第4話 ドレスの三秒と、王都の刺繍
旅の前夜、ドレスが届いた。
王都の慈善会に正式に出席するための、正装。ヴァイス伯爵家の紋章を胸元に小さく刺繍した、青灰色の生地のドレスだった。注文したのは、私ではない。ハンネスさんでもない。ルーカス様だった。
「似合うやつを選べ」と商人に言っただけらしい。たったそれだけの注文で、商人はよくこれだけのものを選んできたと思う。仕立てはきちんとしていた。派手ではない。でも安っぽくもない。冬の海の色だ、と一目で思った。
「セレナ様、裾の最終確認を」
使用人が膝をついて、ドレスの裾をピンで留めていた。軍人の家には常駐の仕立て屋がいないので、商人が連れてきた仕立て屋の女性が、急ぎで調整してくれている。
鏡の中の自分を、見ないようにしていた。見ると、何かが崩れそうな気がしたから。
七年間、公爵家で数えきれないほどドレスを着た。社交界の顔として。完璧に微笑むための道具として。自分のための一着を選んだことは、一度もなかった。
(あ、駄目だ)
鏡を見てしまった。
鏡の中の女は、私だった。間違いなく私だった。でも、知らない顔だった。
ドレスが、似合っていた。
それがどうしようもなく恥ずかしくて、顔を逸らした。
「……もう、大丈夫です。ありがとうございました」
使用人は少し訝しげに見上げたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
廊下を歩く。ドレスの裾が床を撫でる感触が、まだ慣れない。
出発前の最終確認を、ルーカス様の執務室で行う約束だった。扉の前で、一瞬だけ足を止める。自分の執務室に入る時すら緊張した覚えはないのに、ドレスを着た状態でこの扉を叩くのは、違う種類の緊張があった。
軽く、叩いた。
「入れ」
いつもの声。
扉を開けて、一歩、踏み込んで。
ルーカス様の手元のペンが、止まった。
本当に、止まった。インクが紙の上で、小さな染みを作っていた。
そのまま、こちらを見た。言葉を待った。彼はたぶん、何か言うために口を開こうとしていた。口元がわずかに動いたのが見えた。でも、音は出なかった。
時間が、変に伸びた。
一秒。ルーカス様が、小さく咳払いをした。
二秒。視線を一度、机の上に落とした。
三秒。やっと、声になった。
「……似合う」
ぶっきらぼうだった。いつもの彼だった。でも、今の一言は、数えられるほどの時間をかけて出てきたものだ。その数えられるだけの時間分の、ぶっきらぼうだ。
私は、即答すべきだった。「ありがとうございます」は即答するべきものだ。七年間、そのはずだった。
口が、動かなかった。
喉の奥が硬かった。
「……ありがとうございます」
私のほうも、同じくらい時間がかかった。
(似てますね、お二人)
頭の中で、マリーカさんの声が、くすりと笑った。
◇
王都への街道は、辺境のそれと違って揺れが少ない。整備されているからだ。だから、鼓動の音が、自分の耳によく聞こえた。
向かいの席にルーカス様がいた。正装の軍服。襟元をきっちり締めている。あの襟の中で、喉の古傷は今、どのくらい主張しているのだろうと、少しだけ考えた。
「寒くないか」
「大丈夫です」
「……膝掛け、入れてある」
言われて、膝の横に目を落とした。厚手の毛布が一枚、丁寧に畳まれて置かれていた。見覚えのある毛布だった。ヴァイス領の朝、机の端に置いてくれた、あれだ。
「……お借りします」
膝にかけた。温度が、じわりと上がった。
馬車の窓の外で、景色は、冬枯れの野から、街道沿いの村へ、やがて石畳に変わっていった。辺境の冬は乾いた白だったのに、王都のそれは、もっと灰色をしていた。
◇
慈善会は、王都の旧聖堂を使った広間で開かれていた。
扉を潜った瞬間、空気が変わるのが分かった。嗅ぎ慣れた匂いだ。蝋と、香料と、鼻先だけ華やかな花の香り。そして、人の噂話の音。
七年間、この空気の中で笑っていた。懐かしい、とは思わなかった。帰ってきた、とも思わなかった。ただ、「こういう場所だった」と、指の感覚で確認する感じだった。
ルーカス様が、隣でほんのわずかに姿勢を正した。軍服の襟が、彼の首の古傷を隠してくれている。それでも、この空間は、彼にとって明らかにアウェイだった。
