~中学最後の大会8(自由曲、歌劇『サムソンとデリラ』より「バッカナール」)~
課題曲は問題なく終わった。
いよいよ次は自由曲。
譜面をめくり深く目をつむった後、呼吸を乱さないようにゆっくりと指揮をする先生の手が動くのを待った。
先生は私の呼吸に合わせて優しく指を回し、それを合図にリードに息を送り込むと私の大好きな軽快で感情豊かな声が静まり返った会場の隅々まで溶け込んでいった。
このオーボエの音がその後の曲に影響する。
私の音が小さすぎると、曲のバランス上、全体の音も小さくなってしまう。
イントロの音が小さいのを無視して大きな音を出してしまえば、音のバランスは即座に崩れて全体的にまとまらなくなってしまう。
だから私は自分が作ったこのリードを信頼して、二階席の奥まで届くように勇気をもって音を出した。
ソロパートが終わると、余裕ができて他の人の音がいつもより良く耳に入ってくるのが分かった。
こうして聴いていると、やはり三年生の音は安定していると思った。
テクニックではなく、基礎自体がしっかりしていて安心感があった。
三年間同じことを繰り返してきた強み。
中学での年功序列というのは、あながち間違いではない気がした。
曲の後半まで問題なく進み、エンディングの盛り上がりも峠を過ぎようとしたとき、クラリネットの一人が半音だけ演奏しなかった。
ここはクラリネットとフルートが総動員で盛り上げるところで、江角くんが昨日パートの譜面を少しだけ変えたところ。
たった半音。
私はクラリネットと向かい合わせにいたから、すぐに気がついたけれど、特に変な音を出したわけではないので会場の人たちには分からないはず。
おそらくいっしょに演奏しているクラリネットのメンバーも、ひょっとすると本人でさえ気づいてはいないだろう。
曲が終わったとき、泣きそうなくらい感動して、実際涙が頬を伝うのがわかった。
やり遂げた達成感にみんなが沸き立っているなか、冷静な目をしていた人が一人だけいた。
それは江角くん。
私だって最初にソロを弾いていなかったら、みんなと一緒に手放しに喜んでいられたのだろう。
だけど気がついてしまった。
江角くんの落胆した心に。
楽器を片付け終わり幕間にワイワイ騒ぎながら会場の席に着く。
列の先頭に立っていた江角くんは、いつもと変わりない淡々とした表情で部長らしくしていた。
私も席に着くと、目に涙を浮かべた里沙が抱きついてきて「感動した」と言ってくれた。
次の学校が幕の向こう側でチューニングを始め、みんな静かになったころ、会場の外出る江角くんが見えた。
なにか嫌な予感がして私も席を離れて開場を出たが、その先の通路にはもう江角くんの姿は見えなかった。
こんなときロンがいてくれたら、すぐに見つけ出してくれるのに……。
場内アナウンスが始まったので慌てて扉のところまで戻ると係の人から嫌な目で睨まれたが、少し開けた隙間から見ると江角くんの席は空いたままだった。
『もー!世話のやける人』
そう思ったけど、私が勝手に気になっているだけ。
会場の外側の通路をまわっても江角くんは見つからなくて、とぼとぼと階段を下りていると、ガラスの向こうがわに小さく見える学生服の男子の姿が見えた。
『もしかしたら……』
階段を駆け下りて建物の外に出て近づくと、その男子はやはり江角くんだった。
追いかけたものの、どう近づいたらいいのか、どう声を掛けるべきなのかもわからずに江角くんの背中を五メートルくらい離れた位置でじっと見ていた。
「微妙だな」
江角くんが独り言を言っていると思ったら、もう一度「微妙な距離だな」と言われ、私に話しかけているのだとわかって近づいた。
「なにしているの?」
江角くんの隣に腰掛けて聞くと「落ち込んでいる」と、正直な気持ちを打ち明けられた。
「仕方ないよ。それに誰も気が付かなかったみたいだし」
「でも、鮎沢は気が付いただろ?」
「私はね。最初のソロでアドレナリンいっぱい出ちゃって音に敏感になっていたから」
「かっこう悪いな。俺のせいだ。俺が直前に余計なことをしたから……」
「そうかなぁ?あの変更があったから、誰も間違わずに音がそろったと私は思うよ」
「……」
「出なかった音は半音だけでおそらく本人もそのことに気付いていないよ」
「でも完ぺきではない」
「……」
「俺は好きな人に完ぺきを届けたかったんだ」
好きな人とは、やはり里沙のことだと思い、里沙が気付いていなかったことを伝えると、江角くんは何でそこで立木の名前が出るのかとムキになって私に聞いた。
「だ、だって好きなんじゃ……」
「お前バカかよ。俺が好きなのはお前だ!」
「バカって、な・によ。……えっ? えぇ~~~~~っ!!??」
お互いに大声を出し合ったので周りの人から変な目で見られたのが分かり、二人とも慌ててホールの中に駆けこんだ。
それ以降、江角くんとは言葉も交わさなかった。
夕方発表された結果は残念ながら東関東大会には届かなかったけど、金賞を取ることができて、みんな力を出し切ったことに満足していた。
夜に、良い子でお留守番してくれていたロンと一緒に散歩に出た。
蒸し暑い夜が続いていたけれど、今夜はなんだか風が吹いて涼しい。
いつものベンチに腰掛けて星を見上げた。
私が空を見ると必ずロンもつられて空を見る。
そしてすぐにその顔を私に向ける。
「好きだって言われちゃった……」
自分でもどうしていいか分からないから、ロンに告白した。
だけどロンは何も言わず、私の顔をじっと見ていた。
遠く空の上を夜間飛行の灯が点滅を繰り返しながら近づいて、そして遠ざかって行った。




