第4話:休暇延長、王国の平和と共に
南国の朝は、光の礫で幕を開ける。
アニエス・ド・ラグランジュが目を覚ますと、そこには王宮の煤けた天井ではなく、高い天井でゆっくりと回るシーリングファンの影があった。
肌に触れるシーツは、エジプト綿の最高級品。太陽の光をたっぷりと吸い込んだ、清潔で乾いた香りが鼻をくすぐる。窓の外からは、プルメリアの花が放つ甘く濃厚な香気が、朝の湿った空気と共に流れ込んできた。
「……ああ、今日も天気がいいわ」
アニエスは贅沢に手足を伸ばした。かつて、夜明け前の暗闇の中で、冷えたインクを溶かして予算表と格闘していた自分を思い出すと、今の平穏がまるで宝石のように輝いて見える。
テラスに出ると、そこには視界を遮るもののない、完璧な水平線が横たわっていた。空の青と海の青が、細い白銀の線を境界にして溶け合っている。
波の音は、昨日と変わらず規則正しい。彼女がこの国で設計した「制度」と同じように、自然の理に従って、過不足なく繰り返されている。
サイドテーブルには、すでに現地の給仕が用意してくれた朝食が並んでいた。
キンキンに冷えたパイナップルとマンゴー。その鮮やかな黄色は、見るだけで食欲をそそる。フォークで一切れ口に運べば、弾けるような酸味と、喉を焼くような力強い甘みが広がった。
それを、冷たいシャンパンで流し込む。
まだ朝の八時。かつての彼女なら、閣僚会議の怒号の中で冷めたコーヒーを啜っていた時間だ。
「……さて。今日の仕事は……そうね、『砂浜の貝殻の種類を数える』くらいにしましょうか」
アニエスが微笑み、グラスを置いたその時だった。
波の音に混じって、場違いな、荒い呼吸音が近づいてくるのが聞こえた。
砂浜を、一人の男が走ってくる。
彼はこの島のゆったりとした空気には到底似合わない、重厚な革の旅装を纏っていた。マントの端には、ラグランジュ王国の国章――盾と天秤の刺繍――が刻まれている。
男はアニエスのヴィラの前まで来ると、膝をつき、肩で息をしながら叫んだ。
「アニエス様! アニエス・ド・ラグランジュ様! ようやく……ようやく見つけました……!」
アニエスは、グラスを持ったまま、困ったように眉を下げた。
使者が撒き散らす、焦り、疲れ、そして「義務」という名の重苦しい汗の臭いが、甘い南国の空気を汚している。
「……ご苦労様。そんなに急いで、砂を飲み込んでしまったのではないかしら? まずは冷たいお水でもいかが?」
「水など、後で結構です! これを……これを、新王陛下より預かってまいりました!」
使者が震える手で差し出したのは、深紅の封蝋で厳重に閉じられた親書だった。
封蝋には、王家の紋章。
イグニス王子が「バグ」として排除された後、急遽即位した第二王子――アニエスにとっては、かつて家庭教師として「帝王学と事務処理の基礎」を叩き込んだ、従順で賢明な教え子である。
アニエスは、指先でその手紙を受け取った。
羊皮紙からは、懐かしくも忌々しい、王宮特有の白檀の香りと、高級インクの匂いが漂ってくる。
「……彼、いえ、陛下は、何と?」
「お戻りください、と! 陛下は『アニエス姉様がいない王座は、針の筵だ。制度は確かに動いているが、それを見守る貴女の目がなければ、僕はいつかこの完璧な歯車に押し潰されてしまう』と、そう仰っております!」
使者の声には、必死の懇願が混じっていた。
アニエスは手紙の封を切り、中に記された文字に目を落とした。
新王の筆跡は、かつて彼女が指導した通り、一画の乱れもない正確なものだった。そこには、現在の王国の状況が克明に記されている。
イグニス派の残党は一掃され、アニエスが作った監査システムにより、腐敗は根絶された。経済は右肩上がりで、民衆の支持率は過去最高を記録している。
