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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第1話 冬支度と、届かない通告


 冬のヴァイス領は、帳簿のインクが乾くのが遅い。


 書き終えた数字の上に、まだ薄く光る黒。指で触れれば、うっすら跡がつく。それが分かっているから、朝のこの時間は急いで書かない。急いで書いても、どうせ乾かない。


 窓を細く開けていた。潮風が入ってくる。夏の潮風は湿って重たかったけれど、冬のそれは乾いた匂いがする。不思議だ。同じ海から吹いているはずなのに。


 ペンを置いて、両手をこすり合わせた。


 庭に白い花を植えた夕暮れから、秋が一つ終わった。領地の木々は葉を落とし、市場の屋台には焼き栗の香りが混じり始めた。ハンネスさんの口癖が「そろそろ雪っすね」に変わった。それだけで季節が分かる。便利な男だ、本当に。


(今年の冬支度、早めに組まないと)


 頭の中で仕入れ計画を並べ直していた。燃料、塩、冬越しの飼葉。峠の山道が閉じる前に運び込むもの。海路で間に合わせるもの。ああそうだ、港の倉庫の空き状況も確認しないと。ハンネスさんに言って。


 扉が開いた。


 音で分かる。ハンネスさんなら「おはようございまーす!」と先に声が入る。使用人なら扉を叩く。だから、この静かな開き方は。


「……今日は、冷える」


 顔を上げると、ルーカス様が立っていた。


 外套を羽織ったまま。朝の見回りから戻ってきた格好だった。手に、厚手の毛布を抱えている。軍用のそれではなくて、もう少し柔らかそうなやつ。新しく買ったのかもしれない。


 机の端に、そっと置いた。


「……ありがとうございます」


 返事の前に、少しだけ間が空いた。いけない、と思った。お礼は即答するべきものだ。七年間、社交界でそれだけは叩き込まれたはずなのに、この人を前にすると、どうしてこう、指先の動きから止まっていく。


「ああ」


 それだけ言って、背を向けた。


 扉が閉まる前、ほんの一瞬、彼の肩が小さく動いたように見えた。寒さだろうか。朝の見回りから戻ったばかりなのだから、そうに決まっている。毛布を抱えて歩いてきたのだから、指が冷えるのも当然だ。さっきちらりと見えた指先が、確かに少しだけ赤かった。


 毛布に手を当てる。ほのかに温かい。


(……抱えて歩いてきてくれたのだ)


 鎖骨の内側が、ゆっくり温まってきた。理由は、考えないことにした。


     ◇


「セレナ殿ー!」


 午前も遅くになって、ようやくハンネスさんが来た。


 扉を開けた瞬間から声が始まる。ひと続きの挨拶と報告。この男の脳みそは、たぶん、口に直結している。


「婚約発表の余韻、いやもう余韻っていうか、商人連中の鼻息がすごいんですよ。マッテオの兄さんとか、『結婚祝いは俺の店の祭具を使ってくれ』って。他の商会からも似たような申し出が連鎖してて、どれ選ぶかで今度揉めそうです」


「ありがたいお話ですね。でも、全部受けると政治的な意味が出てしまうので」


「そうそうそれです、それを相談したくて」


 机の上に紙束を広げた。商会ごとに整理された祭具の一覧。字は相変わらず大きくて少し不揃いだが、並べ方が前よりずっとまともになっている。


(……上達してる)


 黙って眺めていたら、ハンネスさんがニヤッとした。


「褒めるならちゃんと褒めてくださいよ」


「まだ何も言ってません」


「顔に出てました」


 返事をしそびれた。喉で笑っている。軍人の部下としては優秀だと前に思ったが、訂正する。帳簿の部下としても、そろそろ侮れない。


 二人で祭具の選定を始めた。いくつかの商会から一つずつ、序列の角が立たないように組み合わせる。普段の仕入れより、よほど気を使う仕事だった。結婚祝いというものは、こうも面倒な計算を要求してくるのか。


