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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第5話 祭壇布の金文字


 金文字というものは、書き換えるより、横に小さく書き足すほうが難しい。


 そんなことを、昔、公爵家の書庫で写本の補修をしていた老いた司書が言っていた。「書き足すのは勇気の仕事じゃ。消すのは誰でもできる」と。当時の私には意味がよく分からなかった。今朝になって、唐突に思い出した。


 王都の宿の食堂で、紅茶を飲もうとしていたところに、その書状が届いた。


 封蝋は王家の紋章。宛先は「ヴァイス伯爵、ならびにご婚約者様」。丁寧な文面だったが、中身は事実上の呼び出しだった。王家監査局、本日正午、出頭願い。


「……昨日の話、早速ですね」


 向かいの席で、ルーカス様が短く呟いた。昨日の慈善会で明かした会計書式のことが、夜のうちに監査局まで伝わっている。仕事が早い。この国の官僚は、社交界の噂話よりも速いらしい。


「お出になりますか」


「行く。俺も、行く」


「ご一緒いただけると、助かります」


 本当は一人で行ける話だった。呼び出しの宛先は私個人でいい。でも、ルーカス様が「行く」と言ってくれた時、安心が少しだけ、肩から入ってきた。それを押し戻さなかった自分を、今日は許そうと思った。


     ◇


 王家監査局は、王城の裏手にあった。


 何度も前を通ったことのある建物だった。グランツ公爵家にいた頃、四半期決算の報告でアルベルト様に付き添って来たことがある。あの時は、玄関までで引き返した。夫人は中に入らない約束になっていた。数字を作った人間が、報告の場にいるのは「場違い」と言われた。


 今日は、私が主役として呼ばれている。


 案内されたのは、奥の応接室だった。落ち着いた調度。壁には王家の紋章。担当の監査官は、痩身の男性だった。昨年、グランツ公爵領の監査の席にもいた方だ。名前はレオポルト殿、と記憶している。


「ヴァイス伯爵、ならびにセレナ様。本日は急なお運びを、誠にありがとうございます」


「いえ」


「昨日の慈善会でのご発言を受け、こちらでも記録の確認を進めておりまして」


 早い。本当に、早い。


「単刀直入に申し上げます。王都大聖堂に、グランツ公爵家から寄贈された祭壇布がございます。金糸と銀糸で刺繍された、あの祭壇布です」


「……存じております」


「あの祭壇布の刺繍について、ルーンブック式の魔力痕跡を調査いたしました。結果」


 一呼吸、置いた。


「痕跡は、あなた様のものでした」


 机の上に、薄い報告書が一枚、置かれた。魔力解析の結果表。数字と紋様の並んだ、私には一目で読める種類の書類だった。


「事実確認をさせていただきたく」


「はい」


 答えるのに、迷いはなかった。


「七年前の冬です。徹夜で、刺しました。いえ、正確には、徹夜が何晩か続きました。祭壇布の寄贈は冬の祝祭に間に合わせる必要があって、期日が決まっていたので」


 話しているうちに、関係のないことまで口から出かけた。あの年の冬、指先が凍えて、一針刺すのに余計な時間がかかったこと。深夜の書斎の暖炉の火が細かったこと。そういうものは、要らない。要らないのに、喉が勝手に動いている。


 監査官は、淡々と頷いた。それが、かえって救いだった。


「問題は、大聖堂の金文字でございます」


     ◇


 馬車で、王都の中央大聖堂へ向かった。


 外は曇っていた。石畳に昨日の雪の名残が、うっすら残っている。大聖堂の尖塔が、灰色の空を突いているのが見えた。


 あの建物の前を通ったことは、何度もある。中にも入ったことがある。でも、「自分の仕事を見に来る」という目的で訪れるのは、初めてだった。


 大聖堂の扉を潜ると、空気が変わった。石と、香油と、古い木の匂い。身廊の奥、祭壇の上に、それはあった。


 祭壇布。


 白地の布。金糸と銀糸で、聖なる紋様が刺繍されている。蔦、花、天使の羽、そしてルーンの祝祷文。光が斜めに当たって、金糸が時々きらりと反射する。


 布の縁に、金文字が走っていた。


『公爵閣下の母君 マルガレーテ・フォン・グランツ様の御手による』


 その一行の前で、何度か呼吸を整えた。


 怒りは、ない。悲しみも、ない。たぶん、そのどちらにもなれないほど、遠い昔のことになっていた。七年前の冬に刺繍をしていた女と、今ここに立っている自分は、もう別の人間だ。


