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夫の愛人が産んだ子を七年育てましたので、役目は終わりですね  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第7話 本当のお母様は、空にいる


 朝の光は、謝罪にも告白にも向いていない。でも、それ以外の時間を選ぶ勇気は、誰にもなかった。


 応接間の窓から、冬の弱い光が細く差し込んでいた。カーテンを開けたのは、使用人ではなく、私だった。昨日と同じカーテン。昨日と同じ応接間。でも、空気だけが違っていた。


 アルベルト様は、昨日と同じ席に座っていた。隣にレオン。向かいに私。ルーカス様は、今朝は同席しない約束だった。


「私が同席します」と、昨日の夜、ルーカス様に伝えた。


「いいのか」と、短く訊かれた。


「いいんです。あれは、私とアルベルト様の、七年の話ですから」


 ルーカス様は、それ以上は何も言わなかった。代わりに、「別室で、待っている」とだけ言った。いつでも呼べる場所にいる、という意味だった。呼ぶつもりはない。でも、そこにいてくれることが、この部屋で私の背骨を支えていた。


 王家監査官は、部屋の隅に立っていた。公務として同席する義務がある立場。立会人。記録者。あるいは、証人。


 アルベルト様が、ゆっくりと口を開いた。


「レオン」


「はい、お父様」


「お父様は、ずっと、お前に嘘をついていた」


 レオンの肩が、一瞬、小さく動いた。


「う、うそ……?」


「ああ」


 アルベルト様は、一度、呼吸を整えた。こんなに言葉を慎重に選ぶのを、見たことがなかった。この人は、外交の場で言葉を売ってきた人だ。相手の心に滑り込ませる言葉を、誰よりも早く選ぶ人だった。その人が、今朝は、言葉の前で一度、呼吸を整えている。


「リーリエは、お前の、本当のお母様ではない」


 レオンの目が、大きくなった。


 分からない、という顔だった。言葉の意味は分かるけれど、意味の全体が入ってこない、という顔だった。


「本当のお母様は、お前が生まれた日に、天に召された」


 沈黙が、応接間に落ちた。


 長い沈黙だった。部屋の隅で、監査官の鉛筆が記録帳の上を走る音だけがしていた。その音が止むと、静けさが、より深くなった。


 レオンは、しばらく何も言わなかった。


 そして、小さな声で、訊いた。


「……おとうさま、ずっと、しってたの?」


「ああ」


「ぼくに、うそ、ついてたの?」


「ああ」


「……なんで?」


 アルベルト様は、その「なんで」に答えられなかった。答えるべき言葉を、探している顔だった。外交の言葉ではなく、父の言葉を。外交官は、父の言葉を習う機会がなかったのだ。七年間、家のことを全部、誰かに任せていた男は。


「……お前が小さかった時、お前に知らせる強さが、私になかった」


 アルベルト様の声は、低かった。


「そして、大きくなってからも、言えなかった。言えなかったのは、私が、言わないほうが楽だったからだ」


 楽だった。


 その一言が、きちんと「自分の罪」として口から出てきた瞬間、私は、この七年間で初めて、アルベルト様に対して何かを、許しそうになった。


     ◇


 レオンは、黙って聞いていた。


 八歳の子にとっては、たぶん、話の半分も入っていない。でも、目の前で父親が震えていることだけは、分かっていた。


「じゃあ」


 レオンの声が、震えていた。


「ぼくの、ほんとうの、おかあさまは……だれ?」


 アルベルト様が、口を開こうとして、また、閉じた。


 言えるはずだった。名前くらい。「お前の本当のお母様はこういう方で、こんなふうに生きて、お前を産んだ日に亡くなった」、そう言えるはずだった。でも、その全部を今ここで、八歳の子に一度に伝えるのは、無茶な要求だった。


 私は、そっと、椅子から立ち上がった。


 レオンの前に回って、また、しゃがんだ。昨日と同じ姿勢だった。目線を合わせる姿勢。


「レオン」


「……はい」


「あなたのお母様は、空にいる方よ」


 レオンが、私を見た。


「生まれた日に、天に行ってしまった方。お名前も、お顔も、あなたはまだ知らないかもしれない。いつか、お父様が教えてくださる時が、きっとくるわ」


 レオンは、頷かなかった。ただ、聞いていた。


「それから」


 私は、一度、息を吸った。自分の言葉に、責任を持つために。


「私は、あなたを育てた」


 レオンの目が、少しだけ動いた。


「七年間、あなたの熱を冷まして、髪を梳いて、お話を読んだのは、私。それは、嘘ではない事実よ。あなたのお母様は空にいる方。私はあなたを育てた女。どっちも、本当」


「どっちも……」


「ええ」


「どっちも、ほんとう?」


「ええ。本当、なの」


 レオンの顔が、ゆっくりと、崩れた。


 泣くよ、と分かった。泣く前兆を、七年間、何度も見てきた顔だった。


 両手を、レオンのほうに広げた。「おいで」とは、言わなかった。言わなくても、レオンは分かっていた。


 ぶつかるみたいに、私の胸に顔を埋めた。


 静かな泣き方だった。声は出さなかった。七歳の頃は、もっとわんわん泣く子だった。八歳になると、泣き方を覚えるのだ。大人に近づくというのは、たぶん、こういうことなのだろう。


