~兄の初恋の人~
家に帰って玄関のドアを開けたとき、ロンは大喜びで飛び出して出迎えてくれると思っていたら下駄箱の前にお座りをしたまま尻尾をゆらゆらと揺らしているだけだった。
しかも入り口のいちばん邪魔なところ。
「ロン、邪魔だよ」と言っても避けてくれないから、こっちが避けて家の中に入り靴を脱ぐ。
家の中に入ってから声をかけても、お座りをしている位置から離れないで小刻みに足を動かせて、お座りをしたまま私のほうに向いた。
「なんか、あるな……」と、兄が言った。
でもチェーンは繋がっているし、見た感じは何もない。
「ロン、こっちにおいで」
私が呼んでも、ロンはニッコリと舌を出すだけで動かない。
兄が言う通り、やっぱり何かある。
「来い!」と強く言うとロンは渋々腰を上げて、五センチだけ前に来てまたお座りをした。
兄が首輪を持って強く引っ張り、その力にロンはお座りをしたまま引きずられたので兄に止めるように頼んだ。
言うことに従わないからといって、それを強制的な手段で従わせようとしても、ロンは戸惑うだけ。
これが人間相手だと喧嘩になるところだけど、ロンは私たち家族が大好きだからそれで私たちを恨む事はない。
けれどもこんなことを何回も続けていれば、おとなしいロンだと言っても家族への不信感がストレスとなり特に家族以外の人に対して攻撃的な犬になってしまう。
だから私は優しくロンのそばに行き、目線を合わせて先ずは抱いてあげた。
ロンの背中越しに、歯形だらけになって一部が欠けている木製の傘立てが見えた。
“なるほど、ロンはこれを隠そうとしていたのか”
私のようすを察した兄が何かあったのかと聞いたので、私は先週買ったばかりの傘立てが壊されていることを伝えると、立ち上がって傘立てのある玄関の奥を覗き込んだ兄はそれを見て「あ~……」と絶叫した。
私はロンの顔の前に自分の顔をそろえて、ロンの顔をキッと睨んで「ロン!」と少しきつめでも優しさを忘れないように気を付けて名前を呼ぶと、ロンは観念したように片手をあげた。
兄にロンを怒らないように言ってからロンの頭をポンポンと叩いて傘立ての前から退くように言い、ほうきと塵取りを持って破片を片付けた。
ロンは玄関から廊下に上がり伏せをして悲しそうな顔をして私が片付けるのを見ていた。
その様子を見ていた兄が私に「怒らないのか?」と言った。
私は兄に、ロンは悪いことをした自覚がありそれを隠そうとしていたことや、私が怒った顔を見せたとき「許して」の合図として手を上げたことを話した。
そしてこれ以上ロンを責めることでロンはもっと巧妙に隠そうとか、怒られるから逃げようとか思うようになってしまったらせっかく反省してくれたことが無駄になるかもしれないと伝えた。
私は獣医でもなければ、動物のカウンセラーでもない。
でもロンのような犬は人間の二歳から四歳くらいの知能は持っている。
それなら、小さい頃に悪いことをしたときのお母さんのように接してあげることが一番いいと思い自信を持って言うと、兄も何も言わずに従ってくれた。
お母さんが紙袋の中に何かたくさんの書類を持っていて、それを見せてくれた。
「なにこれ?」
「この学校に、どうですかって」
お母さんがどこかに置いてある高校や大学のパンフレットをもらってきたのかと思って聞くと、ぜんぶ私が演奏したあとに寄ってきた人たちにもらったのだと教えてくれた。
「へえ〜」っと他人ごとのようにパラパラと見ていると、今日会場を貸してくれた大学のパンフレットもあり、ロサンジェルス・フィルハーモニック所属、高倉秋子と私の持っているオーボエを手に持ってニッコリ笑う秋子お姉ちゃんの写真が載っていた。
写真を見てわかった。
やはり私に送ってくれたオーボエは、秋子お姉ちゃんが一番大切にしていたものだったんだと。
私はこのオーボエもこれからもずっと大切にする。
そして秋子お姉ちゃんの分まで、吹き続けたい。
「これもらっていい」
「そこに行きたいの?」
「記念に。ほら秋子お姉ちゃんの写真が載っているでしょう」
「あらほんと、もう何冊かもらえばよかったわ」
「できたらあと一冊もらって、お兄ちゃんにあげて」
「お兄ちゃんに?」
「うん」
お母さんは私の返事を聞いて、明るく笑った。
お母さんの顔を見て、兄の初恋の人が秋子お姉ちゃんであることがほぼわかった。
告別式に飾られていた秋子お姉ちゃんの写真を見たときから、薄々気が付いていたんだけど、兄がこの前の花火大会に連れていた女の人って秋子お姉ちゃんに雰囲気が似ているもの。
やはり兄の初恋の人は、秋子お姉ちゃんに間違いないって。




