第二話 正義という名の言い訳
雨宮湊は、復讐がしたかった。
誰に、と聞かれれば困る。名前を挙げようと思えば何人だって挙げられたし、顔を思い浮かべるだけで胸の奥がざらつく相手もいた。
勉強ができるやつ。
何をやらせても器用なやつ。
人の輪の中心にいるやつ。
自分では大して努力していないように見えるのに、周囲から愛されているやつ。
僕が欲しかったものを、当たり前のように持っている人間たち。
彼らが何かを手に入れるたび、僕は自分の持っていないものを数えた。
彼らが褒められるたび、僕は自分が褒められなかった理由を探した。
そして、ときどき思った。
一度くらい、失敗すればいいのに。
そう思うこと自体は、難しくなかった。
むしろ、あまりにも簡単だった。
誰かの成功を見て心から喜べる人間になりたかった。誰かの才能を素直に認めて、すごいね、と笑える人間になりたかった。
実際、そうできる瞬間もあった。
友達が難しい問題を解いたとき、試合で見事なプレーを決めたとき、努力が実って目標を達成したとき。僕は確かに嬉しかった。自分のことのように喜んだことだってある。
なのに、その喜びのすぐ隣に、別の感情が立っていた。
どうして、あいつなんだろう。
どうして、僕じゃないんだろう。
おめでとう、と言いながら、心のどこかで相手の失敗を願っている。
そんな自分に気づくたび、僕は自分自身が嫌になった。
けれど、嫌いになったところで、その感情が消えてくれるわけではなかった。
だから、僕は考えた。
復讐しよう、と。
もちろん、漫画や小説に出てくるような大げさなものではない。相手を殴るとか、秘密を暴くとか、人生を台無しにするとか。そういうことをしたいわけではなかった。
少なくとも、僕はそう思っていた。
僕がしたかったのは、もっと単純で、もっと身勝手なことだった。
いつか、見返してやりたい。
僕を見下した人間に、自分が間違っていたと認めさせたい。僕より優れていると思っていた人間に、僕だってここまで来られるのだと証明したい。
そして、できることなら。
僕を羨ましいと思わせたい。
あいつはすごい。あいつには敵わない。どうしてあいつばかり。
そんな言葉を、今度は僕に向けてほしかった。
そうすれば、僕が今まで味わってきた感情を、少しは理解してもらえる気がした。
馬鹿げている。
自分でも分かっていた。
相手が僕を羨ましがったところで、過去が変わるわけではない。昔言われた言葉が消えるわけでもなければ、奪われた自信が戻ってくるわけでもない。
それでも、僕はその未来を想像した。
想像するだけなら、誰にも迷惑をかけないからだ。
ただし、ひとつだけ譲れない条件があった。
正攻法で勝つこと。
相手の足を引っ張るのは違う。陰口を広めるのも、失敗するように仕向けるのも、相手の大切なものを奪うのも違う。
そんなことをして勝ったとして、いったい何になるのだろう。
僕は相手を見返したいのであって、相手を貶めたいわけではない。
いや、本当にそうなのだろうか。
自分の中にある醜い感情を、正義という言葉で覆い隠しているだけではないのか。
相手を傷つけたいと思ったことがない、と言えば嘘になる。
自分を傷つけた人間が同じように傷つけばいいと思ったこともある。自分が悔しい思いをしたとき、相手にも同じ悔しさを味わわせてやりたいと思ったこともある。
それでも、実際に何かをしようとすると、僕の中の何かが止めた。
それは優しさだったのかもしれない。
臆病だっただけかもしれない。
あるいは、自分が悪者になることに耐えられなかっただけなのかもしれない。
僕には分からなかった。
分からなかったけれど、ひとつだけ決めていた。
やるなら、正々堂々と。
勉強で勝つ。スポーツで勝つ。作品をつくって勝つ。自分の力で何かを成し遂げて、相手が無視できない場所まで行く。