だが、その完璧な「平穏」を維持する責任の重さに、若き王は耐えかねているのだ。
『姉様。貴女が作ったこの国は、あまりにも美しく、そして残酷です。この完璧な機械を統べるには、僕ではまだ未熟すぎる。どうか、戻ってきて僕の手を引いてください』
アニエスは、ふっと息を吐いた。
一瞬、胸の中に「責任感」という名の古い感情が疼く。
自分が育てた王。自分が作った国。自分が戻れば、彼は救われ、国はより盤石になるだろう。
だが、彼女は視線を上げた。
目の前には、どこまでも続く水平線。
遮るもののない青。
そして、手元の魔導端末が、微かな振動と共に「平常運転」を知らせる青い光を放っている。
(……いいえ。あなたは、もう大丈夫なのよ)
アニエスは、手紙をゆっくりと畳んだ。
そして、使者を見つめ、静かに、しかし断固とした声で告げた。
「使者殿。陛下にこうお伝えください。『私は今、人生で最も重要なプロジェクトの最中であり、席を外すことは叶いません』と」
「……プロジェクト、ですか? それは一体……!」
「『幸福の最大化と、属人性の完全排除における実証実験』、です」
アニエスは、傍らの魔導端末を操作した。
画面に並ぶ無数のコマンドの中から、彼女が選んだのは「自動返信:休暇延長」のプロトコル。
彼女がエンターキーを押した瞬間、王都にある中央サーバーへ、光の速さでデータが送られていく。
そこには、新王への励ましのアドバイスと共に、いくつかの「緊急時自動対応マニュアル」のアップデートが添付されていた。
「これでもう、私が物理的に戻る必要はありません。陛下が迷った時は、法典の第百二十条を開くように。そこに、私が考えていた答えのすべてが書いてあります」
「し、しかし……! アニエス様がいらっしゃらなければ、陛下は……!」
「陛下は、もう一人で歩けます。……それよりも使者殿。貴方も、この島の風に当たっていきなさい。王宮の義務に縛られて、そんなに顔色が悪いままでは、せっかくの美しい制度も楽しめないわ」
アニエスは給仕を呼び、使者のためにカクテルを用意させた。
真っ赤なハイビスカスが添えられた、フルーティーな一杯。
使者は、呆然としたままそれを受け取り、アニエスの穏やかな――しかし、かつての「鉄の行政官」以上の揺るぎなさを秘めた眼差しに、ついに毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。
「……戻られないのですね。どうしても」
「ええ。私は今、自分の作った制度が、私なしでどこまで美しく回り続けるかを見届ける義務があるのです。……それが、設計者の最後の大仕事ですから」
使者が去っていく背中を見送りながら、アニエスは再びカバナのクッションに身を沈めた。
太陽はさらに高く登り、海面は砕けたダイヤモンドを撒き散らしたように煌めいている。
彼女は魔導端末を、そっと砂の上に置いた。
通知はもう来ない。
王国は安泰だ。
王は成長し、役人は規則に従い、民衆は腹を空かせることなく、明日の希望を語っている。
彼女がいなくても、すべてが回っている。
それこそが、彼女が十年の歳月と心血を注いで手に入れた、最高の「ざまぁ」であり、最高の「愛」だった。
「……ふふ」
アニエスは目を閉じ、波の音に意識を溶け込ませた。
風が運んでくるのは、もう古い書類の匂いではない。
自由の、そして未来の、どこまでも澄み渡った空気の匂い。
彼女の唇から、最後の一言が、甘い果実のようにこぼれ落ちた。
「……そうね。この分なら。……もう少し、休暇を伸ばしてもいいかもしれませんね」
アニエスの視線の先、水平線の彼方には、遮るもののない、黄金色の未来がどこまでも続いていた。
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