第三話 僕は、僕をやり直す
まず、死んだ理由を考えることにした。
目を覚ましたとき、僕は確かに自分が死んだのだと思った。
いや、正確には、死んだという確信があったわけではない。ただ、ここが自分の知っている世界ではないことと、自分が以前の自分ではないことだけは、疑いようがなかった。
窓の外には、見知らぬ街並みが広がっている。
石造りの建物。見慣れない意匠の旗。遠くにそびえる、空を覆い隠すような巨大な樹。
あれがユグドラシルなのだろうか。
僕は、その光景を知っていた。
知っているはずがないのに。
「……落ち着け」
声に出してみた。
自分の声ではなかった。
少し低く、まだ幼さの残る声。手を持ち上げると、目の前に現れたのは、僕が何度も想像した少年の手だった。
イグニス・ホリーバーグ。
僕が書いて、途中で捨てた物語の登場人物。
そのはずだった。
僕はベッドから起き上がり、部屋を見回した。
木製の机。壁際の本棚。窓辺に置かれた小さな花瓶。整えられた寝具。どれも、僕のいた世界にはないものばかりだった。
それなのに、奇妙なことに、何がどこにあるのか分かった。
机の右側に引き出しが三つある。一番上には筆記具。二番目には手紙。三番目には、普段使わない小物が入っている。
そう知っていた。
確かめると、そのとおりだった。
僕はしばらく、引き出しを開けたり閉めたりした。
馬鹿みたいな行為だと思う。
けれど、そうでもしなければ、自分が何を知っていて、何を知らないのか、区別できそうになかった。
机の上には一冊の手帳があった。
表紙には、見慣れない文字が並んでいる。
なのに、読めた。
僕は手帳を開いた。
日付。予定。誰かの名前。授業の記録。
そこに書かれていたのは、イグニスの生活だった。
僕が書いた設定ではない。
僕が書いた物語の中で、イグニスは確かに存在していた。けれど、彼の日常をここまで細かく決めた覚えはなかった。
彼は朝起きて、食事をして、勉強をして、誰かと話して、夜になれば眠っていたらしい。
当たり前のことだ。
けれど、その当たり前を、僕は書いていなかった。
僕は登場人物を物語の中で動かしていたつもりだった。
しかし、彼らが物語の外で何をしているのか、何を考えているのか、どんな気持ちで朝を迎えているのか、そんなことを考えたことはほとんどなかった。
必要な場面に登場させ、必要な台詞を喋らせ、必要な役割を終えたら、次の場面へ進ませる。
それが、僕の書き方だった。
今、僕はその登場人物の部屋にいる。
彼の使っていた机に触れ、彼の手帳を読み、彼の記憶を頼りに部屋の中を歩いている。
彼が物語の外で生きていたという事実を、僕は認めるしかなかった。
いや。
そもそも、ここは本当に僕の書いた世界なのだろうか。
僕が知っている設定と、目の前の現実は、どこまで一致しているのだろう。
考え始めると、きりがなかった。
だから、いったん考える順番を決めた。
まずは、自分のこと。
次に、イグニスのこと。
それから、この世界のこと。
僕は手帳を閉じ、目をつむった。
雨宮湊。
日本に生まれた、高校生。
物語を書くことが好きだった。
他人を羨んでいた。
誰かを見返したかった。
そして、死んだ。
そこまでは覚えている。
問題は、その最後だった。
僕は、どうやって死んだのだろう。
交通事故か。
病気か。
あるいは、何か別の理由か。
どれだけ記憶を探っても、最後の瞬間だけが見つからなかった。
死ぬ直前の出来事が、霧の向こうに隠されているようだった。
思い出せないのか。
それとも、そもそも覚えていないのか。
僕には判断できなかった。
ただ、ひとつだけ分かることがある。
僕は、死ぬまで復讐を果たせなかった。
誰かに勝ちたかった。
自分の価値を証明したかった。
そうして生きてきたのに、最後まで決着をつけられなかった。
僕は死んだ。
それだけだ。
悔しいかと聞かれれば、悔しかった。
もっと生きたかったかと聞かれれば、そう思う。
まだ書きたい物語があった。
まだ知りたいことがあった。
まだ、やっていないことがあった。
それなのに、僕の人生は終わった。
少なくとも、僕が知っていた人生は。
「……馬鹿みたいだな」
自分に向かって呟いた。
誰かに勝つために生きて、勝てないまま死んだ。
そんな人生を、もう一度やり直せるのだとしたら。
今度こそ、何かを変えられるのだろうか。
答えは出なかった。
僕は目を開けた。
そして、次の問題に取りかかった。
イグニス・ホリーバーグ。
彼の記憶は、僕の頭の中にあった。
けれど、それは僕の記憶とは違っていた。
たとえば、母親の顔。
僕はその顔を知らない。
知らないはずなのに、思い浮かべることができた。
声も、笑い方も、怒ったときに眉を寄せる癖も。
彼女がイグニスの名前を呼ぶときの響きまで、僕は知っていた。
父親も同じだった。
家族で食事をした記憶。叱られた記憶。褒められた記憶。
幼いころ、転んで膝を擦りむいたこと。
初めて文字を覚えたこと。
うまくできなかったことが、次の日にはできるようになったこと。
それらはすべて、イグニスの記憶だった。
けれど、僕の中では、僕自身が経験したことのように感じられた。
懐かしい。
そう思った。
その感情に気づいた瞬間、僕は息を止めた。
懐かしい?