(ここは、私のテリトリーだ)
そう思った瞬間、肩の力が、少しだけ抜けた。
広間に足を踏み入れる。
正面の壁際に、見覚えのある人影が立っていた。
先代公爵夫人、マルガレーテ様。
扇で顔の下半分を隠している。目だけが、こちらを見ていた。ほんの短い時間。視線が合って、合った瞬間に、彼女のほうが先に逸らした。
何も言わない。近づいても来ない。でも、見ていた。ずっと、見ていた。
(……まだ、来ていたんですね)
公爵位一時停止中の家の人間が、こういう場に出るのは難しいはずだ。でも、王家直々の招待ではない場なら、古い人脈で入ることはできる。誰かが呼んだのだろう。たぶん、古い友人の誰かが。
そうか。この人にとっては、ここが最後の戦場だ。
◇
広間の真ん中あたりで、年配の女性に声をかけられた。
「まあ、ヴァイス伯爵家の、失礼、伯爵夫人となられる方ですわね」
目尻の皺が深い、上品な方だった。記憶が合っていれば、エストル侯爵夫人。古参の社交界の重鎮で、マルガレーテ様の、長年の友人のお一人だったはずだ。
「ご挨拶を賜り、恐れ入ります」
「あらあら、そんな堅苦しい。あの、一つだけ、お伺いしてもよろしいかしら。ずっと気になっておりましたことが、あるんですの」
「はい、何なりと」
「慈善会の収支報告の、あの書式」
空気が、一瞬だけ、止まった気がした。
私の心臓のことではない。周りの空気のほうだ。近くにいた数人が、会話の声を小さくした。書式、という単語に反応したのだろう。あれは、王都の慈善会を経験した人ならば、誰もが触れたことのある書式だったはずだ。
「七年ほど前に、マルガレーテ様の采配で新しくなった、あの書式ですのよ。欄の切り方が細かくて、計算が楽で、会計の担当たちから『あれのおかげで助かった』と、ずっと評判で」
「……はい」
「あれ、どなたがお作りになったのか、ずっと気になっておりましたの」
会場の端で、扇が、わずかに動いた気配があった。見なくても分かった。マルガレーテ様だった。
私は、一度だけ、息を吸った。
「私が、作りました」
あっさり、とは言えない声だった。でも、震えてもいなかった。ちょうどいいくらいの平坦さで、言えたと思う。
「あの年、マルガレーテ様の慈善会のお手伝いに伺った際、臨時で組んだものです。お役に立てていたのなら、嬉しく存じます」
エストル侯爵夫人の目が、大きく開いた。
「まあ、まあまあ。あなたが」
「はい」
「そう、でしたの。ありがとう、ございます。本当に、長年、助かっておりました」
深々と、頭を下げてくれた。
頭を、下げないでください、と思った。あれは私の仕事だった。仕事をした人間にお礼を言うのは、普通のことだ。でも、頭を下げてもらうほどのことをした覚えはない。ただ、欄を整えただけだ。ただ、それだけ。
その「ただそれだけ」を、七年間、誰も私の仕事だと知らなかったのだ。
広間の端で、扇が下がった。
落としたのではない。下ろしたのだ。顔を隠すのをやめた、というだけの動きだった。
マルガレーテ様の目と、合った。
ほんの短い時間だった。
私は、ただ、軽く頭を下げた。それだけだった。攻撃でも、勝ち誇りでもなく、ただ、同じ広間にいる者同士の、形式上の会釈だった。
マルガレーテ様は、会釈を返さなかった。
でも、目を逸らしもしなかった。
しばらく、そのまま見ていた。それから、ゆっくり、扇を再び持ち上げて、顔を、また隠した。
◇
帰りの馬車の中で、ルーカス様は、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、街道沿いの屋敷の灯りが流れていく。私は膝の上で、手袋の端を、意味もなく弄っていた。
「……あの書式」
ぽつりと、声が落ちた。
「お前が、作ったのか」
「はい」
短く答えた。説明の言葉を探す気力は、なかった。
窓の外の灯りが、ルーカス様の横顔を、時々照らした。軍服の襟が、相変わらず、彼の首の古傷を守っている。
「……他にも、あるか」
問いかけは、静かだった。責めるのでも、驚くのでもなく、ただ事実を確かめたい声だった。
私は、少しだけ考えた。
本当に、少しだけ。
「……あります」
声が、馬車の揺れに紛れた。
「たぶん、まだ、たくさん」