 背中を、ゆっくり撫でた。撫で方も、七年分、覚えていた。


 アルベルト様は、少し離れた場所で立っていた。泣かせているのは自分だと分かっているのに、近づいていいか分からない、という顔だった。


     ◇


 昼過ぎ、帰り支度が始まった。


 馬車の準備ができたと告げられて、アルベルト様は外套を着た。外套の襟を直す手つきだけは、昔と同じだった。折り目の整った、公爵家の当主の仕草。その動作だけが、昔のまま残っていた。


 玄関先で、アルベルト様が、私のほうを振り返った。


 レオンは、先に馬車に乗っていた。監査官も。二人きりで話す機会を、アルベルト様のほうから取った格好だった。


「セレナ」


「はい」


「……お前がいなくなってから」


 その先を、少しだけ迷っているのが分かった。用意してきた台詞ではなかった。ここで、その場で選んでいる言葉だった。


「俺は、初めて、帳簿を開いた」


「……はい」


「読めなかった」


 それだけだった。


 続きは、言わなかった。謝罪の言葉を待ってみた。来なかった。「すまない」も「許してくれ」も、言わなかった。


 たぶん、言えなかったのだ。言える資格が、自分にはないと思ったから。


 沈黙のあと、私は、短く答えた。


「……そうですか」


 それで、十分だった。


 アルベルト様は、一度だけ、頭を下げた。昨日の朝よりも、少しだけ、深かった。それから、馬車に乗った。


 レオンが、窓から、小さく手を振った。振り返した。


 馬車が、門を出ていった。


     ◇


 夕方、一人で庭に出ていた。


 外套は羽織っていた。雪が少しだけ積もり直している。白い花壇の花は、今朝よりさらに花弁を小さく閉じていた。それでも、散ってはいなかった。


 手の中に、まだ、レオンの背中の温度が残っていた。


(……ああ)


 頬。


 濡れていた。


 いつから。応接間では泣かなかった。玄関でも泣かなかった。馬車が出て行くのを見送っても、泣かなかった。なのに今、誰もいない庭で、頬だけが。


(……ずるい。私が一番ずるい)


(アルベルト様が泣いていいはずだった。私は泣く場所を持っていたから)


(なのに、今泣いてる)


 頬を拭う気力もなかった。拭ったら、また、次が出てきそうだった。


 背後に、足音がした。


 振り返る前に、ルーカス様の外套の匂いが、先に届いた。冬の外の匂いだった。


 何も、言わなかった。


 ルーカス様は、後ろから、私の肩に、大きな外套をゆっくりとかけた。そのまま、背中に、そっと腕を回した。


 抱きしめる、というには、遠慮がちだった。でも、抱きしめている、というには、確かだった。


 私の肩のあたりに、彼の頬が、触れた。


 冷たかった。外の空気の冷たさとは、違う種類の冷たさだった。朝、毛布を置きに来た時と同じ冷たさだ、と思った。


 でも、今は、そのことを口に出す余裕がなかった。


 私は、ただ、ルーカス様の腕に、少しだけ体重を預けた。涙は、止まらなかった。止めようとも、思わなかった。


「……泣いていい」


 ルーカス様の声は、いつもより低く、いつもより掠れていた。


 泣いた。


     ◇


 翌朝。


 ルーカス様が、冬の視察に出発した。


 国境近くの山道の雪害調査で、三日で戻る予定だった。隊員はハンネスさんと、ほか数名。馬の手配から何から、昨夜のうちに全部整えてあった。早い準備だった。たぶん、昨日の朝からすでに決めていたのだと思う。


 玄関先で、私は、見送りに立っていた。


 ルーカス様が外套の襟を立てた。その動作の時、一度だけ、小さく咳払いをするのが聞こえた。


「……いってくる」


 朝の声が、いつもより、少しだけ嗄れていた。


 気づいた。気づいたけれど、言葉にはしなかった。言葉にしたら、ルーカス様は「大丈夫だ」と短く返してくるだろう。その「大丈夫だ」に、私は反論できない。だから、言わなかった。


 代わりに、手を伸ばして、ルーカス様の外套の襟を、もう一段だけ、折り上げた。


「……お気をつけて」


 ルーカス様は、一度、頷いた。それだけだった。


 馬車が、門を出ていく。


 冬の空に、白い息が、薄く残っていた。

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― 新着の感想 ―
「後ろから、私の肩に、大きな外套をゆっくりとかけた。そのまま、背中に、そっと腕を回した。」 後ろから抱きしめるような格好だというのに背中に腕を回すとはこれいかに。腕が1.2mくらいあるの?関節2カ所?…
すみません 「リーリエは、お前の、本当のお母様ではない」 で合ってますか?  え? では誰? とびっくりしてしましました。 あれ? 私の理解が間違ってますか? 違ってたらすみません。
応接室でレオンの隣に座っていたはずのアルベルトが いつの間にか 少し離れた場所で立っている不思議
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