第1話:追放即有休、王国は通常運転
王宮の謁見の間は、不快なほどに白檀の香煙が立ち込めていた。
高く尖った天井に反響するのは、第一王子イグニスの、金属をヤスリで削ったような甲高い声だ。
「――よって、アニエス・ド・ラグランジュ。貴様との婚約を破棄し、筆頭行政官の職を解く! この国に、貴様のような無機質な石像は必要ない!」
アニエスは、磨き上げられた大理石の床に視線を落としていた。
視界の端で、王子の隣に寄り添う「聖女」リリアが、勝ち誇ったように桃色の唇を歪めるのが見える。彼女からは、むせ返るような薔薇の香水の匂いが漂ってきた。それはアニエスが愛用する、古びた羊皮紙と微かなインクの匂いとは対極にある、贅沢と虚飾の香りだった。
「……承知いたしました」
アニエスの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
感情を殺しているのではない。あまりの幸福感に、表情筋がどう動けばいいのか忘れてしまっただけだ。
脳内では、かつて自分が設計した「王宮勤務規定・第十四条(不当解雇時の補償)」の条文が、金色の文字となって踊っている。
(……これで、十年間溜まりに溜まった有給休暇と、未消化の特別休暇、あわせて二千四百日分が『永久休暇』に変換される。完璧だわ)
「おい、聞いているのか! この無能が!」
イグニスが苛立ちを隠さず、重厚な絨毯を革靴で踏みつける。ドサリ、という鈍い音が広間に響いた。
アニエスはゆっくりと顔を上げた。縁の細い眼鏡の奥で、灰色の瞳が淡い光を反射する。
「はい。殿下。一つ確認させていただきたいのですが。……私は今この瞬間をもって、二度とこの王宮、ひいては本国に戻らなくて良いのですね?」
「当然だ! 貴様の地味な顔を見るだけで吐き気がする。明日からは聖女リリアが、愛と慈悲をもって行政を行う。貴様がちまちまと書き溜めていた、あの忌々しい分厚い書類も、すべて燃やしてしまいたいぐらいだ!」
アニエスの背後に控えていた文官たちが、一斉に顔を青くし、震え上がった。
実際に実務を担当する彼らは知っている。アニエスが「ちまちま書き溜めていた」ものこそが、この王国の血液を循環させる心臓部そのものであることを。
だが、アニエスはただ、淑女の礼を完璧にこなした。
「左様でございますか。では、引き継ぎとしてこちらを置いていきます。私の十年の仕事の、すべてでございます」
アニエスが差し出したのは、たった一冊の革装本だった。
タイトルはない。ただ、銀の留め具が鈍く光っている。
イグニスはそれを「フン」と鼻で笑い、受け取りもせずに足蹴にした。
「紙の束一冊か。貴様の十年の価値など、その程度ということだな」
「ええ。その本が『正しく』そこにある限り、王国は安泰でございましょう」
アニエスは翻った。
重い扉が開くと、外からは乾いた初夏の風が吹き込んできた。
埃っぽい執務室の匂いではない。潮騒の香りと、熟した果実の甘い予感。
王宮を出る足取りは軽い。
門をくぐる際、アニエスは一度だけ振り返り、懐中時計を見た。
午後三時。彼女が毎日、定時退勤の準備を始める時間だ。
「さようなら、私の愛したシステム。……あなたたちなら、きっと大丈夫」
門の外には、すでに一台の馬車が待機していた。
御者はアニエスが個人的に雇った、口の堅い男だ。馬車の中には、最低限の着替えと、一冊の旅のガイドブック。
彼女が馬車に乗り込むと同時に、遠く王宮の奥深くから――
――キン、という、高い金属音が響いた。
それは、アニエスが仕組んだ『魔導監査機構』が、権限のない者の不正なアクセスを検知した際の、最初の警告音だった。
*
「……なんだ、この音は?」
謁見の間で、イグニスが耳を塞ぎながら唸った。
アニエスが置いていった革装本が、淡い青色の光を放っている。
リリアが不気味そうにそれを見つめ、甘ったるい声を出した。
「イグニス様、きっとその本が、アニエス様の呪いを吐いているんですわ。早く私に、新しいドレスの予算を承認させてくださいな。アニエス様がいなくなったお祝いをしましょう?」
「ああ、そうだな。あんな女が握っていた印章など、もう必要ない。俺がサインをすれば、すべては思い通りだ」
イグニスは、王室専用の魔導ペンを取り出し、リリアが差し出した「特別予算申請書(宝石購入費)」の末尾に、乱暴な筆致で署名した。
その瞬間。
王宮の空気が、凍りついたように静止した。
書き込まれた署名のインクが、じわりと赤く変色していく。
そして、天井の四隅に設置された魔導水晶が、真っ赤な光を放ちながら回転を始めた。
『――警告。予算項目:外交接待費の流用を検知。申請者の権限:不足。財務規程第百二条に基づき、当該申請を自動却下。並びに、申請者の個人資産を一時凍結します』
無機質な、しかしアニエスの声によく似た魔法音声が、広間に響き渡る。
「なっ……なんだと!? 俺の、俺の口座を凍結だと!? 俺は王子だぞ! この国の主だぞ!」
イグニスが叫び、革装本を掴んで床に叩きつけようとした。
しかし、本は物理法則を無視して空中に固定され、ビクともしない。
それどころか、本から伸びた細い光の糸が、王宮の書記官たちの手元にある書類へと次々に繋がっていく。
「殿下……、申し上げにくいのですが」
一人の若き文官が、震える声で報告した。
「アニエス様が構築された『全自動統治システム』は、王族の署名よりも、あの中にある『法典』の論理を優先するように設計されています。……つまり、制度が殿下を『不正アクセス者』と認識してしまったようです」
「ふざけるな! そんなもの、今すぐ書き換えろ!」
「それが……書き換えマニュアルの第一ページには、『変更には筆頭行政官アニエスの生体認証が必要である』と……」
イグニスの顔が、怒りと困惑で真っ赤に染まっていく。
その横で、聖女リリアは、先ほどまでの薔薇の香りが嘘のように、冷や汗の酸っぱい臭いを撒き散らしていた。
*
同じ頃。
国境へ向かう馬車の窓から、アニエスは遠ざかる王都を眺めていた。
彼女の指先には、小さな魔導端末が握られている。
画面には、王宮のシステムが正常に動作し、不純物を排除したことを知らせるチェックマークが、小気味よく点滅していた。
「ふふ……」
アニエスは眼鏡を外し、瞳を閉じた。
風が運んでくるのは、もう王宮の煤けた匂いではない。
これから向かう、南の島のココナッツと、太陽に焼かれた砂の匂いだ。
「頑張ってね、システムくん。あなたが優秀すぎて、私はもう、当分呼び出されることはなさそうよ」
アニエスは、座席に深く身を沈めた。
彼女の唇からこぼれたのは、十年分の重圧から解き放たれた、至福の吐息だった。




