第3話:独裁すら阻む鉄の法典
王立大図書館の最深部。そこには、数千年の歴史が堆積した特有の匂いが漂っていた。古い羊皮紙が放つ、乾いた木の葉のような芳香と、魔導書に施された封印の触媒である白金の冷たい香気。
だが今、その静謐を汚すように、鼻を突く異臭が立ち込めていた。それは、どろりとした硫黄の臭いと、焦げ付いた獣の脂のような――禁忌の魔導書が放つ、腐敗した魔力の残り香である。
「くははは……! あんな地味女が作った理屈など、この『深淵の魔導書』で上書きしてやる。王の言葉こそが法だということを、思い知らせてくれるわ!」
第一王子イグニスの瞳は、血走っていた。
彼の目の前にあるのは、アニエスが遺したあの革装の『法典』である。それは台座の上で、静かに、そして傲然と、銀色の光を放ち続けていた。
イグニスの手には、不気味な紫色の炎を上げる古びた魔導書が握られている。彼は狂ったような笑みを浮かべ、その炎を『法典』へと叩きつけた。
「燃えろ! 消えろ! 貴様の作った秩序も、予算制限も、すべて塵に帰してやる!」
轟、と大気が震える。
紫の炎が『法典』を包み込み、周囲の空気は一気に沸騰した。壁に並んだ貴重な蔵書たちが、熱に耐えかねてパラパラとページをめくる音が、断末魔の悲鳴のように響く。
傍らに控える聖女リリアは、その熱風に顔を背けながらも、狂喜に目を輝かせていた。
「そうですわ、イグニス様! あんな冷たい規則なんて、すべて焼き尽くしてしまいましょう! そうすれば、この国は私たちの愛のままに動く楽園になりますわ!」
だが。
炎の渦の中から聞こえてきたのは、紙が焼ける音ではなかった。
『――検知:外部魔力による構成データの破壊試行。難易度:極低。』
無機質で、どこか眠たげな「彼女」の声。
アニエスの声をしたシステムボイスが、炎を割って響き渡った。
『法典』を包んでいた紫の炎が、まるで吸い込まれるように一箇所に凝集していく。それは『法典』の銀色の光に飲み込まれ、青白い、透き通るような光の粒子へと変換されていった。
イグニスが呆然と目を見開く。
「な、……なんだと? 『深淵の炎』が、消されただと……?」
『事象の変換を完了しました。消費された魔導エネルギーを、国家緊急予備費の魔導触媒として再利用します。……ご協力、ありがとうございます。』
システムは、王子の渾身の攻撃を単なる「エネルギー供給」として処理したのだ。
その瞬間、図書館の床に刻まれた魔方陣が、これまで見たこともないほど眩い深紅の光を放った。
『緊急プロトコル:第零型・自動清掃を開始。対象:システムへの悪意ある干渉者。』
「な、なんだ!? この光は!」
図書館の重厚な扉が、ガランガランとけたたましい音を立てて開け放たれた。
なだれ込んできたのは、王宮守備隊――ではない。
全身を魔導武装で固めた、感情を排した「鉄の騎士」たち。アニエスが行政機構の最終守護者として予算を注ぎ込み、制度の一部として組み込んだ、法執行自動人形の一団であった。
「待て! 俺は王子だ! この国の主だぞ!」
イグニスが叫ぶが、先頭に立つ騎士団長――彼もまた、人間でありながらシステムの歯車として生きることを選んだ「規律の信奉者」だった――は、冷徹に告げた。
「残念ながら、イグニス殿下。現在、この国の法典は、あなたを『王族』ではなく、システム上の『バグ(不具合)』および『国家資源への有害物質』と認定しました」
「バグだと……!? この俺がか!」
「はい。アニエス様が構築された制度において、法を破壊しようとする者は、その身分に関わらず排除対象となります。……連れて行け。これより、殿下を『再教育用特別隔離施設』へ転送する」
「離せ! リリア、助けろ! 聖女の力でこの鉄屑どもを……!」
イグニスがリリアに助けを求めて振り返る。
しかし、リリアはすでに、背後の騎士たちに両腕を抑えられていた。
彼女の自慢だった桃色のドレスは乱れ、床に落ちた彼女の香水瓶が割れ、鼻を突くような安っぽい花の匂いと、恐怖による脂汗の臭いが混じり合っていた。
