第6話 白い花と、持ってきた絵
八歳の子供の手は、思っていたより小さかった。記憶の中のそれより、少しだけ。
いや、違う。小さくなったのではない。あの子が大きくなっただけだ。記憶の中のレオンは七歳で、今は八歳で、その間の成長を、私は見ていない。私の頭の中では、あの子の手はまだ七歳のままだった。
ヴァイス伯爵領の冬の朝。風は凪いでいた。昨夜からの雪が、玄関先の石畳にうっすらと残っている。私は外套を肩まで掛けて、息を吐くたびに白くなるのを見ていた。ルーカス様は、私の一歩後ろに立っていた。姿勢だけが、いつもより鉄の棒のように真っ直ぐだ。
馬車が、門から入ってきた。
先に降りてきたのは、王家監査局の監査官だった。初めて見る顔だった。中肉中背、落ち着いた佇まい。レオポルト殿ではない。王家の監査官は、案件ごとに担当が違うのかもしれない。
次に、アルベルト様が降りてきた。
しばらく顔を見ていなかった。最後に見たのは、王城の監査室だ。あの日のアルベルト様は、まだ公爵家の当主だった。今の姿には、なんと言ったらいいのか、角が取れた、というのとも違う。角が削れた、が近い。磨耗した、が一番近いかもしれない。
そして最後に、レオンが降りてきた。
小さな外套。赤茶色の髪。ああ、少し背が伸びている。
レオンは地面に足を着けた瞬間、アルベルト様の外套の裾を、ぎゅっと掴んだ。私を見ていた。目が合った。それから、すぐに、アルベルト様の背中に、半分、隠れた。
鎖骨のあたりで、何かが小さく裏返った。それが何かは、考えないことにした。考えたら、動けなくなる。
「……遠くから、ようこそお越しくださいました」
社交界の挨拶だった。七年間、この口調で来客を迎えてきた。今朝も、この口調で。よかった、はずだった。
「お待たせして申し訳ありません」
アルベルト様が、頭を下げた。深くはない。でも、頭を下げた。
七年間、一度もなかった動作だった。
◇
応接間に通して、茶を出した。
ハンネスさんが空気を読んで、茶だけ置いて下がった。普段ならもっと喋るのに、今日は無言だった。副官として、こういう時の引き方を知っている男だ。
レオンは、アルベルト様の隣で、茶には手をつけずに座っていた。小さな膝を揃えて、両手をその上に置いている。公爵家でしつけられた座り方だ。私がしつけた座り方だ、と気づいて、手が一瞬だけ止まった。
「レオン」
名前を呼んでから、少しだけ迷った。どう続ければいいのか。「久しぶりね」でも「元気でしたか」でもない気がした。
しゃがんで、目線を合わせた。
「……お花、見に行かない? 庭に、白いお花が咲いてるの」
レオンの目が、ほんの少しだけ、動いた。
「お花?」
「ええ。冬なのに、まだ頑張ってる花が」
アルベルト様のほうを見た。アルベルト様は、一度、頷いた。「行っておいで」とは言わなかった。レオン自身が決めればいい、という顔だった。
変わった、のだろう。この人も、少しは。
レオンは、しばらく迷って、それから小さく頷いた。立ち上がって、アルベルト様の外套から、ゆっくりと手を離した。
その一歩が、大きな一歩だった。
◇
庭に出ると、風が少しだけ出ていた。
白い花壇は、冬の初めの寒さに耐えて、まだ花を残していた。あの秋の夕暮れに、ルーカス様と二人で植えた苗が、いつの間にか広がって、今、冬を越そうとしている。花弁は少し小さくなっていた。でも、白さは変わらなかった。
レオンが、立ち止まった。
「……きれい」
小さな声だった。
「このお花、なんていう名前?」
「分からないの。市場のおばさんが『丈夫でいい花だよ』って教えてくれただけで」
「名前、ないの」
「ないわけじゃないと思うの。誰かは知ってるの、きっと。ただ、私が知らないだけ」
レオンは、じっと花を見ていた。しゃがんで、花弁に指を近づけた。触る前に、一度だけ、後ろを振り返って、私を見た。
「触ってもいい?」
「いいよ」
許可を得てから、そっと、花弁の端に指を触れた。
「冷たい」
「冬だから」
「……ぼくのおやしきには、こういうお花、ないです」
「そう」
「きれいです」
レオンは、それ以上は言わなかった。ただ、花を見ていた。
私は、少しだけ離れた場所に立っていた。親しく近づきすぎてはいけない、と自分に言い聞かせた。でも、離れすぎてもいけない。その距離感を、頭の中で探っていた。そういえば、七年間、この子との距離を頭の中で計算したことはなかった。近づくのが、当たり前だったから。
背中で、足音がした。
ルーカス様だった。
庭に出てくるとは思っていなかった。でも、来ていた。私の少し後ろに立って、レオンを見ていた。
