第8話 それでも、手を伸ばす
――間に合わなかった。
その一瞬だけが、何度も頭の中で繰り返される。
目を閉じても、消えない。
伸ばした手。届かなかった距離。
「……っ」
ベッドの上で体を丸める。
考えれば考えるほど、同じところに戻る。
(俺のせいだ)
そう思えば、まだ楽だった。
理由がある方が、耐えられるから。
でも――
ただ間に合わなかっただけだとしたら。
それは、もっときつい。
「……もう」
小さく呟く。
「やめた方がいいのかもな」
この力は、中途半端だ。
救える保証なんて、どこにもない。
むしろ――
期待させて、裏切るだけかもしれない。
スマホが震える。
視線だけを向ける。
未読メッセージ。
由奈。美咲。
それから、知らない番号。
しばらく見つめたまま、動けなかった。
……それでも、指が触れる。
最初に開いたのは、由奈。
『昨日のこと、聞いた』
短い一文。
『無理しなくていい』
それだけ。
それだけなのに、胸に引っかかる。
無理、か。
次に、美咲。
『大丈夫?』
たったそれだけの言葉が、やけに重い。
「……なんでだよ」
思わず漏れる。
助けられなかったのに。
何もできなかったのに。
それでも、気にかけてくる。
意味が分からない。
最後に、知らない番号を開く。
『昨日、助けてくれてありがとうございました』
息が止まる。
続けて、メッセージが届く。
『あの後、先生に相談できました』
『まだ怖いですけど、少しだけ大丈夫です』
――昨日の、あの子。
「……」
言葉が出ない。
『あの時、声をかけてもらえなかったら』
『もっと悪くなってたと思います』
画面が、滲む。
違う。
俺は、何も救えてない。
あの屋上で、一人失った。
それが全部だ。
そう思おうとして――
でも。
別の声が、重なる。
――少しだけ、楽になった。
――さっきより、全然違う。
――ありがとうございました。
どれも、嘘じゃない。
救えなかった人がいる。
でも。
救えた人も、確かにいる。
「……」
スマホを握る手に、少し力が入る。
(じゃあ、どうする)
やめるのか。
怖いから。
また同じことになるかもしれないから。
――それで、本当にいいのか。
「……よくない」
声が、思ったよりはっきり出た。
立ち上がる。
足は重い。
でも、止まらない。
ドアに手をかけた、その時。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。
「……?」
こんな時間に。
玄関へ向かう。
ドアを開ける。
「……あ」
そこにいたのは、由奈だった。
「……大丈夫?」
少し不安そうな顔。
でも、目は逸らさない。
「……なんで」
「来たらダメ?」
「いや……」
言葉が続かない。
「……なんとなく」
由奈が、少しだけ笑う。
「一人にしない方がいい気がして」
「……」
何も言えなかった。
「……入っていい?」
「……ああ」
道を開ける。
由奈が中に入る。
リビング。
少しの沈黙。
「……昨日のこと」
由奈が口を開く。
「全部、聞いた」
「……そっか」
「……つらいよね」
「……ああ」
それ以上は、言えない。
「でも」
由奈の声は、静かだった。
「それでやめるのは、違うと思う」
「……」
「だって、助けられてる人もいるから」
逃げ場のない言葉。
「……でも」
絞り出す。
「間に合わなかった」
「うん」
否定しない。
「それは、事実」
「……」
「でも、それだけじゃない」
少しだけ間を置いて。
「全部ダメだったわけじゃないでしょ」
何も言えない。
でも、否定もできない。
「……怖いよね」
「……ああ」
「また同じことになるかもしれないって」
頷くことしかできない。
その時。
ふと、思い出す。
あの時の言葉。
逃げないって。
向き合うって。
自分で決めたはずだろ。
「……ああ」
小さく、でも確かに頷く。
「……決めた」
「なら」
由奈が、少しだけ笑う。
「それでいいじゃん」
「……簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
すぐに返ってくる。
「でも、シンプルではある」
「……」
「できることを、やるだけ」
それだけのこと。
でも、それが一番難しい。
「……」
しばらくして、息を吐く。
「……ありがとな」
「……どういたしまして」
少し照れたように笑う。
その表情を見て、思う。
(まだ、やれる)
全部じゃなくていい。
一人ずつでいい。
それでも、手は届くかもしれない。
「……行くか」
「どこに?」
「……やること、あるだろ」
由奈が一瞬驚いて、それから笑う。
「……うん」
立ち上がる。
怖さは消えない。
それでも。
足は、止まらない。
――それでも、手を伸ばす。
届くかどうかは分からない。
それでも。
伸ばさなければ、何も始まらないから。