「嫌、嫌あぁ! 私は聖女よ! 特別な存在なのよ! こんな、こんな硬い鉄の手で触らないで……っ!」
騎士たちは、悲鳴を上げる二人を、まるで期限切れの書類でも片付けるかのように、淡々と連れ去っていった。
後に残されたのは、不純物が排除され、より一層輝きを増した銀色の『法典』と、かつてないほど清浄になった図書館の空気だけだった。
*
その頃。
王都から数千キロ離れた、サン・レオ諸島の一角。
アニエスは、最高級スパのプライベート・ヴィラで、至福のひとときを過ごしていた。
部屋には、ジャスミンとイランイランの精油が配合された、濃厚で甘美な香りが満ちている。
彼女の背中には、滑らかに磨き上げられた、温かな玄武岩が並べられていた。石から伝わるじんわりとした熱が、十年間こびりついていた肩こりと、執務室の冷えた空気の記憶を、深い場所から解きほぐしていく。
「あぁ……溶けてしまいそう……」
アニエスが溜息をつくと、セラピストの柔らかな手が、花の香りがするオイルを肌に馴染ませていく。
指先が滑るたびに、神経の末端までが多幸感で満たされる。
かつて、寝る間を惜しんで予算表と睨めっこしていた自分は、もう遠い前世の出来事のようだった。
その時。
枕元に置いてあった魔導端末が、短く、可愛らしい音で「ピコン」と鳴った。
アニエスは薄目を開け、面倒そうに画面を覗き込む。
そこには、一通の通知が表示されていた。
『検知:王宮内における大規模なバグの発生。
処置:該当バグ(第一王子および同行者一名)の隔離・排除を完了。
結果:システム負荷が15%軽減されました。国家運営の最適化が進んでいます。』
「あらあら……。あの王子様、ついに『有害事象』として処理されちゃったのね」
アニエスは、ふふ、と喉の奥で笑った。
彼女が去り際に仕掛けたのは、単なる防御魔法ではない。
「悪意をエネルギーに変換し、国をより良くする」という、究極のエコ・システムだったのだ。
王子が暴れれば暴れるほど、その魔力は没収され、国庫の足しになり、国の防衛力は上がる。
まさに、自給自足の「ざまぁ」である。
「……私の手を汚すまでもなく、自分で自分を掃除してくれるなんて。本当に、教育の甲斐があったわね」
彼女は端末を再び伏せ、深い呼吸と共に香りを吸い込んだ。
窓の外では、夕焼けに染まった海が、オレンジ色から深い紫色へとグラデーションを描いている。
波の音はどこまでも規則正しく、彼女が作った「制度」のように安定していた。
「……さて。バグも消えたことだし、この国の平和は向こう百年は揺るがないわね。……そろそろ、エステのコースをもう一週間分、追加しちゃおうかしら」
アニエスは心地よい熱に身を任せ、再び夢の世界へと足を踏み入れた。
本国からの叫び声など、彼女の耳にはもう、さざなみの音よりも小さく、価値のないものに過ぎなかった。
*
一方、王都。
王子が「バグ」として排除された後の王国は、驚くほど静かで、かつ活気に満ちていた。
王宮のバルコニーからは、かつてないほど美しい星空が見えた。
イグニスがいなくなったことで、無駄な夜会の灯りが消え、代わりに魔導エネルギーが街灯の維持へと回された結果、街の治安は劇的に向上したのだ。
騎士団長は、夜の静寂の中で、手元の『法典』の写しを見つめた。
そこには、アニエスが記した最後の一行が、月光に照らされて浮かび上がっていた。
『――制度とは、個人の情熱に頼るものではなく、万人が等しく幸福を享受するための器である。設計者が消えた時、その器が溢れることなく満たされ続けることこそが、私の勝利である。』
「……恐ろしい女性だ。あなたは、こうなることすら計算していたのですね」
騎士団長は、遠い南の空へ向けて、音のない敬礼を捧げた。
王宮から「権力」という名の不純物が消え、ただ「機能」という名の美しさだけが残った。
王国は、今日も、そして明日も、狂狂しいほどに安泰であった。