レオンが、気配に気づいて振り返った。花壇の前にしゃがんだまま。
大きな軍服の男を見て、一瞬、体が固まった。
知らない大人。知らない男。ヴァイス伯爵様、というのは、アルベルト様から聞いているはずだった。でも、説明を聞くのと、実際に目の前にするのとは、子供にとっては別の話だ。
ルーカス様は、何も言わずに、レオンの前まで歩いてきた。
それから、膝をついた。
石畳の上に、冬の外套のまま。
レオンと、目線が、ちょうど合う高さになった。
「……はじめまして」
低い声だった。少しだけ、掠れていた。
「ルーカスだ」
レオンが、少しだけ、目を大きくした。
「……ヴァイスはくしゃく、さま?」
「ああ」
「おかあさまの、いいなずけ、さま?」
「ああ」
おかあさま。この子は、まだ、私をそう呼ぶのだ。耳の奥で、自分の呼吸の音が、大きくなった気がした。今度は、その音を止められなかった。
レオンは、ルーカス様を見ていた。じっと、見ていた。大人をそうやって正面から見る時、子供は何かを判定している。七年間、何度もこの目を見てきた。今、レオンがルーカス様を判定している。
ルーカス様は、判定されるままになっていた。逃げもせず、愛想笑いもせず、ただ、そこにいた。
しばらく、無言だった。
それから、ルーカス様が、ぽつりと言った。
「……おじちゃんも、昔、お話しするのが下手だった」
レオンの目が、ぱちっと瞬きをした。
「……今は?」
「今も、下手だ」
レオンが、初めて、小さく笑った。
くすっ、と、ほんの一瞬だけ。
その笑顔を見た瞬間、まぶたの裏が、塩辛くなった。けれど泣かなかった。泣いたら、せっかくレオンが笑えた空気を、私が壊してしまう気がしたから。
ルーカス様が、ゆっくり立ち上がった。石畳の上に、膝の跡が、うっすらと残った。
「……応接間に、戻ろう。伯爵が、お前を呼んでいる」
レオンは、頷いた。花壇から立ち上がって、白い花弁をもう一度見てから、こちらに振り返った。そして、小さな手を、私に差し出した。
「……お手、つないでもいいですか」
まぶたの裏が、もう一度、塩辛くなった。
「うん」
◇
応接間に戻ると、アルベルト様が立ち上がって、私たちを迎えた。レオンと私が手を繋いでいるのを見て、アルベルト様の視線が、ほんの一瞬だけ、繋がれた手の上で止まった。
止まって、すぐに、逸らした。
何も言わなかった。何も言わないのが、今日のアルベルト様の礼儀だった。
レオンは、椅子に戻る前に、自分の小さな鞄から、折りたたんだ紙を取り出した。
大事そうに、両手で持っていた。
「……これ」
私の前に差し出す。
「おかあさまに」
受け取って、開いた。
クレヨンで描かれた絵だった。紙は幼稚園で配られたものらしい、薄いざらりとした質感。色は、赤茶色の髪と、青灰色のドレス。眼鏡。きちんとした襟元。私だった。上手ではなかった。人の形をしているだけの絵だった。それでも、私だった。
紙の裏に、何か、書いてあった。
ひっくり返して、見た。
『ぼくの ほんとうの おかあさま レオン』
ひらがなだった。まだ漢字は習っていないのだ。「本当の」という字を、あの子はまだ書けない。だから、ひらがなで書いた。それが、「本当の」の意味を、今、この子が持ち得る、最大限の力で書いた一行だった。
絵を、両手で持っていた。指先が、震えていた。いや、指先じゃない。指先の、骨の、付け根のあたり。
泣きたかった。でも、泣かなかった。レオンの前で泣いたら、レオンが「自分が泣かせた」と思ってしまう気がした。子供は、そういうところを、大人より先に感じ取るから。
「……ありがとう、レオン」
声は、落ち着いていた。自分で驚くほど、落ち着いていた。七年間、どんな場面でも微笑んでみせてきた喉が、ここでも働いてくれた。
「大事に、しますね」
レオンは、頷いた。小さく、でも、しっかりと。
そこで、アルベルト様が、静かに言葉を挟んだ。
「……セレナ」
顔を上げた。
アルベルト様は、私を見ていた。目が、疲れていた。疲れているが、逃げてはいなかった。これは逃げていない目だ、と直感で分かった。
「明日、レオンに話すことがある」
「……はい」
「同席してくれないか。リーリエの話だ」
時間が、止まった気がした。
止まったのは、私の呼吸のほうだった。
レオンは、アルベルト様と私を交互に見ていた。まだ、何の話だか分かっていない顔だった。分からない顔のまま、また、アルベルト様の隣に、静かに座り直した。
窓の外で、冬の雲が、少し、厚くなっていた。