僕はこの家に住んだことなどない。
この家族に育てられたこともない。
なのに、どうして懐かしいと思うのだろう。
僕はベッドの端に座り直した。
イグニスの記憶を、自分の記憶から切り離そうとした。
これはイグニスの記憶。
これは雨宮湊の記憶。
僕はそう分類した。
しかし、簡単にはいかなかった。
母親の顔を思い浮かべれば、そこに愛情を感じる自分がいる。
父親との会話を思い出せば、反発したくなる自分がいる。
幼いころの失敗を思い出せば、恥ずかしさで顔が熱くなる。
それらの感情は、あまりにも自然だった。
僕が後から考えてつくり出したものとは思えなかった。
記憶があるだけではない。
感情まで、僕の中に残っている。
ならば、僕はイグニスなのだろうか。
それとも、イグニスの記憶を持った雨宮湊なのだろうか。
あるいは、どちらでもない何かになってしまったのだろうか。
僕は答えを出さなかった。
出せなかった、と言うべきかもしれない。
ただ、ひとつ気づいたことがあった。
イグニスは、僕とは違う人間だった。
少なくとも、記憶の中ではそうだった。
彼には彼の友人がいた。
彼には彼の苦手な相手がいた。
好きなものも、嫌いなものも、得意なことも、苦手なこともあった。
そして、彼には彼の人生があった。
僕が書いた物語の登場人物だったとしても、彼の人生が僕のものになるわけではない。
僕は彼の記憶を持っている。
けれど、彼が何を考えていたのか、すべて分かるわけではない。
記憶は、心そのものではないのだから。
そう考えたとき、少しだけ気持ちが落ち着いた。
分からないことは、分からないままでいい。
今は、そういうことにしておこう。
窓の外を眺めた。
街の向こうに、巨大な樹がそびえている。
枝は空を覆うほど広がり、幹は遠くからでも異様な存在感を放っていた。
ユグドラシル。
僕が考えた、この世界の中心。
設定では、魔法はユグドラシルとの接触や、そこから得られる経験によって使えるようになる。
ただし、その仕組みを僕は最後まで決められなかった。
魔法とは何なのか。
なぜ人はそれを使えるのか。
ユグドラシルは何を与え、何を奪うのか。
考えれば考えるほど、説明が難しくなった。
僕は途中で諦めた。
設定を埋めることに夢中になって、物語を書くことを忘れてしまったからだ。
そして、物語そのものを捨てた。
今になって思えば、僕は都合のいいところで逃げたのかもしれない。
分からないことを、分からないままにしておく勇気がなかった。
答えを出せない自分を認めるのが嫌だった。
だから、書くのをやめた。
その世界に、今の僕がいる。
僕は苦笑した。
「皮肉だな」
自分が投げ出した問題に、自分自身が放り込まれたのだから。
けれど、今度は逃げるわけにはいかない。
少なくとも、僕にはもう、物語を閉じて机の引き出しにしまうことはできなかった。
ここでは、僕が知らないことも起きる。
僕が書いていない人間関係がある。
僕が考えていない理由で、人は笑い、怒り、傷つく。
それらを、僕はこれから知っていくことになる。
そう考えると、少しだけ怖かった。
同時に、ほんの少しだけ、楽しみでもあった。
さて。
これから、どうするべきだろう。
元の世界に戻る方法を探すべきか。
この世界で生きていく方法を考えるべきか。
そもそも、戻れるのか。
考えるべきことは山ほどあった。
しかし、僕の頭に浮かんだのは、もっと別のことだった。
復讐。
あの言葉が、まだ僕の中に残っていた。
僕は雨宮湊として、誰かを見返す機会を待っていた。
正攻法で勝つ。
自分の力で認めさせる。
そのために生きていく。
