~県大会の結果と、花火と、町田市が東京都の理由~
「ねえねえ、今年も花火、見に行くでしょう!?」「うん」「じゃあ、いっしょに行こう!」「うん」
里沙が電話をかけてきてくれた。
花火の約束。
県大会のあと(後)の私を心配してくれているのは分かったけど、いまひとつ気乗りがしなかった。
結局私たち吹奏楽部は去年と同じ銀賞に終わった。
私たち木管グループのポンポン隊と伊藤くんでかけた掛け声により、部内に広がっていた異様な緊張感は解けた。
本番でも目立つような失敗は何もなかった。
すべてがうまくいったと思っていた。
それでも結果は去年と同じだった。
去年は楽器演奏の浅い一年生を省くことで、全体的なレベルが高い状態で練習に集中する時間を増やした。
その結果が四年ぶりの支部大会突破に繋がり、県大会でも銀賞を取る上々の結果を残した。
今年の目標は二年連続の県大会進出。
目的は果たせた。
しかし結果は去年よりひとつ上がった銀賞。
これを喜ぶべきなのか、あるいは悔しく思うべきなのか私にはわからない。
ただ、答えは知りたかった。
なにがいけなかったのか、答えがみつからない。
そうなるとやはり行きつく先は、一年生を全員参加させたのが原因だったと思われても仕方がない。
たしかに一年生を去年と同じように経験者に限った場合、曲の演奏技術はもっとよかったのは間違いないだろう。
でもそれで銀賞が金賞になり、さらに上の東関東大会に行けたかどうかは怪しい。
一年生十七人が入ることによってできた、演奏の厚みや迫力は技術的な不安を相殺していると私は思っている。
結局が足りなかったのか……。
“あの時こうしておけばよかった” と、これは結果論。
結果は決して変えられない。
これはすでに終わったこと。
この教訓を次に活かすことがいちばん大切なことだ。
お母さんに浴衣を着せてもらい、里沙といっしょに花火大会に向かう。
今年ロンはお留守番。
いっしょに行きたいけれど、また去年のように私とロンだけになったとき去年のような人が来たときに何かあっても責任はとれないから。
ロンは私を守ってくれようとするのは間違いないけれど、私を守るためにもしロンが相手の人をかんでしまったら、どうしようもできない。
相手を傷つけてしまえば、最悪ロンは保健所に連れて行かれてしまう。
里沙がきて出かけるときに、そのことを話すと里沙は相手が悪いのだったらそれは相手のせいだと言ってくれたが、現実問題そういうふうにはならないことはもう中二になった私はわかる。
里沙はわかってくれて、私はロンに見送られて家を出た。
里沙と二人で家を出て花火会場に向かう私たちは、途中で美緒や伊藤くんたちと合流してまるでブレーメンの音楽隊のように、にぎやかに花火会場まで行進していった。
「伊藤くん何それ?」
「寝間着のまま来た?」
「作務衣だよ!」
伊藤くんと甲本くんは、浴衣ではなく作務衣だったけど、私たち女子にいじられるのは伊藤くんばかりだった。
それだけ彼は人気があるということ。
「甲本くんの作務衣、かっこいいね。どこで買ったの?」
伊藤くんの作務衣が、ほぼ無地だったのに対して甲本くんの作務衣は黒字に金色の模様が左肩に入ったおしゃれなものだったので聞くと、甲本くんは町田で買ったと言った。
「やっぱり町田って、やっぱり東京だよね」
「ああ、そうだな」
私たちの住む相模原市のすぐ隣には、東京都町田市がある。
多摩川河口付近では県境は東京都大田区・世田谷区と、神奈川県川崎市が多摩川を挟んで別れている。
けれどもその県境は小田急線が多摩川を超えるあたり、つまりJR南武線の稲田堤駅の北にある矢口駅の間から東京都の県境は川を越えてくる。
ところが昔の県境は逆に神奈川県側が多摩川を越えて、いまの東京都調布市以北が神奈川県となっていたそうだ。
ではなぜそれが今のように変化したのかは、飲み水が関係するらしい。
江戸時代、江戸への水は玉川上水から供給されていて、幕府によって厳重に管理されていた。
ところが明治時代となり廃藩置県が行われると多摩川の西側はすべて神奈川県になった。
江戸時代は幕府が一括管理していたものが廃藩置県によって分割され、上水路の約七割が神奈川にあり東京はそのうち三割しか管理ができなかった。
しかし使う量は圧倒的に東京の方が多く、当時の神奈川の中心地は横浜や鎌倉・横須賀であり玉川上水よりも、相模川系の上水を利用していたので多摩川の管理はあまりしていなかった。
そのころちょうどコレラが大流行した。
これをきっかけに、多摩川の水を守ろうと当時の東京府知事・富田鉄之助氏が働きかけて三多摩地区(現在の調布市から立川市にかけての北多摩郡、青梅市・五日市市などの西多摩郡、八王子市や町田市などの南多摩郡)が東京都に編入され玉川上水は東京都が管理を行うことになり水道水の衛生管理が行われるようになったそうだ。




