第一話 僕が物語を書く理由
自分のことを、どれくらい理解しているだろうか。
好きなもの。嫌いなもの。譲れない信念。忘れたい記憶。
それらを一つずつ挙げていけば、少なくとも自分がどんな人間なのか、説明できるような気がする。
けれど、本当にそうだろうか。
誰かを羨ましいと思う自分と、その人の成功を心から喜ぶ自分。正しいことをしたつもりなのに、誰かを傷つけていた自分。忘れたはずの出来事に、今も心を動かされている自分。
どれも、確かに自分の中にいる。
では、そのうちのどれが本当の自分なのだろう。
僕は、物語を書くことで、その答えを探そうとしていた。
現実ではうまくできないことも、物語の中ならできた。思いどおりの世界をつくり、登場人物に言葉を与え、彼らがなぜ笑い、なぜ傷つき、なぜ誰かを裏切るのかを決めることができた。
少なくとも、そう思っていた。
けれど、ある物語を最後まで書くことができなかった。
世界の中心には、巨大な樹があった。
人々はその樹と触れ合うことで、不思議な力を得る。
その力を管理する教会があり、いくつもの国があり、僕が考えた人物たちが生きていた。
僕はその世界をつくった。
そして、完成させることを諦めた。
もし、捨てたはずの物語の中で目を覚ましたら。
もし、そこにいる人々が、僕の知らない理由で笑い、怒り、誰かを愛していたら。
もし、自分が書いたはずの世界で、自分の考えた筋書きが何一つ通用しなかったら。
僕は彼らを理解できるだろうか。
それとも、理解したつもりになっているだけなのだろうか。
これは、物語を書くことを諦めた少年が、かつて自分のつくった世界で生き直す物語だ。
新しい身体。新しい家族。新しい名前。
そこには、僕の知らないはずの記憶があり、僕を愛している人たちがいた。
彼らにとって、僕は確かにその人だった。
けれど、僕にとっての僕は、いったい誰なのだろう。
過去を捨てて生きることはできるのか。
誰かの記憶を持てば、その人になれるのか。
そして、自分自身さえ完全には理解できない僕たちは、他人をどこまで理解できるのだろう。
答えは、まだない。
これは、僕が捨てた物語の続きを生きる話だ。
ただし、今度は僕が作者とは限らない。
誰かを羨ましいと思うたびに、僕はそいつを主人公にした物語を書いた。
正確に言えば、そいつに似た人間を作った。
名前を変えて、顔を変えて、育った環境を少しだけ変える。そうすれば、そいつが何を考えているのか、どうして自分にはできないことができるのか、少しは分かる気がした。
もちろん、分かった気がしただけだった。
それでも、書いている間だけは、相手を羨ましいと思わずに済んだ。
僕はそいつを主人公にして、そいつの人生を考えた。そいつが努力するところを書いた。失敗するところも書いた。誰にも理解されず、ひとりで泣くところも書いた。
そうしているうちに、僕はそいつのことを、少しだけ好きになれた。
現実では、そう簡単にはいかなかった。
小学校に入学したばかりの頃、僕は自分が正しい人間だと思っていた。
別に、毎日そんなことを考えていたわけではない。もっと自然な感覚だった。自分が正しいと思うことを口にして、間違っていると思う相手を注意する。それだけのことだった。
僕には、相手がどう感じるかという発想が、なかったわけではない。
ただ、自分の言っていることが正しいのなら、多少傷つけても仕方がないと思っていたのだと思う。
今になって考えれば、それは正しさというより、自分の考えを疑わずに済ませるための便利な言葉だった。
僕は人をいじった。
いじられることもあった。
その二つが、僕の中でどう違っていたのか、今でもうまく説明できない。自分が言うときには冗談で、相手が言うときには悪意がある。そんなふうに、都合よく区別していたこともあったのだろう。
小学一年生の最初の授業で、僕は誰かを傷つけていたらしい。
らしい、というのは、そのときの僕に、傷つけたという自覚がなかったからだ。
後になって、その出来事について知った。
僕は、自分が何を言ったのかを思い出そうとした。教室の様子も、机の並びも、先生の顔も、いくらかは思い浮かんだ。
けれど、肝心の言葉が出てこなかった。
相手がどんな顔をしていたのかも、分からなかった。
もしかしたら、相手は本当に傷ついていたのかもしれない。あるいは、僕が覚えている以上に些細な出来事だったのかもしれない。
僕には確かめようがなかった。
ただ、僕の記憶に残っていないからといって、相手の記憶からも消えているとは限らない。
そのことが、ずっと不思議だった。
同じ場所にいて、同じ時間を過ごしていたはずなのに、僕と相手では、まったく違う出来事として記憶されていることがある。
僕にとっては何でもなかった一言が、誰かにとっては忘れられない言葉になっている。
反対に、僕が傷ついた出来事を、相手はもう覚えていないかもしれない。
それでも、子供の頃の僕は、そんなことを深く考えなかった。
自分が正しいと思う限り、自分を疑う必要はなかったからだ。
