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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第2話 古い棚と、読めない一行


 書類の束というものは、大抵、嫌な一行を一番下に隠している。


 そうじゃなかったとしても、探している数字はたいてい一番下の束に混じっている。朝の経理室で、私はヴァイス領の海路図と在庫台帳を同時に広げていた。ハンネスさんが反対側から身を乗り出して、指を港の一つに当てる。


「で、セレナ殿。迂回路の本命は」


「まず、北港のルート。港湾使用料はラインハルト伯爵の管轄外です。問題は積み替え手数料が少し高いことと、冬場の波の状況」


「北は波、荒いっすよ」


「ええ。だから並行で、南の小さな港も押さえておきたいんです。ここ」


 指を海岸線の少し下に置いた。地図では小さな丸でしか描かれていない港。でも、去年の末に商人名簿を整理した時、マッテオさんが「昔、親父が使ってた」と言っていた港だ。小さくても、生きている。


「マッテオの兄さんが話してたやつっすか」


「よく覚えてますね」


「俺、数字は覚えられないけど、人の名前だけは覚えるんで」


 それは副官として大事な能力だと思う。黙って頷いた。


「冬場は北を主にして、残りを南に回します。積み替え手数料はラインハルト伯爵の三倍使用料より遥かに安いので、半年は持ちます」


「その間に、もう一手、ですね」


「ええ。もう一手」


 どんな一手か、まだ決めていなかった。決めていないけれど、時間は稼げる。時間が稼げるということは、こちらの思考に余白が戻るということだ。余白。そう、余白の話だった。


「ハンネスさん、過去の港の輸送実績、当時の分が必要なんですが」


「あー……それ、たぶん奥の棚です」


「奥の棚?」


「経理室の、さらに奥。使ってない部屋。俺も中身あんまり把握してなくて」


     ◇


 経理室の奥には、もう一つ小さな部屋があった。


 扉を開けると、埃の匂いが先に出迎えた。乾いて軽い、紙と木の匂い。棚が三つ。そのうちの二つは書類で埋まっている。残る一つには箱が積まれていた。


「……これ、全部?」


「全部っす。先代の頃の書類とか、移送されてきたままのやつとか。俺が副官になってから一度も開けてないんで、中身は、まあ、開けてみないと」


 ハンネスさんが箱の一つを持ち上げて、経理室に運んでいく。


 私は残って、棚の書類を見ていた。


 背表紙は色々だった。使い込まれた革、紐で縛っただけの帳面、封筒のまま積まれているもの。一冊を引き抜くと、紙の端がぱらぱらと落ちた。古い。下手に触ると崩れる種類の古さだ。


 輸送実績の書類は、たぶんこの辺にあるはず、と棚を追っていく指が、箱のラベルで止まった。


『軍 ヴァイス中佐 私物』


 字はルーカス様のものではなかった。もっと角張った、事務方の書き方だ。移送の時に貼られたラベルだろう。


(……軍の時代の)


 少し、迷った。他人の私物を勝手に開けるものではない、と思った。でも、兵站の記録は軍の私物と一緒に移されることがある、と、確か以前、どこかの屋敷の遺品整理を手伝った時に聞いた覚えがあった。輸送の参考になるものがあるかもしれない。関係なければ、すぐ戻せばいい。


 そう、言い訳を頭の中で並べた。言い訳を並べている時点で、自分の動機が純粋じゃないことは分かっていた。少しだけ、中身が見たかったのだ。


 箱を開けた。


     ◇


 中身は、思ったより綺麗に整理されていた。


 上から順に、兵站の記録。任務報告書の写し。叙勲記録。どれもルーカス様の中佐時代のものだった。字はやはり大きくて少し不揃いだが、書きつけられた地形の描写が、驚くほど緻密だった。


『この山道、膝まで雪』

『ここの風向き、夕方変わる』

『渡河地点、春先までは使えない』


 数字の代わりに、体で覚えた情報が並んでいた。


 ああ、この人、やっぱり地形のことはちゃんと書くんだ。


 自分で読みながら、少しだけ笑ってしまった。帳簿の数字は飛ばすのに。同じ人の書いた字とは思えないくらい、地図の情報には執着がある。もっと言えば、愛情に近いものが滲んでいた。自分が歩いて、雪を踏んで、風を受けて覚えた場所のことは、ちゃんと残しておきたい人なのだ。


 笑った息が止まったのは、箱の下の方から、一通の封筒が出てきた時だった。


 軍医局の封蝋。赤黒い、見慣れない紋章。


 表書きに『ヴァイス中佐殿 医療記録 移送用概要』と、事務的な筆致で書かれていた。封蝋は割れていた。移送の受け取り時に中の書式を確認するため、一度開けられたままになっているのだろう。