「セレナ様」


 監査官が、隣で静かに言った。


「金文字の記録を、どのように書き換えますか」


 書き換え。


「消して、あなた様のお名前に書き直すことも可能です。あるいは、併記。あるいは」


「……書き換えなくても、結構です」


 声が、自分でも驚くほど、平坦に出た。


「しかし」


「書き換えれば、マルガレーテ様が嘘をついたことになります」


 私は、祭壇布を見ていた。監査官の顔ではなく。


「そうではありません。あの方は、知らなかっただけです。あの年、私が徹夜で刺したことを、誰もあの方に伝えていなかった。あの方のお手元には、完成した祭壇布だけが届いた。それを、献上品として王都にお送りになっただけです」


 そうなのだ。マルガレーテ様は、知らなかった。知らないものを名乗るのは、悪意ではなくて、無知だ。無知に無知と言うのは、報復ではなくて、侮辱だ。私は、この方を侮辱したいわけではない。


 ただ、事実は、事実としてそこにあればいい。


「……では、どのようにいたしますか」


 隣で、ルーカス様の手が動いた。


 私の手を、握った。短く、強く。


 言葉は、なかった。ただ、指の握り方だけが「それでいい」と言っていた。


 私は、少しだけ、考えた。


「金文字の横に、小さく、一行だけ。『制作:セレナ・フォン・フェルゼン』と」


「承知いたしました」


 監査官は、表情を変えずに、手帳に書き留めた。でも、ペンの動きが、ほんの一瞬だけ、ゆっくりになっていた。


     ◇


 同じ頃。


 グランツ公爵家の書斎には、冬の弱い日差しが、窓から細く差していた。


 アルベルト・フォン・グランツは、机の前に座っていた。目の前には、革表紙の帳簿が一冊。王家の監査を経て封印が解除された、七年前の分の一冊。かつて妻が毎晩、この書斎で書き込んでいたもの。


 字は見える。数字も見える。


 読めない、というのが、正確な表現だった。


 数字は並んでいる。しかし、どの数字がどの項目に対応しているのか、その関係が掴めない。欄の切り方が独特で、自分の知らない符丁のようなものまで使われている。いや、符丁ではない。きっと合理的な記号なのだ。妻が七年かけて作り上げた、妻だけの体系が。


 ペンを握る手が、不器用だった。


 武器を握るのとは違う。交渉の席で書類に署名するのとも違う。「計算をするために」ペンを握るのは、生まれて初めてかもしれなかった。


「お父様」


 振り向くと、レオンが立っていた。


 七歳の、小さな肩。最近少しだけ背が伸びた気がする。そう言えば、この子の身長を測るのは、いつもセレナの仕事だった。


「これ、お母様がやってたやつ?」


 レオンの指が、帳簿を差した。


「……ああ」


「お父様、できるの?」


 問いは、簡単だった。答えも、簡単なはずだった。公爵家の当主として、父親として、息子にはこう答えるべきだった。「ああ、できるよ」と。


 アルベルトは、一度、口を開きかけて、閉じた。


 ペンを、置いた。


「……できない」


 初めて、息子に「できない」と言った。


 レオンはしばらく黙って、帳簿を見ていた。それから、小さく頷いて、ひとこと呟いた。


「そっか」


 それだけ言って、書斎を出ていった。


 机の上に、アルベルトの手だけが残された。ペンを握っていた指の節が、少しだけ、赤かった。


     ◇


 王都の宿に戻ったのは、夕方だった。


 ハンネスさんが伝言を取り次いでくれた。「セレナ殿、宿に書簡が届いてますよ。グランツ、いや、今は後見人様って呼ぶんでしたっけ。そちらから」


 受け取った。


 見覚えのある筆跡。封蝋の紋章は、グランツ家のものだったが、今は王家監査下を示す小さな紋が横に併記されていた。公爵位一時停止中の家の、正しい書式。


 開けた。


 文面は、短かった。


『セレナ様。


 突然のお手紙、お許しください。

 レオンが、あなたに会いたいと申しております。

 後見人として同行の上、ヴァイス伯爵領を訪問することを、お許しいただけませんか。王家監査局の同行も承知しております。

 お返事は、急ぎません。


        アルベルト・フォン・グランツ』


「様」が、ついていた。「お許しください」が、ついていた。


 七年間、一度もなかった文面だった。


 便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。


 ルーカス様が、隣の部屋から出てきて、私の顔を見て、何も言わずに毛布を肩に掛けてくれた。


 王都の夕日が、窓の外で、沈んでいくところだった。

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