中学生になる頃には、僕には一つの自信があった。
勉強ができる。
少なくとも、僕はそう思っていた。
知らないことを知るのが好きだった。気になったことがあれば、納得できるまで調べた。授業で疑問が浮かべば先生に質問した。ひとつのことを知ると、その先にある別の疑問が気になった。
勉強は、僕にとって苦痛ではなかった。
むしろ、楽しかった。
自分には才能があるのだと思っていた。
その自信は、何の根拠もないものではなかったのだろう。少なくとも、僕には得意なことがあり、それを自分で感じられるだけの経験があった。
けれど、中学校生活の終わりが近づくにつれて、周囲の様子が変わっていった。
受験勉強を始める人が増えた。
苦手な科目にも時間をかけ、毎日少しずつ問題を解く。僕が興味のある分野を深く掘り下げている間にも、周囲の人間は、入試に必要な勉強を着実に進めていた。
僕は得意なことに時間を使った。
興味のないことを後回しにした。
それで成績が落ちていった。
最初は、たいした問題ではないと思っていた。僕には得意な分野がある。分からないことを理解する力もある。必要になれば、そのうち勉強すればいい。
そんなふうに考えていた。
しかし、必要になってからでは遅いこともある。
僕が自信を持っていたものは、僕が思っていたほど万能ではなかった。
その事実を認めるのは、思った以上に難しかった。
僕より勉強ができる人間がいた。
H君だった。
H君は、僕が自信を持っていた場所に、僕より自然に立っているように見えた。
僕が時間をかけて理解することを、彼は理解していた。僕が得意だと思っていたことでも、彼にはかなわない部分があった。
それだけなら、僕も彼を尊敬できたのかもしれない。
けれど、僕たちの関係は、そんなに単純ではなかった。
彼から人格を否定するようなことを言われた記憶がある。物を盗まれた記憶もある。
その出来事を思い出すと、今でも嫌な気持ちになる。
僕は彼を許せないと思うことがある。
同時に、彼の勉強の才能を認めていた。
認めたくなかった、と言ったほうが正確なのかもしれない。
人間は、嫌いな相手の優れた部分まで嫌いになれるのだろうか。
僕にはできなかった。
彼が僕を傷つけたことと、彼が勉強のできる人間だったことは、別の事実だった。
頭では分かっていた。
それでも、彼を見るたびに、僕は自分の価値を測られているような気がした。
僕よりできる人間がいる。
そのこと自体が、どうしてこんなにも嫌なのだろう。
勉強は、誰かに勝つためだけのものではなかったはずだ。知らないことを知るのが楽しかった。分からないことが分かるようになるのが嬉しかった。
なのに、いつの間にか僕は、誰かと比べていた。
自分がどれだけ知っているかではなく、誰より知っているか。
自分がどれだけ成長したかではなく、誰に勝っているか。
そんなことを気にしている自分が、嫌だった。
嫌だったのに、やめられなかった。
高校では、バレーボールをしていた。
楽しかった。
これは、嘘ではない。
ボールがきれいに上がったとき。自分の打ったスパイクが決まったとき。仲間と声を掛け合い、一本のボールをつなげたとき。
僕は、純粋に嬉しかった。
練習が終わった後、疲れた身体で笑い合う時間も好きだった。何かを一緒にやるということには、ひとりで考えているだけでは得られない楽しさがあった。
それなのに、僕はときどき、周りの人間が羨ましくなった。
自分より上手な人がいた。
僕にはできないプレーを、当たり前のようにやってのける人がいた。
努力している姿を見れば、尊敬できた。自分にはないものを持っている人間と一緒にプレーできることを、嬉しく思うこともあった。
それでも、胸の奥に、別の感情が生まれることがあった。
どうして、あいつにはできるのだろう。
どうして、自分にはできないのだろう。
自分だって練習している。自分だって、この競技を楽しんでいる。
それなのに。
その先を考えるのが、嫌だった。
相手の失敗を願っている自分に気づくことがあった。自分より下手になればいいと、ほんの一瞬でも思ってしまうことがあった。
もちろん、そんなことを本気で望んでいるわけではない。
そう言い切りたかった。
相手が上手くなれば、チームが強くなる。自分も学べる。頭では分かっていた。
実際、相手の成功を喜んでいた瞬間もあった。
けれど、喜びながら、悔しさも感じていた。
僕の中では、相反する感情が、何の矛盾もなく同時に存在していた。
バレーボールが好きだった。
仲間と一緒にプレーすることも好きだった。
それでも、他人を羨んだ。
そのどれかが嘘だったのだろうか。
違うのだと思う。
全部、本当だった。
ただ、僕は自分の中にある感情を、ひとつずつきれいに整理できなかった。
誰かを好きなら、その人の成功を心から喜べるはずだ。
努力している人間を尊敬するなら、その人を羨ましいと思うべきではない。
自分が楽しんでいるのなら、他人と比較する必要などない。