そう決めていたはずなのに、結局、僕は何も成し遂げられなかった。
だったら。
今度こそ、やり直せばいい。
僕は自分の手を見た。
雨宮湊の手ではない。
イグニス・ホリーバーグの手だ。
この身体には、僕の知らない可能性がある。
この世界には、僕の知らない競争がある。
僕が書いた設定が正しいのなら、魔法を学ぶこともできる。ユグドラシルに近づくこともできる。自分の知らない力を身につけることもできるだろう。
それがどれほど難しいのか、今の僕には分からない。
それでも、何もないわけではない。
僕には、この世界についての知識がある。
そして、イグニスの記憶がある。
この身体で生きていくための手がかりが、少なくとも二つある。
もちろん、それだけで何もかもうまくいくとは思っていない。
僕が書いた世界だからといって、すべてが思いどおりになるわけではないだろう。
むしろ、思いどおりにならないことのほうが多いのかもしれない。
けれど、だからこそいい。
僕は、正攻法で勝ちたいのだ。
誰かを騙して、誰かを蹴落として、勝ったことにするのでは意味がない。
自分の力で何かを成し遂げたい。
自分の力で、ここにいる意味をつくりたい。
それは、雨宮湊として叶えられなかった願いだった。
だから、イグニスとして叶える。
そう決めた。
……いや。
本当に、それだけだろうか。
僕は、イグニスの記憶を持っている。
彼にも彼の人生があり、彼にも彼の願いがあったはずだ。
それなのに、僕は今、自分の復讐のために彼の身体を使おうとしている。
彼がそれを望んでいるかどうかも分からないのに。
僕は目を閉じた。
自分の正義が許すのだろうか。
かつて、他人を貶めることを拒んだ僕が。
他人の人生を、自分のやり直しのために使おうとしている。
それは、正攻法なのだろうか。
答えは出なかった。
それでも、僕は決めた。
まずは生きる。
この世界を知る。
イグニスの人生を知る。
そして、自分の力で勝つための方法を探す。
復讐は、その先にある。
僕はまだ、誰にも勝っていない。
何も成し遂げていない。
それでも、今度は機会を待つだけでは終わらせない。
僕自身の手で、機会をつくる。
窓の外で、風が吹いた。
遠くのユグドラシルが、静かに揺れているように見えた。
そのとき、部屋の扉が叩かれた。
「イグニス、起きているか?」
男の声だった。
記憶が反応する。
父親の声だ。
僕は一瞬、返事をすることができなかった。
雨宮湊としてなら、どう答えるべきか分からない。
けれど、イグニスとしてなら、答えられる。
「……はい。起きています」
口から出た言葉は、驚くほど自然だった。
「入るぞ」
扉が開く。
そこに立っていた男の顔を見た瞬間、僕の胸の奥に、懐かしさが込み上げた。
僕は彼を知らない。
それなのに、彼を知っている。
僕は雨宮湊だ。
けれど、今はイグニス・ホリーバーグでもある。
その矛盾を抱えたまま、僕は父親を見つめた。
「体調はどうだ?」
「大丈夫です」
「そうか。なら、少し話がある」
父親は真剣な表情で、僕の向かいに腰を下ろした。
「お前の今後についてだ」
今後。
その言葉を聞いて、僕は思った。
そうだ。
これからなのだ。
雨宮湊の人生は終わった。
イグニス・ホリーバーグの人生は、まだ続いている。
ならば、僕はこの人生で何をするのか。
何を成し遂げ、何を失い、誰と出会い、誰を理解できないまま生きていくのか。
まだ何も分からない。
だからこそ、確かめていくしかない。
僕は父親の目を見た。
「話って、何ですか?」
今度は、機会を待つだけの人間にはならない。
そう決めたばかりだった。




