表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/41

第4話 ドレスの三秒と、王都の刺繍


 旅の前夜、ドレスが届いた。


 王都の慈善会に正式に出席するための、正装。ヴァイス伯爵家の紋章を胸元に小さく刺繍した、青灰色の生地のドレスだった。注文したのは、私ではない。ハンネスさんでもない。ルーカス様だった。


「似合うやつを選べ」と商人に言っただけらしい。たったそれだけの注文で、商人はよくこれだけのものを選んできたと思う。仕立てはきちんとしていた。派手ではない。でも安っぽくもない。冬の海の色だ、と一目で思った。


「セレナ様、裾の最終確認を」


 使用人が膝をついて、ドレスの裾をピンで留めていた。軍人の家には常駐の仕立て屋がいないので、商人が連れてきた仕立て屋の女性が、急ぎで調整してくれている。


 鏡の中の自分を、見ないようにしていた。見ると、何かが崩れそうな気がしたから。


 七年間、公爵家で数えきれないほどドレスを着た。社交界の顔として。完璧に微笑むための道具として。自分のための一着を選んだことは、一度もなかった。


(あ、駄目だ)


 鏡を見てしまった。


 鏡の中の女は、私だった。間違いなく私だった。でも、知らない顔だった。


 ドレスが、似合っていた。


 それがどうしようもなく恥ずかしくて、顔を逸らした。


「……もう、大丈夫です。ありがとうございました」


 使用人は少し訝しげに見上げたが、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 廊下を歩く。ドレスの裾が床を撫でる感触が、まだ慣れない。


 出発前の最終確認を、ルーカス様の執務室で行う約束だった。扉の前で、一瞬だけ足を止める。自分の執務室に入る時すら緊張した覚えはないのに、ドレスを着た状態でこの扉を叩くのは、違う種類の緊張があった。


 軽く、叩いた。


「入れ」


 いつもの声。


 扉を開けて、一歩、踏み込んで。


 ルーカス様の手元のペンが、止まった。


 本当に、止まった。インクが紙の上で、小さな染みを作っていた。


 そのまま、こちらを見た。言葉を待った。彼はたぶん、何か言うために口を開こうとしていた。口元がわずかに動いたのが見えた。でも、音は出なかった。


 時間が、変に伸びた。


 一秒。ルーカス様が、小さく咳払いをした。


 二秒。視線を一度、机の上に落とした。


 三秒。やっと、声になった。


「……似合う」


 ぶっきらぼうだった。いつもの彼だった。でも、今の一言は、数えられるほどの時間をかけて出てきたものだ。その数えられるだけの時間分の、ぶっきらぼうだ。


 私は、即答すべきだった。「ありがとうございます」は即答するべきものだ。七年間、そのはずだった。


 口が、動かなかった。


 喉の奥が硬かった。


「……ありがとうございます」


 私のほうも、同じくらい時間がかかった。


(似てますね、お二人)


 頭の中で、マリーカさんの声が、くすりと笑った。


     ◇


 王都への街道は、辺境のそれと違って揺れが少ない。整備されているからだ。だから、鼓動の音が、自分の耳によく聞こえた。


 向かいの席にルーカス様がいた。正装の軍服。襟元をきっちり締めている。あの襟の中で、喉の古傷は今、どのくらい主張しているのだろうと、少しだけ考えた。


「寒くないか」


「大丈夫です」


「……膝掛け、入れてある」


 言われて、膝の横に目を落とした。厚手の毛布が一枚、丁寧に畳まれて置かれていた。見覚えのある毛布だった。ヴァイス領の朝、机の端に置いてくれた、あれだ。


「……お借りします」


 膝にかけた。温度が、じわりと上がった。


 馬車の窓の外で、景色は、冬枯れの野から、街道沿いの村へ、やがて石畳に変わっていった。辺境の冬は乾いた白だったのに、王都のそれは、もっと灰色をしていた。


     ◇


 慈善会は、王都の旧聖堂を使った広間で開かれていた。


 扉を潜った瞬間、空気が変わるのが分かった。嗅ぎ慣れた匂いだ。蝋と、香料と、鼻先だけ華やかな花の香り。そして、人の噂話の音。


 七年間、この空気の中で笑っていた。懐かしい、とは思わなかった。帰ってきた、とも思わなかった。ただ、「こういう場所だった」と、指の感覚で確認する感じだった。


 ルーカス様が、隣でほんのわずかに姿勢を正した。軍服の襟が、彼の首の古傷を隠してくれている。それでも、この空間は、彼にとって明らかにアウェイだった。


(ここは、私のテリトリーだ)


