 正装の軍服を着たルーカス様が、私に腕を差し出した。私は、その腕に手をかけた。今夜の彼は、襟を高く立てていた。喉の古傷を守るためだ。声は、まだ、完全には戻っていない。筆談の夜から二週間経ったが、長時間の発話はまだ難しかった。


「……ご無理、なさらないでくださいね」


 小さく、耳元で。


「ああ」


 掠れた一言だった。でも、いつもの一言だった。


 会場に、足を踏み入れる。


 空気が、変わった。今までと違う変わり方だった。以前の慈善会は「あのヴァイス伯爵家が婚約発表した」という興味の視線だった。今夜は、静かに、そして遠ざかりながら近づいてくる、という、不思議な視線の集まり方だった。


 私の名前が、社交界の別の文脈に移った、ということだ。


 目立つ、というのとは違う。敬意を含んだ距離感。これまで接したことのない種類の視線だった。


     ◇


 広間の中央で、誰かが動いた。


 人々の波が、自然に、割れた。


 王妃陛下が、こちらに歩いてきていた。


 直々に、歩いてきていた。


「……王妃陛下、ご機嫌麗しゅう」


 深く、礼をした。ルーカス様も、隣で軍人の礼。


「頭をお上げになって、セレナ様」


 王妃陛下の声は、柔らかかった。でも、柔らかさの芯に、芯のある柔らかさだった。外交の場で、この方が長年磨き上げてこられた類の柔らかさだ。


 頭を上げた。


「先日、ご招待のお手紙を差し上げた件ですが、本日、皆様の前でお伝えしたいことがございます」


 会場が、静まった。誰も囁かない。扇を動かさない。大聖堂の高い天井に、王妃陛下のお声だけが、薄く反響していた。


「この数ヶ月、王家監査局と共に、グランツ公爵家関連の公的記録について、再調査を進めて参りました。結果、慈善会の会計書式、大聖堂寄贈の祭壇布、そして、隣国との通商条約案」


 通商条約案。


 一瞬、体が強張りそうになった。そこまで出てくるとは、思っていなかった。あれは、三年前の外交の目玉だった仕事だ。アルベルト様が宮廷で絶賛された、あの案件。


「これらは、本日を以て、王家の公式記録を更新することと決定いたしました」


 会場全体が、息を呑む音がした。


「起案、設計、実務の大部分は、当時のグランツ公爵家の夫人、現在のヴァイス伯爵ご婚約者、セレナ・フォン・フェルゼン様のお手によるものでした」


 広間の端で、扇が、かすかに動く音が聞こえた。


 誰の扇かは、振り返らなくても、分かった。


「長年、王家はそれを存じ上げず、他の方の功績として記録してまいりました。そのこと、王家を代表して、セレナ様にお詫び申し上げたく存じます」


 王妃陛下が、頭を下げた。


 大聖堂の天井が、その動きを、石の静けさで包んだ。


 私は、しばらく、動けなかった。動けなかったというより、動き方を決めかねていた。


 どんな顔をしていいのか、分からなかった。喜ぶのは違う。勝ち誇るのは、もっと違う。悲しむのも、違う気がした。


 結局、私が選んだのは、もう一度、深い礼をすることだった。


「……光栄に存じます」


 声は、自分でも不思議なほど、静かに出た。


「あの頃の仕事は、あの頃の私のものです。ただ、王家にお役立ていただけていたのなら、それが、一番の喜びでございます」


 王妃陛下が、少しだけ、微笑まれた。


「よいお答えでいらっしゃる」


 その一言で、王妃陛下は、静かに戻られた。


 広間は、まだ、静まったままだった。


     ◇


 慈善会の主要な儀礼が終わり、退出の時間になった。


 ルーカス様が、私の手を取った。今夜の彼は、ずっと隣にいた。声は少ししか出せなかったけれど、存在だけで充分だった。


 退出の通路に歩き出した時、広間の壁際に、マルガレーテ様が立っているのが見えた。


 入り口の近く。


 さっきから、一歩も動いていないのだろう。扇で顔の下半分を隠したまま。誰かと会話していた様子もなかった。もう誰も、この方に話しかけなくなっていた。王妃陛下の言葉が下された瞬間から、周囲の距離感が、決定的に変わったのだ。


