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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第3話 通訳は、笑って訪ねてきた


 朝に降り始めた雪は、昼には本降りになっていた。


 ヴァイス領で初雪が積もったのは、今年はこの日が初めてだった。使用人たちが玄関前の雪掻きを始めるのを、窓越しに見ていた。鉄の縁のシャベルが石畳を擦る音。時々ハンネスさんの笑い声も混じる。


 経理室の机には、北港の手数料交渉の下書きが広げてあった。ラインハルト伯爵の通告書への対応案。昨夜、ルーカス様に見せる前の最終確認をしていた。


 頭の中では、昨日の古い棚の一行がまだ回っていた。


 『本日より三ヶ月 声帯の安静を厳命』。八年前の春。


 勝手な解釈はしない、と決めた。決めたのに、ペン先が止まるたび、あの一行が指の裏側に戻ってくる。どうしてか、右手のほうだけ。


(……仕事、仕事)


 自分に言い聞かせて、ペンを持ち直した。


 そのときだった。


 玄関のほうが、少しだけ騒がしくなった。


     ◇


「セレナ殿ー! 来客ですー!」


 ハンネスさんが廊下を走りながら叫んでいた。副官のくせに品位を欠くと、いつもなら少し注意するところだけれど、今日はその口調の軽さが、少しだけ救いだった。


「どなた?」


「軍医のマリーカさんっつー方で、王都からわざわざ来られたそうで」


 軍医。


 ペンが、机の上で止まった。


 昨日の奥の棚で見た赤黒い紋章が、頭の中で一瞬だけ浮かんだ。軍医局の封蝋。偶然にしては、早すぎる。


 でも顔には出さずに、立ち上がった。


「応接間にお通しして。お茶の用意も」


「了解です」


 ハンネスさんが駆けていった後、私は一度だけ、机の上の書類を手で整えた。紙の角を揃えて、ペンを所定の場所に戻す。手癖だ。緊張した時の。七年間で身についた、無意味な動作。


 廊下を歩きながら、軍医という単語の意味を頭の中で確認していた。軍に所属する医師。軍の人間の怪我や病を治す。将校の健康管理をする。時に、機密扱いの治療記録を持っている。


 いや、「時に」ではない。記録を持っているから、来たのだ、たぶん。


 応接間の扉を開けた。


     ◇


「はじめまして、セレナ様ー! いやもう本当に、お会いしたかったんですっ! 王都からの街道、雪が急に降って大変で、馬が二回もぐれるところでしたよ、ふふ!」


 女性だった。


 三十代の半ばくらいだろうか。細身だが姿勢がいい。軍人らしい背筋に、民間の落ち着いた旅装。栗色の髪を後ろで一つに束ねて、化粧は薄いが、目元の線が鋭い。医師の目だ、と一目で思った。人の体を見ることに慣れている人の目。


 そして、笑顔が、息継ぎをしない種類の笑顔だった。


「マリーカ・フォン・エッベルクと申しますー! 王都軍医局の第三分室で働いておりますっ! ルーカス様には、兄の戦友ということで、昔からお世話になっておりまして。今日は、その」


 一気に喋って、一拍だけ間を置いた。


「ルーカス様のお許しをいただいて、お邪魔した次第です」


「……許しを」


「はい! 昨日の夜、軍医局に早馬の便が一通届きまして。ルーカス様から」


 マリーカさんが、少しだけ笑顔のギアを下げた。


「『セレナに、八年前の話をしてやってくれないか』、と」


 応接間の空気が、一度だけ、静かになった。


 ハンネスさんが気を利かせて、茶を置いて、静かに下がっていく。扉が閉まる音すらも遠慮がちだった。


     ◇


 マリーカさんは、湯呑みを両手で包んで、しばらく黙っていた。


 喋り出す前の、軍医の無言。人の体を診る時に、一度全部を見てから話し始める類の静けさ。私は、自分の湯呑みには触らずに待っていた。


「……八年前の春、ですね」


「はい」


「ルーカス様は、当時、国境警備の任務中に負傷されました。詳しいことは機密なので申し上げられないのですが、首の横、ちょうどこの辺り」


 マリーカさんが、ご自分の首の横を、指で示してくださった。


「この辺りに傷を負って、そのあと合併症で、声帯が、しばらく言うことを聞かなくなっていました」


「……しばらく、というのは」


「最初は全く声が出ませんでした。三ヶ月ほど、絶対安静。その後、少しずつ、掠れた声なら出せるようになりました。ただ、師匠の軍医、つまり私の師ですが、ルーカス様に厳命したんです。『長時間の発話は禁止、感情の高ぶる話もするな、冷気を避けろ』」


 マリーカさんは、少しだけ、首を傾げた。


「そのちょうど真ん中に、あの縁談の席が、ありました」


 肺の空気が、一度、行き場を失った。


 吸った量と吐く量が、噛み合わなくなった。


 マリーカさんは私の顔を見ていた。見ていたけれど、気づかなかったふりをしてくれた。軍医は、こういう時の距離の取り方を、知っている人たちだった。


「ルーカス様は、縁談を断ろうとは思ってなかったんですよ。師匠の診察室で、『明日、縁談に行く』って、筆談の紙に書いてましたから。私は当時、師匠の見習いで、横で見てたんです。師匠は『お前、本当に行くのか。喋れないぞ』って、何度も止めたんですけど、『行かなきゃ失礼だ』って、筆談で言い張って」