そんなふうに、僕は自分の感情に正解を求めていた。
正解が見つからないと、自分のどこかがおかしいのだと思った。
小学生の頃、僕は自分が正しい人間だと思っていた。
高校生になった僕は、自分の感情すら正しく扱えない人間になっていた。
あるいは、昔からそうだったのに、ようやく気づいただけなのかもしれない。
小説を書くようになったのは、いつからだっただろう。
きっかけを、ひとつに絞ることはできない。
何かを考えるのが好きだった。知らない世界を想像するのも好きだった。現実ではうまく説明できないことも、物語の中なら、いくらでも考え続けることができた。
僕は、バレーボールで活躍する人物を書いた。
自分より才能のある人間を書いた。
何をやっても上手くいく人間を書いた。
反対に、才能があるのに認められない人間も書いた。
努力しても届かない人間も、他人を羨んでしまう人間も書いた。
登場人物たちは、僕の中にあった感情を持っていた。
ただし、僕自身だとは思いたくなかった。
彼らは僕より勇敢だった。僕より素直だった。自分の感情を認めることができた。
そういう人間にしたかった。
羨ましいと思った相手を主人公にするとき、僕はそいつの弱さも考えた。
才能のある人間にも、失敗がある。
周囲から評価されている人間にも、誰にも言えない悩みがある。
そう考えることで、僕は少しだけ楽になれた。
自分が持っていないものを持っている相手にも、僕と同じように、簡単には整理できない感情があるのかもしれない。
そう思いたかった。
もしかすると、僕は他人を理解しようとしていたのではなく、他人を自分と同じ人間にしたかっただけなのかもしれない。
そうすれば、相手を羨む理由がなくなるからだ。
けれど、書いている間だけは、そんなことを考えずに済んだ。
僕は物語の中で、登場人物たちに選択をさせた。
誰かを許すことも、許さないこともできた。
才能のある人間を尊敬することも、憎むこともできた。
自分の弱さを認めることも、最後まで認めないこともできた。
現実の僕には難しかったことが、物語の中では、少なくとも選択肢として存在していた。
だから、書き続けた。
ある晩、僕はひとつの小説を書き終えようとしていた。
異世界を舞台にした物語だった。
世界の中心には、巨大な樹がそびえている。
人々はその樹をユグドラシルと呼び、樹から流れる力を使って魔法を扱っていた。
教会があり、国があり、歴史があった。
僕は設定を考えるのが好きだった。
この国はどうして生まれたのか。人々はなぜ魔法を信じるのか。教会は何を守り、何を隠しているのか。
いくらでも考えられた。
けれど、登場人物たちの行動を決めることは、思ったより難しかった。
ある人物が、別の人物を裏切る。
僕は、その理由を考えた。
裏切った側にも事情があったことにした。裏切られた側にも、知らなかった過去があることにした。
それでも、納得できなかった。
何を書いても、僕が納得するために作った理由に見えた。
人間は、そんなに都合よく説明できるものなのだろうか。
僕は考え続けた。
考えれば考えるほど、物語は進まなくなった。
やがて、僕はファイルを閉じた。
没にしようと思った。
世界の設定も、登場人物も、気に入っていた。いつか続きを書くかもしれない。そう思いながら、ファイル名の先頭に「没」と付けた。
それだけで、少し気持ちが軽くなった。
完成させられなかったことを、失敗だと思わずに済む気がした。
僕はパソコンの画面を消した。
暗くなった画面に、自分の顔がぼんやり映っていた。
その顔を見て、ふと思った。
僕は、自分のことなら説明できるのだろうか。
なぜ他人を羨ましいと思うのか。
なぜ、好きなものを楽しんでいる最中にも、他人と比較してしまうのか。
なぜ、自分が正しいと思っていた頃のことを、今では恥ずかしく感じるのか。
なぜ、小説を書いているときだけ、少しだけ自分を許せるのか。
答えは出なかった。
出なかったけれど、僕はそれ以上考えないことにした。
明日も学校がある。
部活もある。
やるべきことは、いくらでもあった。
僕はベッドに入り、目を閉じた。
眠る直前、なぜか、没にした小説のことを思い出した。
ユグドラシル。
教会。
僕が最後まで書けなかった少年。
あの少年は、物語の中で何をしたかったのだろう。
僕は、彼の気持ちを理解できていなかった。
だから、物語を終わらせられなかった。
そのはずだった。
なのに。
本当に、そうだっただろうか。
暗闇の中で、誰かが僕に問いかけた気がした。
僕は目を開けた。
部屋は静かだった。
スマートフォンの画面には、見慣れた時刻が表示されている。
窓の外から、車の走る音が聞こえた。
いつもの夜だった。
僕はもう一度、目を閉じた。
翌朝になれば、きっと何もかも元に戻っている。
そう思った。
そのときの僕は、まだ知らなかった。
自分が捨てた物語の中に、これから生きることになるなんて。
そして、自分が書いたはずの世界でさえ、自分の思いどおりにはならないということを。




