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第2話:愚行はすべてシステムが弾く


 南国、サン・レオ諸島。

 空は、目が痛くなるほどに突き抜けたコバルトブルーに染まっていた。

 水平線の彼方では、白波が幾重にも重なり、寄せては返す波音が、アニエスの鼓膜を優しく、そして規則正しく叩いている。


 アニエスは、白砂の上に設置されたカバナの影、贅沢なほど肉厚なクッションに身を預けていた。

 頬を撫でるのは、熱帯特有の湿り気を帯びつつも、海水の塩分を含んでキリリと引き締まった潮風だ。


「……ふう」


 彼女の指先が、細いストローを辿って、キンキンに冷えたクリスタルグラスに触れる。

 グラスの表面には、細かな水滴が真珠のようにびっしりと並んでいた。中身は、完熟したパパイヤとココナッツミルクを絶妙な比率でブレンドした、この島特産のフローズン・ドリンクだ。

 一口含めば、ねっとりとした甘みが舌の上でとろけ、その後にココナッツの香ばしい風味が鼻に抜ける。脳の芯まで凍りつくような冷たさが、十年間、王宮の暖炉の煤とインクの臭いにまみれていた彼女の神経を、一枚ずつ丁寧に剥がして洗っていくようだった。


「お味はいかがですか、お嬢様?」


 浅黒い肌に白い歯を輝かせた給仕の青年が、穏やかな笑みを浮かべて尋ねてくる。

 アニエスは、普段の「石像」のような無機質な表情を少しだけ緩め、頷いた。


「最高です。……ここは、本当に平和でいいですね。時計の音よりも、波の音の方が大きく聞こえるなんて」


「ハハッ、この島には急ぐ理由なんて一つもありませんから。太陽が昇れば起き、腹が減れば魚を突き、眠くなれば寝る。それだけです」


「……理想郷ですね。今の私には、何よりの薬です」


 アニエスは、傍らに置いた革の日記帳を開いた。

 それは彼女がこの旅の間に書き留めている、日々の記録――という体裁をとった、本国に残してきた『統治システム』の外部監視ログでもある。

 万が一、システムが物理的に破壊されそうになった場合、この日記に警告が届くようになっている。だが、今のところページは真っ白だ。それは、本国の「鉄の法」が、主不在のままでも完璧に侵入者を排除し続けていることを意味していた。


 アニエスは満足げに目を細めると、再び南国の太陽の下、深い微睡まどろみへと沈んでいった。


     *


 一方、王宮の廊下には、不穏な金属音と怒号が響き渡っていた。


 第一王子イグニスは、顔を茹で上がった蛸のように真っ赤にし、地下宝物庫の巨大な扉の前で地団駄を踏んでいた。

 湿った地下特有の黴臭さと、冷え切った石造りの壁の感触が、彼の神経を逆撫でにする。


「どけ! そこをどけと言っているんだ、この役立たずの鉄屑め!」


 イグニスの目の前には、身長三メートルはあろうかという、重厚な白銀の鎧を纏った魔導ゴーレムが立ちはだかっていた。

 かつてアニエスが私財と知識を投じて設計した、『自律型会計監査守護者オーディター・ガーディアン』である。


『――警告。第一王子イグニスの生体反応を確認。しかし、提示された「宝石購入用出金伝票」には、必須項目である「国家予算審議会による承認印」および「筆頭行政官アニエスの電子署名」が存在しません』