そうして初めて、僕は相手の前に立てるのだと思っていた。
だから、待つことにした。
いつか、自分が本気で勝負できる日を。
いつか、自分の力で誰かを見返せる日を。
今はまだ、そのときではない。
今はまだ、準備が足りない。
今はまだ、僕には何もない。
そうやって、何度も自分に言い聞かせた。
子供じみた考えだということくらい、分かっていた。
他人を見返すために生きるなんて、あまりにも虚しい。誰かに勝つことを目標にしている限り、僕の人生はいつまでも、その誰かを中心に回り続ける。
本当に自分の人生を生きたいのなら、そんなものは捨てるべきなのだろう。
誰かが成功しても、自分の価値が下がるわけではない。
誰かが優れていても、自分が劣っているとは限らない。
頭では理解できた。
理解できたからといって、心まで納得してくれるわけではなかった。
僕は物語を書いた。
才能のある主人公をつくった。誰からも認められない少年をつくった。挫折する人間も、成功する人間も、誰かを羨みながら笑う人間もつくった。
彼らを戦わせた。
努力で才能を超える者がいた。才能があっても何かを失う者がいた。誰にも認められなかった人間が、最後には誰かの人生を変えることもあった。
物語の中なら、決着をつけられた。
勝者と敗者を決められた。
敗れた人間にも意味を与えられた。
現実では、そうはいかなかった。
誰かに勝ったところで、その人間が僕を認めてくれるとは限らない。認められたところで、僕が満足するとも限らない。
そもそも、僕は本当に勝ちたかったのだろうか。
それとも、誰かに認めてほしかっただけなのだろうか。
あるいは、自分が誰かを羨んでいることを、誰かに分かってほしかっただけなのだろうか。
答えは出なかった。
それでも、僕は待ち続けた。
いつか、いつかと。
いつか自分が十分に強くなったら。
いつか自分の才能を見つけられたら。
いつか誰かに胸を張れるようになったら。
そのときは、もう誰かを羨ましいと思わずに済むのかもしれない。
そんな淡い期待も、確かにあった。
けれど、結局。
僕は復讐をしなかった。
少なくとも、僕が生きていたあいだには。
誰かを見返すために努力したことはあった。誰かに勝ちたいと思って、必死になったこともあった。負けて悔しくて、眠れない夜もあった。
でも、僕は最後まで、あのとき思い描いたような復讐を果たせなかった。
正々堂々と勝って、相手に自分を認めさせる。
その機会を、ずっと待っていた。
待っているうちに、時間は過ぎた。
待っていることを、いつの間にか生きる理由のひとつにしていた。
そして、僕は死んだ。
少なくとも、あの世界では。
目を覚ます直前、僕は誰かの声を聞いた気がした。
それが誰の声だったのか、今となっては分からない。
ただ、ひどく静かな声だった。
――君は、誰に勝ちたかったんだ?
答えようとした。
けれど、口が動かなかった。
そもそも、僕はその問いに答えられたのだろうか。
僕が勝ちたかった相手は、僕を傷つけた人間だったのか。
僕より優れている人間だったのか。
それとも、誰かを羨んでばかりいる、自分自身だったのか。
考えようとした瞬間、意識が途切れた。
次に目を開けたとき、僕の知らない天井があった。
木の梁。見慣れない布。窓の向こうに広がる、見たことのない景色。
そして、僕を覗き込む、見知らぬ人々。
「……イグニス?」
誰かが僕の名前を呼んだ。
違う。
僕は雨宮湊だ。
そう言おうとした。
けれど、その名前を口にするより先に、僕の中から別の記憶が溢れ出した。
知らないはずの家の匂い。
知らないはずの人の笑顔。
知らないはずの少年が過ごしてきた、何年もの時間。
僕はそのすべてを知っていた。
そして、その少年の名前も。
イグニス・ホリーバーグ。
それが、今の僕の名前だった。