 そう思った瞬間、肩の力が、少しだけ抜けた。


 広間に足を踏み入れる。


 正面の壁際に、見覚えのある人影が立っていた。


 先代公爵夫人、マルガレーテ様。


 扇で顔の下半分を隠している。目だけが、こちらを見ていた。ほんの短い時間。視線が合って、合った瞬間に、彼女のほうが先に逸らした。


 何も言わない。近づいても来ない。でも、見ていた。ずっと、見ていた。


(……まだ、来ていたんですね)


 公爵位一時停止中の家の人間が、こういう場に出るのは難しいはずだ。でも、王家直々の招待ではない場なら、古い人脈で入ることはできる。誰かが呼んだのだろう。たぶん、古い友人の誰かが。


 そうか。この人にとっては、ここが最後の戦場だ。


     ◇


 広間の真ん中あたりで、年配の女性に声をかけられた。


「まあ、ヴァイス伯爵家の、失礼、伯爵夫人となられる方ですわね」


 目尻の皺が深い、上品な方だった。記憶が合っていれば、エストル侯爵夫人。古参の社交界の重鎮で、マルガレーテ様の、長年の友人のお一人だったはずだ。


「ご挨拶を賜り、恐れ入ります」


「あらあら、そんな堅苦しい。あの、一つだけ、お伺いしてもよろしいかしら。ずっと気になっておりましたことが、あるんですの」


「はい、何なりと」


「慈善会の収支報告の、あの書式」


 空気が、一瞬だけ、止まった気がした。


 私の心臓のことではない。周りの空気のほうだ。近くにいた数人が、会話の声を小さくした。書式、という単語に反応したのだろう。あれは、王都の慈善会を経験した人ならば、誰もが触れたことのある書式だったはずだ。


「七年ほど前に、マルガレーテ様の采配で新しくなった、あの書式ですのよ。欄の切り方が細かくて、計算が楽で、会計の担当たちから『あれのおかげで助かった』と、ずっと評判で」


「……はい」


「あれ、どなたがお作りになったのか、ずっと気になっておりましたの」


 会場の端で、扇が、わずかに動いた気配があった。見なくても分かった。マルガレーテ様だった。


 私は、一度だけ、息を吸った。


「私が、作りました」


 あっさり、とは言えない声だった。でも、震えてもいなかった。ちょうどいいくらいの平坦さで、言えたと思う。


「あの年、マルガレーテ様の慈善会のお手伝いに伺った際、臨時で組んだものです。お役に立てていたのなら、嬉しく存じます」


 エストル侯爵夫人の目が、大きく開いた。


「まあ、まあまあ。あなたが」


「はい」


「そう、でしたの。ありがとう、ございます。本当に、長年、助かっておりました」


 深々と、頭を下げてくれた。


 頭を、下げないでください、と思った。あれは私の仕事だった。仕事をした人間にお礼を言うのは、普通のことだ。でも、頭を下げてもらうほどのことをした覚えはない。ただ、欄を整えただけだ。ただ、それだけ。


 その「ただそれだけ」を、七年間、誰も私の仕事だと知らなかったのだ。


 広間の端で、扇が下がった。


 落としたのではない。下ろしたのだ。顔を隠すのをやめた、というだけの動きだった。


 マルガレーテ様の目と、合った。


 ほんの短い時間だった。


 私は、ただ、軽く頭を下げた。それだけだった。攻撃でも、勝ち誇りでもなく、ただ、同じ広間にいる者同士の、形式上の会釈だった。


 マルガレーテ様は、会釈を返さなかった。


 でも、目を逸らしもしなかった。


 しばらく、そのまま見ていた。それから、ゆっくり、扇を再び持ち上げて、顔を、また隠した。


     ◇


 帰りの馬車の中で、ルーカス様は、しばらく何も言わなかった。


 窓の外で、街道沿いの屋敷の灯りが流れていく。私は膝の上で、手袋の端を、意味もなく弄っていた。


「……あの書式」


 ぽつりと、声が落ちた。


「お前が、作ったのか」


「はい」


 短く答えた。説明の言葉を探す気力は、なかった。


 窓の外の灯りが、ルーカス様の横顔を、時々照らした。軍服の襟が、相変わらず、彼の首の古傷を守っている。


「……他にも、あるか」


 問いかけは、静かだった。責めるのでも、驚くのでもなく、ただ事実を確かめたい声だった。


 私は、少しだけ考えた。


 本当に、少しだけ。


「……あります」


 声が、馬車の揺れに紛れた。


「たぶん、まだ、たくさん」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