~美樹さんの旅立ち~
六月……。
紫陽花の花が咲きはじめたころ、美樹さんはニュージーランドへ旅立っていった。
空港まで見送りに行きたかったけど、ロンくらいの大きさの犬だと盲導犬などの介護犬ではない限り公共の交通機関は利用できないし空港にも入れない。
だから兄がわざわざ美樹さんを家まで連れてきてくれて、そこでお別れした。
車には美樹さんのお父さんとお母さんもいっしょに乗っていて、ロンを見つけるなり「この子がロンですか、どうりで娘が惚れるのも無理ないくらい精悍で賢そうですな」とロンを撫でてくれた。
『美樹さんが、ロンに惚れていた?』
はじめて聞いたその言葉に美樹さんの顔を見ると、美樹さんは口を滑らしたお父さんにふくれっ面をして見ていた顔を私に向け、頬をほんのり赤く染めて年下のように恥ずかしそうにしていた。
『最後じゃないから泣かない!』と自分に言い聞かせていたのに、なんにも知らずにいつも通り美樹さんに甘えているロンを見ていると堪えきれなくなって、さよならを言う前から悲しくて涙が止まらなくなった。
ロンには地球儀もないしカレンダーもないから、目の前の美人で優しいお姉さんが、地球の反対側まで行ってしまい三年もの長い間会えなくなるなんて想像もできないだろう。
おそらく君が玄関で楽しみにして待っていた、あのいきいきしたリズムで奏でられる美樹さんの駆けて来る足音も、清潔感あふれるさわやかな香りも、当分玄関をくぐってこない。
それをロンはどんな気持ちで待つのだろうか。
美樹さんは、泣いている私の肩に優しく手を置いてくれた。
私が美樹さんに抱きつくと、美樹さんは私の体をしずめるようにしゃがんで、ふたりの間にロンを入れてくれた。
三人でひとつの塊になった。
美樹さんも泣き出してしまい困ったロンは私と美樹さんの頬をやさしく舐めていた。
*
夜中に美樹さんを空港に送っていった兄の車が帰ってきた。
車庫に車を止め、エンジンを切るタイミングがいつもより遅くて、その時間だけ兄の哀しみの深さが伝わってくる。
私はロンと階段を下りて玄関の鍵を開けた。
入ってきた兄に「だいじょうぶ?」と声をかけると「ああ」とだけ答えて、玄関に肩掛けバッグを置き、私たちを散歩に誘った。
星空のきれいな夜だった。
あのスキー場の夜みたいに天頂にオリオン座は輝いていなかったけど、散りばめられた星々を縫うようにライトを点滅させた飛行機が流れて行った。
「なんて話していたの?私とロンのこと」
兄と美樹さんのことをもっと知りたくて聞いてみた。
「ありのまま」
「ありのままって?」
「お互いが、相手にとって一番大切な存在になろうって、けんめいになっていたってこと」
「そんな……」
「最初は笑い話だったんだよ、でもそれがうらやましくなって、そのうち千春に嫉妬しだして」
「嫉妬?!」
あの美樹さんが嫉妬だなんて思いもつかなかった。
「美樹の家は転勤族だから三年おきに違う県に引っ越すんだ。だから俺たちの家みたいに持ち家じゃないからペットは飼えない」
「だから、うらやましいし嫉妬もするのね」
「そしたら偶然、あの花火の夜だろ。お互いにお互いを守り合う。美樹、すごく感動していたんだよ千春たちのことを見て」
実際見られたのは私の頭の上で間ぬけな顔をしているロンで、その下で意気がっている私はもっと間ぬけな感じで恥ずかしい。
「スキーのときもロンは千春を助けたし。千春もロンを助けたし」
「私が?」
「ほら、ペットルームでミニチュアダックスから救っただろ」
「あれは、私じゃなくても……」
「いや、俺も美樹も気がつかなかった。ロンに笑って声はかけるけど助けようなんて思わなかった。千春だけがロンの気持ちに気がついたのさ。結局美樹はこのあと俺に留学の相談をした」
「じゃあ私のせいなの……」
気落ちして私が訪ねると、兄は励ますように言ってくれた。
「いや、千春のおかげなんだよ」
「でも、どうして?」
「……さあ、最後まで本当の理由は教えてくれなかった」
「最後まで?」
私はようやく気がついた。
美樹さんの家は三年おきに違う街に引っ越すことを。
つまり三年後に日本に帰ってくる先はここじゃないところ。
私はなぜか兄の手をつかんだ。
そしてロンと二人で兄をエスコートするように星空の道を家に向かった。
散歩から帰ると、兄は肩掛けバッグの中から一冊のノートを取り出した。
何度も一緒にロンの料理を作ったあのレシピの書かれたノートだった。
手に取って、ロンにも見せると美樹さんの匂いがするのか鼻をクンクンいわせていっぱい嗅いでいた。
手を洗い歯磨きをして自分の部屋に戻ってノートを開くと、懐かしいメニューがたくさんあった。
初めてスキー場で知った手作りの料理。
初めて美樹さんと作った豆腐ハンバーグ。
初めて私一人で作った野菜おじや。
美樹さんと初めて会った花火大会の夜、私には綺麗な人という印象しかなかったけど、そのときの美樹さんは私のこともロンのことも兄から聞いていて実際に会ってみた私たちをどう思ったのだろう?
頭の上に犬の頭を乗せ、真剣な表情で竹串を持つ変な少女と、間抜けそうな犬……。
思い返すと恥ずかしい。
寝る前に、窓の向こうを見た。
南の方角。
いつかまた会えたなら、美樹さんに自慢できる二人でいたい。
そう思いながら開け放していた窓を閉めた。
湿り気を帯びた未だ冷たい梅雨の空気の中には、ほのかに紫陽花の香りが混じっていた。




