6話 触れられない場所
――“少しだけ、楽になる”。
それが、この力の限界だ。
それ以上は、できない。
……できないはずだった。
放課後。
俺は、美咲の家の前に立っていた。
チャイムを押す指が、少し震える。
(来るべきじゃないかもしれない)
そう思いながらも、押した。
ピンポーン。
数秒の沈黙。
ドアが、ゆっくりと開く。
「……あ」
出てきたのは、美咲だった。
少し驚いた顔。
「どうしたの?」
「……ちょっと、話せるか」
言うと、美咲は少しだけ迷ってから頷いた。
「……いいよ」
中に入る。
リビングは静かだった。
でも――
空気が、重い。
何も音がないのに、どこか張り詰めている。
「親は?」
「……いない」
短い答え。
それだけで、色々察してしまう。
「……そっか」
ソファに座る。
美咲も、少し距離を空けて座った。
「昨日の……ありがとう」
「……いや」
首を振る。
「俺は、何もしてない」
「そんなことないよ」
小さく笑う。
でも、その笑顔はやっぱり少し無理をしている。
「……なあ」
言うべきか、迷う。
でも、来た理由はそれだ。
「まだ……つらいか?」
美咲の表情が、少しだけ止まる。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……うん」
小さな声。
「夜とか、特に」
「……」
「音がすると、また始まるんじゃないかって思って」
手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「落ち着かないの」
胸が締め付けられる。
(これを……)
どうにかできるのか?
催眠で。
少しだけ楽にすることはできる。
でも――
(それで、いいのか?)
一瞬、迷う。
また同じことになるかもしれない。
でも。
「……やるか?」
口に出していた。
「……え?」
「この前の、やつ」
美咲は少し驚いた顔をして、すぐに苦笑した。
「……また?」
「嫌なら、やらない」
すぐに付け加える。
「……ううん」
首を振る。
「少しだけ、楽になるなら」
その言葉が、重い。
“少しだけ”。
それが、どれだけの意味を持つか。
「……分かった」
立ち上がる。
距離を取る。
目を合わせる。
「無理はしない」
「……うん」
「嫌になったら、すぐ言っていい」
「……うん」
深呼吸。
集中する。
パチン。
指を鳴らす。
「……」
静かな時間。
「……どう?」
「……少し、楽」
やっぱり、効く。
でも、それだけだ。
「怖いことは、今は考えなくていい」
「……うん」
「ここは安全だ」
「……うん」
表情が、少しだけ緩む。
呼吸も落ち着いている。
(ここまでは、いい)
問題は、この先だ。
根本。
家庭環境。
それに触れない限り――
「……なあ、美咲」
「……なに?」
言うか、迷う。
でも、避けて通れない。
「このままじゃ、また戻る」
「……」
「家のこと、どうにかしないと」
その瞬間。
美咲の表情が、固まった。
「……無理だよ」
即答だった。
「……」
「どうにもならないもん」
視線を逸らす。
「大人のことだし」
「……」
「私が何か言っても、余計に悪くなるだけ」
声が少し震えている。
「だから……」
ぎゅっと、手を握る。
「考えない方が、楽なの」
――そこだ。
これが、現実。
催眠でどうこうできる問題じゃない。
(俺は……)
ここまでしか、できないのか。
「……ごめん」
思わず、言っていた。
「……なんで?」
「何も、解決できない」
悔しさが滲む。
「……そんなことない」
美咲は首を振った。
「今、楽だから」
「……」
「それだけでも、十分だよ」
小さく笑う。
でも、その笑顔の奥には――
諦めがあった。
(それで、いいのか……?)
胸の奥がざわつく。
このまま“少し楽”を繰り返すだけで。
本当にいいのか。
「……なあ」
気づけば、口が動いていた。
「逃げる方法も、あるかもしれない」
「……え?」
「学校の先生とか、相談できる場所とか」
「……」
「一人で抱えなくていい」
美咲はしばらく黙っていた。
そして――
「……怖い」
ぽつりと呟く。
「変わるのが、怖い」
「……」
「今より悪くなるかもしれないって思うと」
それも、現実だ。
簡単に“助けを求めろ”なんて言えない。
「……そっか」
それ以上、強くは言えなかった。
言っていい立場じゃない。
俺は、ただの高校生だ。
何かを変える力なんて、持っていない。
――催眠以外は。
(……それでも)
それでも。
何もできないわけじゃない。
「……無理に変えなくていい」
静かに言う。
「でも、一人で抱える必要はない」
「……」
「俺は、ここにいる」
それは、無責任な言葉かもしれない。
でも――
嘘じゃない。
「……うん」
美咲が、小さく頷く。
その目は、少しだけ潤んでいた。
催眠が、ゆっくりと解けていく。
表情が戻る。
現実も戻る。
何も変わっていない。
でも。
「……ありがとう」
その言葉だけが、残った。
――届かない場所がある。
この力じゃ、触れられない場所が。
それでも。
触れられるところから、やるしかない。
それが、今の俺にできることだ。