 そんなことを頭の隅で考えていた、そのときだった。


「失礼いたします。王都からの早便です」


 使用人が、封筒を運んできた。


     ◇


 赤い蝋。初めて見る紋章だった。


 ラインハルト伯爵家。聞き覚えはある。去年の末、ヴァイスに来てすぐの頃に整理した商人名簿で、名前を見た記憶がある。王都の新興貴族で、港湾事業で伸びている家。


 封を切った。


 目が、最初の数行を撫でた。次の数行で止まった。


「……ハンネスさん」


「はい」


「これ、読んでもらえますか」


 渡した。ハンネスさんは受け取って、目を走らせ、途中で表情が消えた。


「……使用料、三倍」


「ええ」


「検疫体制の不備、っつー名目で」


「ええ」


 書簡を読み直している。二度、三度。読み直しても内容が変わらないことを確かめるように。


 私は、すでに頭の中で数字を動かしていた。


 ヴァイス領の海路輸送。港の使用料、積み替え手数料、通関。今の収益構造で使用料が三倍になれば、半年で赤字に転落する。意図的に設計された数字だ。商人の嫌がらせで出る数字ではない。


(これは、圧力ですね)


 声には出さなかった。出さなくても、ハンネスさんも同じ計算をしていたのが分かった。


 末尾の署名欄に視線を落とす。発信は伯爵本人の名前だったが、その下に連名がいくつか並んでいた。商会連合の代表。読み流していく。


 指が、止まった。


 一番下の署名。見覚えのある商会長の名前だ。王都の古参で、先代公爵夫人マルガレーテ様が長年、贈答品の発注を任せていた家。あの屋敷の夜会の花を毎年手配していたのも、たぶんここだ。


(……まだ、動かせる人だったんだ)


 書簡を折り畳んだ。


「ハンネスさん。伯爵にお知らせしてきます」


「……了解です」


 いつもの軽さが、声から抜けていた。それがかえって、事態の重さを証明していた。


     ◇


 ルーカス様の執務室の扉を叩いた。


「入れ」


 壁の地図は、相変わらず国境線と地形図の組み合わせだった。ただ、机の端に、ヴァイス領の海路を描いた新しい地図が一枚、増えている。先月、私が描いたやつだ。


 書簡を差し出した。


 ルーカス様は、受け取って目を通した。相変わらず、数字の部分は飛ばしている気がする。でも、末尾の署名欄で、指が止まった。


「……誰だ、これは」


「ラインハルト伯爵、グスタフ様。王都の新興貴族で」


「そちらじゃない」


 指が、連名の一番下を押さえていた。例の商会長の名前。


「……ああ。それは、先代公爵夫人マルガレーテ様のお出入り商会です」


 一瞬、ルーカス様の眉が動いた。


 動いた、というより、眉の角度がほんのわずかに変わっただけだった。他の人なら気づかないかもしれない。でも、毎朝同じ机で向き合っていると、そのわずかが見える。


「……マルガレーテの、最後の牌か」


 低い声だった。独り言のような、確認のような。


「セレナ」


 名前だけ。様も殿もつかない、時々出るやつ。


「はい」


「これは、俺の問題だ」


「え」


「巻き込んだのは、俺の婚約発表だ。相手は、俺を狙って打ってきた手だ。お前の心配は、いい」


(……違います)


 即座に思った。口には出さなかったけれど、たぶん顔には出ていた。


 ルーカス様が、こちらを見た。


「……お前の心配は、いい、じゃなくて」


 言い直した。こういう言い直しをするようになったのは、ここ二ヶ月のことだ。


「俺の心配は、いい。お前は、お前の武器を出せ」


 机の上に置いた手の指先が、かすかに赤かった。今朝、毛布を持ってきた時と同じ赤みだった。


 私は、頷いた。


「……海路の代替案、組みます。ハンネスさんに資料を集めさせます」


「任せる」


 短い。いつもの彼だった。


 執務室を出る前に、一度だけ振り返った。ルーカス様は、書簡の末尾の署名を、まだ見ていた。


 廊下の窓の外で、風の匂いが変わっていた。


 冬が、本当に来るのだ。この領地にも。たぶん、私たちの婚約にも。

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