 通路は、マルガレーテ様の前を通る形で設計されていた。避けようがなかった。避けようとするのも、何か別の意味になってしまう。


 歩いた。


 ルーカス様と並んで、ゆっくりと。


 マルガレーテ様の正面を通り過ぎる瞬間、私は、目線だけを上げた。


 目が、合った。


 ほんの短い時間だった。


 攻撃するつもりは、なかった。勝ち誇るつもりも、なかった。七年前の、あの屋敷の廊下での冷たい視線のことも、昔の夜会での一言のことも、もう、どうでもよくなっていた。


 ただ、同じ広間にいる者同士の、形式上の会釈を、した。


 会釈して、目線を元に戻し、歩き続けた。


 背後で、音がした。


 硬い、乾いた音だった。


 扇が、床に落ちた音だった。


 大聖堂の石の床が、その音を、天井まで持ち上げた。高い天井が、音を、広間の全員に、聞かせた。


 振り返らなかった。


 ルーカス様も、振り返らなかった。


 後ろで、誰か、たぶん、側仕えの方が、扇を拾おうとして動く気配があった。


 でも、拾わなかった。拾えなかった、というのが正確だった。マルガレーテ様ご自身が、「よいのです」と言うような手の動きで、側仕えを制したのだ。動きそのものは見えなかった。でも、広間の空気が、そう伝えてきた。


 マルガレーテ様は、ご自分では、扇を拾わなかった。


 拾われなかった扇は、大聖堂の石の床の上に、そのまま、残った。


 私は、歩き続けた。一歩一歩の足音が、不思議なほど、静かだった。


 扉が、閉まる音がした。


     ◇


 同じ夜。


 グランツ公爵家の屋敷の自室で、マルガレーテ・フォン・グランツは、机の上に、冊子の束を積み上げていた。


 革表紙の手帳。長年にわたって書き込んできたものだった。誰の借金。誰の不貞。誰の家の出自の秘密。誰の息子が宮廷で失言した日。三十年分の、社交界の、裏の帳簿。


 暖炉に、火をつけさせた。


 使用人は、訝しげな顔をしたが、何も訊かずに下がった。最近の使用人は、訊かないことを覚えている。


 最初の一冊を、手に取った。ぱらぱらと捲った。自分の若かった頃の筆跡が、そこにあった。若い自分が、公爵夫人として屋敷に嫁いできた年。誰にも帳簿の読み方を教えてもらえず、社交界という別の土俵で権力を取りに行くしかなかった年。


 最初の一冊を、暖炉に入れた。


 火が、静かに頁を呑んだ。


 次の一冊。また、次。順に、入れていった。途中、指が止まりそうになった頁があった。七年前の冬。嫁が、王都大聖堂の祭壇布を徹夜で刺していた、あの冬。自分は、気にも留めなかった。完成した祭壇布だけを受け取って、献上の名義を自分にしただけだった。


「……この帳簿も、引き継ぐ相手が、いなかったわね」


 独り言だった。


 独り言を、誰かに聞かれないほど、屋敷は静かだった。


 気づいた。気づくべきことに、今夜、ようやく気づいた。


 あの嫁と、自分は、よく似ていた。


 誰にも引き継げない仕事を、毎晩、一人で書いていた女。違ったのは、あの子には、次の行き場所があったこと。自分には、ないこと。それだけ、だった。


 最後の一冊を、暖炉に入れた。


 火の色が、壁に、薄く映った。


 扉の外で、使用人が「奥様」と呼ぶ声がした。


「……下がりなさい」


 返事の声が、少しだけ、掠れていた。自分でも、気づかなかった。


     ◇


 馬車の中は、揺れが少なかった。


 王都の街は、年末の寒さで、いつもより静かだった。窓の外を、灯りが時々、流れていった。


 私は、手袋の上から、自分の指を、一度だけ、握った。緊張していたつもりはなかったのに、手の芯が、まだ少しだけ硬かった。


「……ルーカス様」


「ああ」


「……あの扇、拾ってあげなくて、良かったでしょうか」


 ずっと、頭の隅に引っかかっていた。どんなに正しい形の決別でも、床に落ちた扇を誰も拾わなかったのは、やはり、寂しかった。側仕えが拾いかけて、本人に制されて、引いた。あの一連の動きが、まだ目の奥に残っていた。


 ルーカス様は、少しだけ間を置いてから、掠れた声で、短く答えた。


「あれは、自分で拾うものだ」


「……そう、ですね」


 窓の外を、流れていく灯りを見ていた。


 拾うのは、落とした人の仕事だ。それを代わりに拾ったら、その人が、自分の落としたものを、自分の手で拾う機会を奪うことになる。ルーカス様の言葉は、たぶん、それだけのことを言っていた。短くて、正しい言葉だった。


 私は、少しだけ、肩の力を抜いた。


 ルーカス様が、隣で、私の手を握った。今夜の手は、温かかった。


「……帰ろう」


 その一言が、今夜の彼の、最後の言葉だった。

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― 新着の感想 ―
嫁と自分は似ていたぁぁぁ??!! セレナは人の仕事を恥知らずにも自分の功績になんてしてなかった。 誰にも引き継げない仕事ってマルガレーテのはゴシップでしょうが!!帳簿とは言わんのよ! なに感傷に浸って…
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