(……医療記録)


 手が、止まった。


 これは、輸送実績とは関係のない話だ。明確に、開けてはいけない種類の書類だ。帳簿を長く扱っていれば、書類の重さの区別はつく。


 ただ、封筒の表に、事務方の手書きの付箋が一枚、外から貼られていた。


 移送時の概要メモだ。目を上げた瞬間、一行分が入ってしまう。入ってしまったものは、もう抜けない。


 『本日より三ヶ月 声帯の安静を厳命』


 日付が、その下にあった。


 八年前の、春。


     ◇


 指が、止まった。


 見なかったことにできる一行ではなかった。八年前の春。あの縁談の席で、この人と向かい合って座った時期だ。


 まだ頭が追いついていない。追いついていないのに、体のほうが先に動いている。封筒を持った親指の付け根が妙に冷たくなって、反対の手で温めるように握り直した。


(声帯の、安静)


 声を出すことを、禁じられていた、ということだろうか。


 それとも、別の意味だろうか。医療のことは詳しくない。でも「厳命」という言葉は、軍の中では重い言葉のはずだ。守らなかったら罰が出る類の言葉。


(八年前の、春)


 あの席でほとんど喋らなかった人は、無愛想だったのではなく、


 そこまで考えて、やめた。


 自分の勝手な解釈で、この人の過去を決めつけてはいけない。帳簿と同じだ。数字は嘘をつかないが、読み手が意味を捏造することはできる。勝手に物語を作ってはいけない。


 封筒を、静かに箱に戻そうとした。


 扉が、開いた。


     ◇


「セレナ殿、下の箱」


 ハンネスさんの声ではなかった。


 顔を上げると、ルーカス様が立っていた。


 見回りの途中で寄ったのだろう、まだ外套を着ていた。襟元に冬の外の匂いが残っている。入ってきた勢いのまま、こちらを見て、私の手の中の封筒で、視線が止まった。


 止まった、というより、その一点で全部が凍った。


「……ルーカス様。ごめんなさい、輸送実績を探していて、それで」


 言い訳のように早口になってしまった。こういう時に早口になるのは、七年間で直せなかった癖だ。


 ルーカス様は、何も言わなかった。


 近づいてきて、私の手元ではなく、周りに並んだ箱の他の書類を見た。兵站記録、任務報告、叙勲。それから、最後に封筒へ目を戻した。


 短い沈黙があった。


「……それは」


 声が、掠れていた。朝の、毛布を持ってきた時と同じ掠れ方だった。


「見なくていい」


 それだけだった。


 ルーカス様の手が、ゆっくり伸びてきた。奪うのではなかった。そっと、封筒を受け取る動作だった。私の指から、封筒が離れる。離れる瞬間、彼の指先が、私の指先に触れた。


 冷たかった。


 朝より、冷たい。


 彼は封筒を、箱の一番下に戻した。上から他の書類を重ねた。隠したというより、本来あるべき場所に戻した、という丁寧さだった。


「……輸送実績は、別の箱だ」


「……はい」


「ハンネスに、運ばせる」


「はい」


 それ以上、言葉はなかった。ルーカス様は箱を持ち上げて、部屋を出ていった。


 奥の部屋に、私だけが残った。埃の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。


     ◇


 夜。


 自室の机の前に座っていた。灯りは点けていなかった。窓から入る月明かりだけで、充分に明るかった。


 机の上には、庭から一本だけ折ってきた白い花を挿した小さな花瓶。花瓶は、経理室で最初にハンネスさんから譲ってもらった古いやつだ。水の表面に、月の光が細く折れて映っている。


 頭の中では、昼間の一行がずっと回っていた。


 『本日より三ヶ月 声帯の安静を厳命』。八年前の、春。


(……あの席で、この人は)


 勝手な解釈はしない、と決めたばかりだった。決めたのに、頭は勝手に動く。あの縁談の席で、ほとんど言葉を発さなかった男。帳簿をこちらに差し出す手つきだけが丁寧だった男。私はあの時、「無愛想な軍人」だと思って、公爵家を選んだ。


(あの沈黙は、もしかして)


 考えて、首を振った。


 決めつけるな。自分に言い聞かせた。


 でも。


 自分に言い聞かせる声より、今朝の毛布の温度のほうが、ずっと鮮明だった。


 窓の外で、風が吹いている。冬の、乾いた潮風。


 月が、花瓶の中の白い花弁を、静かに照らしていた。

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