第10話 閉じた理由
図書室の空気は、相変わらず静かだった。
でも――
前とは、少しだけ違う。
窓際の席。
紗月は、今日もそこにいる。
ただ。
本を開いたまま、ページはめくられていない。
「……来た」
小さな声。
前よりも、ほんの少しだけ柔らかい。
「……ああ」
黒瀬は頷く。
距離を取りながら、隣に座る。
沈黙。
でも、前みたいな重さはない。
「……あのさ」
黒瀬が口を開く。
「この前のやつ」
「……催眠」
「……そう」
紗月は、少しだけ視線を落とす。
「……効かなかったね」
「……ああ」
正直に答える。
「たぶん」
言葉を選ぶ。
「無理にやるものじゃない」
「……うん」
あっさりと頷く。
否定も、落ち込みもない。
ただ、受け入れている。
(……やっぱり、違う)
この子は。
今まで会ってきた人とは。
「……なんで」
気づけば、口にしていた。
「閉じてるんだ?」
「……」
紗月の手が、少しだけ止まる。
しばらくの沈黙。
風が、カーテンを揺らす。
「……分かるの?」
「……なんとなく」
完全にじゃない。
でも。
“外を拒んでる感じ”は、はっきりある。
「……そっか」
紗月は、小さく呟く。
そして。
ゆっくりと、本を閉じた。
「……前はね」
ぽつりと、話し始める。
「普通だった」
視線は、窓の外。
「友達もいたし」
「……」
「ちゃんと、笑ってたと思う」
過去形。
その言い方だけで、十分だった。
「……でも」
少しだけ、間が空く。
「ある日、全部なくなった」
「……」
「きっかけは、小さいことだったと思う」
指先が、本の端をなぞる。
「ちょっとした勘違い」
「ちょっとした噂」
「ちょっとした、悪意」
積み重なるように、言葉が落ちる。
「気づいたら」
小さく息を吸う。
「誰も、話しかけてこなくなった」
「……」
「話しかけても、返ってこない」
「……」
「笑っても、誰も見てない」
静かな声。
感情がないわけじゃない。
ただ――
もう、出し方を忘れているみたいだった。
「……それで」
紗月は、少しだけ目を細める。
「分かったの」
「……何が?」
「外に出ると、傷つく」
はっきりと言う。
「だったら」
指が止まる。
「最初から、出なければいい」
「……」
それは、間違っていない。
少なくとも――
紗月にとっては、正しい選択だった。
「……だから」
ゆっくりと続ける。
「閉じたの」
それだけ。
説明は、十分だった。
「……」
黒瀬は、何も言えない。
軽い言葉なんて、全部嘘になる。
「……楽?」
やっと出た言葉。
それだけだった。
「……うん」
紗月は、少しだけ頷く。
「傷つかないから」
「……」
「でも」
ほんの少しだけ、間を置く。
「たまに」
視線が、窓の外に向く。
「外が、気になる」
「……」
「それだけ」
小さく笑う。
でも、その笑顔は――
どこか遠い。
(……開きたいのか)
完全に閉じているわけじゃない。
ほんの少しだけ。
隙間がある。
「……なあ」
静かに声をかける。
「無理に出なくていい」
「……」
「でも」
言葉を選ぶ。
「その隙間は、閉じなくていいと思う」
「……」
紗月は、何も言わない。
ただ、少しだけ視線を落とす。
「……もし」
黒瀬は続ける。
「外に出たいって思ったときは」
前と同じ言葉。
「手伝う」
短く。
それだけ。
紗月は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……変なの」
ぽつりと呟く。
「……何が」
「押してこない」
少しだけ首をかしげる。
「普通は、もっと言うでしょ」
「……まあな」
苦笑する。
「でも」
視線を合わせる。
「無理に開けても、意味ないだろ」
「……」
少しの沈黙。
そのあと。
紗月は、ほんの少しだけ笑った。
「……うん」
その笑顔は。
前よりも、ほんの少しだけ近かった。
――閉じた理由は、単純だった。
そして。
開く理由も、きっと同じくらい単純だ。
無理に壊す必要はない。
ただ。
待つだけでいい。
その時が来るまで。
その隙間が、ちゃんと開くまで。
それが――
今の俺にできる、やり方だった。