 ゴーレムの頭部にある水晶が、不吉な赤色に発光する。

 その声は、冷徹な金属音でありながら、どこかアニエスの冷静なトーンを想起させた。


「あんな女の署名など、この俺が、次期国王であるこの俺がいらんと言っているんだ! どけ、リリアに贈る『星の涙』の首飾りを取り出すのだ!」


「そうですわ! この私、聖女リリアが欲しいと言っているのですよ? これは聖なる活動に必要な経費ですわ!」


 リリアが、香水の匂いを振り撒きながらイグニスの腕にしがみつく。

 だが、ゴーレムは一歩も引かない。それどころか、巨大な鉄の手をゆっくりと掲げ、地面に突き立てた。


『――却下。当該要求は「王室私的流用禁止条項」に抵触します。これ以上の強行突破を図る場合、対象を「公金横領未遂犯」とみなし、物理的な鎮圧に移行します』


「な、なんだと……!? この俺を犯罪者扱いするか!」


 イグニスが剣を抜き、ゴーレムの装甲に斬りつけた。

 キン、という高い音が響き、火花が散る。だが、世界最高峰の耐魔法合金に、儀礼用の細い剣が通用するはずもなかった。

 逆に、ゴーレムから放たれた微弱な電撃が剣を伝わり、イグニスの腕を痺れさせる。


「ひ、ひっ……!」


 情けない声を上げて尻餅をつく王子。

 それを見ていた背後の役人たちは、助けようとするどころか、手元の羊皮紙の束をめくりながら、淡々とささやき合っていた。


「……やはり、アニエス様の遺した第百八条の通りですね。王族による宝物庫の私的解錠は、自動的に守備隊への通報案件となります」

「ええ。今の振動で、警備隊の宿舎にアラートが飛んだはずです。我々も規則に従い、王子の蛮行を記録しておきましょう」

「いやあ、以前ならアニエス様が徹夜で王子のわがままを宥めていましたが……システムが自動でやってくれると、我々は記録するだけでいい。なんて楽なんだ」


 役人たちの目は、王子への忠誠心ではなく、アニエスが作り上げた「完璧な規則システム」への深い信仰に輝いていた。

 彼らにとって、王子はもはや敬うべき対象ではなく、システムが正しく稼働しているかをチェックするための「テスト用バグ」に過ぎなかった。


「貴様ら! 何をボサッとしている! この木偶坊を壊せ! 命令だ!」


 イグニスが叫ぶが、中堅文官の一人が眼鏡をクイと押し上げ、冷静に返した。


「恐れながら殿下。我々の職務規定には『王族の命令が法典に抵触する場合、これを拒絶し、速やかに法務局へ報告しなければならない』という一文がございます。アニエス様が、徹底的に属人性を廃してくださったおかげで、我々は自分の身を守るために、殿下に従わない権利があるのです」


「……ぐ、ぬぬぬ……!」


 イグニスは屈辱に震えた。

 彼がどれほど権力を誇示しようとしても、アニエスの作った「紙の上、そして魔導回路の上の王国」は、彼を王としてではなく、ただの不純物として処理し続けていた。


     *


 その頃、王都の城下町は、かつてない活気に包まれていた。


 広場では、今年の大豊作を祝う祭りの準備が進んでいる。

 本来なら、行政官の交代や王子の婚約破棄といった政変があれば、市場は混乱し、物価は乱高下するものだ。

 しかし、今の王国は違った。


 市場の入り口には、アニエスが設置した『自動価格調整水晶』が鎮座している。

 これは近隣諸国の相場と国内の在庫状況をリアルタイムで魔導通信し、適正価格を算出して商人に提示するものだ。欲深い商人が不当に値を吊り上げようとすれば、即座に営業許可が停止される。


「いやあ、アニエス様がいなくなってから、ますます商売がやりやすくなったな」


 八百屋の主人が、真っ赤に熟したトマトを並べながら笑う。


「どういうことだい? あのお方は、厳しい方だったろう?」


「厳しいんじゃない、正確だったのさ。今までは、お役人に賄賂を掴ませなきゃ通らなかった書類も、今はあの中央のポストに入れるだけで、一晩で許可が下りる。あの地味な令嬢が『役人の機嫌を伺う時間なんて無駄』って言って、全部自動にしちまったからな」


「なるほどねえ。上がバカやってても、この国がビクともしないのは、あのお嬢さんが作った『線路』の上を、国っていう列車が走ってるからなんだな」


 民衆は、王宮で何が起きているかなど興味もなかった。

 ただ、生活が安定し、不当な搾取がなく、明日も今日と同じように平和に過ごせること。

 アニエスが心血を注いだのは、王族の機嫌取りではなく、こうした「見えない平穏」の維持だった。

 彼女がいなくなったことで、皮肉にもその「完成度の高さ」が浮き彫りになっていたのである。


     *


 太陽が水平線の向こうへ沈み、サン・レオ諸島は紫色の黄昏に包まれた。

 空には、宝石をぶちまけたような星々が瞬き始めている。


 アニエスはカバナから立ち上がり、軽く伸びをした。

 寝起きの身体に、涼やかな夜風が心地よい。

 手元の魔導端末が、短くチリンと鳴った。


『定期清掃及び、不正リクエストの処理完了。本日の王国・安定度:99.9%』


 画面に映し出された数値を見て、アニエスは満足げに、しかし少しだけ呆れたように息を吐いた。


「……相変わらず、可愛げのない完璧さね。私が現場で胃を痛めていた頃より、よっぽど効率的に動いているじゃない」


 彼女は日記帳を閉じ、波打ち際まで歩いた。

 サンダルを脱ぎ捨て、裸足で砂を踏み締める。昼間の熱を残した砂が、足の裏を柔らかく刺激する。


 遠く、王宮では今頃、イグニス王子が凍結された口座を前に発狂していることだろう。

 あるいは、聖女リリアが「こんなはずじゃなかった」と、贅沢品が買えない現実を呪っているかもしれない。


 だが、それはもう、アニエスの知ったことではない。

 彼女が作り上げた王国は、もはや彼女の手を離れ、一つの完成された生命体のように自走している。


「あんなに頑丈に作った覚えはないのだけれど……。まあ、いいわ」


 アニエスは夜の海を見つめ、独り言を漏らした。


「……予定では来週帰るつもりだったけれど。この分なら、もう一ヶ月、いえ……いっそ、もう数年くらい休暇を伸ばしてもいいかもしれませんね」


 彼女は、一度も王宮の方角を振り返ることなく、宿泊しているコテージへと向かった。

 明日の予定は、「何も予定を入れないこと」。

 それが、最強の行政官が手に入れた、何よりの報酬だった。


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