「……筆談で」


「はい。口は動かせなかったんです、あの日。感情が昂ると、まだ声帯に障りが出る段階で」


 マリーカさんは、一度、湯呑みを置いた。


「先方のご令嬢に嫌われたほうが、まだ良かった、と言うわけです。断られて。その後、長く黙って、八年分、一度も手紙を送らず、追いかけず。そういう人です、あの人」


     ◇


(……だから)


(そうか)


(そう、か)


(だから、あの席で)


 耳の後ろのあたりが、冷たくなった。


 頭は動かない。動かないのに、体のほうが先に「分かってしまった」を受け取っている。舌の根が、しびれていた。湯呑みに触れられないのは、たぶん手が震えているからだ。触ったら揺れる。触れたら、お茶がこぼれる。


(八年前、私が「嫁ぎたくない人」だと決めつけた人は)


(実際は)


 あの日、目の前に座って、ほとんど喋らなかった男。低い声で「……よろしく」とだけ言って、あとは帳簿をこちらに差し出した手つきだけが丁寧だった男。私は、あの人を「無愛想」と呼んで、公爵家からの縁談を選んだ。


 あの「よろしく」の一言は、たぶん、軍医の厳命を破ってでも絞り出された一言だった。


(……駄目だ)


(駄目。ちゃんと考えないと。軍医さんに、失礼になる)


 でも、考えるほど、指の骨の、細いところが、硬かった。


(そんな)


(そんなの、ずるい)


(八年も。誰にも言わないで。誰にも、言えないで)


「……セレナ様」


 マリーカさんが、静かに声をかけた。


「無理に反応しようとしなくて、大丈夫ですよ。八年越しの話なので。ちょっと心臓が追いつかないのは、普通です」


「……すみません」


「謝ることじゃないです。それから、もう一つ、お伝えしたいことがあるんですけれど」


 私は顔を上げた。


「ルーカス様、今もまだ、冷気と長時間の発話はお控えになったほうがいい身体です。冬場の視察は私たち軍医局から何度も『控えてください』と申し上げているんですが、まあ、軍人って、言うこと聞かないんですよ、本当に」


 半分笑いながら、マリーカさんは言った。


「だから、お願いが一つ。今後、視察から帰ってきた夜、もしルーカス様のお声が掠れていたら。それは、医療的な安静が必要な合図です。『次の日の会議、私が代わります』って、言ってあげてほしいんです」


「……はい」


「ご存じないまま一緒に暮らすと、ルーカス様が一人で抱え込む方向にいっちゃいますから」


 マリーカさんは、それ以上は、軍医としての話はしなかった。


 代わりに、湯呑みを取って、一口飲んで、「あー、美味しい。ヴァイス領のお茶は渋みがないですねー」と、いつもの息継ぎをしない笑顔に戻った。


     ◇


 夕方。雪は少し弱まっていた。


 マリーカさんは、日が落ちる前に王都に戻ると言った。泊まっていけば、と言ったのだけれど、「いえ、軍医局の勤務があるので」と笑って断られた。


 玄関先で見送った。


 馬車の扉が閉まる直前、マリーカさんが、小さく顔を出した。


「……セレナ様」


「はい」


「ルーカス様は、あの日、縁談の席から帰ってきて、師匠の診察室で、一通の手紙を書こうとしたそうです。結局、書けなくて、白紙のままでした」


「……宛先は」


「宛先は、書いてあったそうです。でも、本文が、どうしても」


 マリーカさんは、少しだけ悲しそうに笑った。


「それじゃ、また。お二人とも、お大事に」


 馬車が動き出した。雪に車輪の跡を残しながら、門を出ていく。


 私は、しばらく、玄関先に立っていた。外套の襟を立てて、雪の匂いの中で、さっきの一言を、頭の中で何度も繰り返していた。宛先は、書いてあった。本文が、書けなかった。


 それは、私のことだろうか。


 決めつけるな、と昨日も自分に言った。でも、今日はもう、決めつけるな、が効かない。


 屋敷の中に戻ろうとして、ふと、玄関脇の白い花壇に目をやった。雪が薄く乗っている。花弁は寒さに耐えて、まだ残っていた。


(……あなたは、不器用な人ですね)


 声には出さなかった。出したら、たぶん泣いてしまう気がしたから。


 廊下を歩いていると、ルーカス様の執務室の扉が半分開いていた。灯りがついている。覗き込むと、机に向かってペンを動かしている背中が見えた。いつもの姿勢、いつもの外套。


 私は、何も言わずに、扉をそこまで以上は開けなかった。


 今日は、顔を見ないで廊下を通り過ぎた。


 声をかけたら、声を出させてしまう。それが、今日の私にできる、一番の返事だった。

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