~(秋子お姉ちゃんとの思い出とアルバム)~
夜にアルバムを開いた。
秋子お姉ちゃんと遊んだ日々の写真をロンといっしょに見た。
ロンは秋子お姉ちゃんにあったことがないのに、私の膝の上に頭を乗せて私の話を聞きながらおとなしく見ていた。
私の記憶の中に残っているいちばん古い秋子お姉ちゃんとの記憶は、お気に入りの青のセーラー服を着た私が秋子お姉ちゃんに抱っこされてよろこんでいる写真。
このいちまいの写真から、秋子お姉ちゃんと私の、小さな物語は始まった。
秋子お姉ちゃんとの思い出で、特に印象が強かったのは、やさしさと音楽。
秋子お姉ちゃんは私のお母さんのお姉さんの子供なので、私にとっては従姉にあたる。
私には八歳年上の兄がいるのだが、秋子お姉ちゃんはその兄よりも五つも上で、私よりも十三歳も年上となる。
私のいちばん古い記憶のこの写真の秋子お姉ちゃんはもう高校生なのだ。
秋子お姉ちゃんとよく音楽を聴いたし、音楽を私の前で演奏もしてくれた。
ギターや笛、そしてカスタネットやハーモニカ。
誕生日にはメトロノームももらった。
カチカチと一定のリズムを打ち続けるこのふしぎな振り子は、まだ幼稚園に入る前の私にとってかけがえのない興味を引き今でも大切に使っている。
そして兄の勉強もよくみてくれていた。
秋子お姉ちゃんの家は東京の調布市にある古い立派な広いお家で、夏休みにはお母さんと兄に連れられてよく遊びに行った。
秋子お姉ちゃんには兄妹はいなくて、ひとりっ子。
だから私たちが遊びに行くと、いつも喜んでくれた。
夏には縁側でスイカも食べ、逆に相模原の花火大会の日には秋子お姉ちゃんが私の家に遊びにきていっしょに見に行った。
大学生になってから秋子お姉ちゃんは、いそがしいのかあまり遊びに来てくれなくなった。
ある日お母さんといっしょに秋子お姉ちゃんのコンサートを観に行った。
曲はブラームスの「交響曲第1番 ハ短調 作品68」
長い曲の途中に何回か入る秋子お姉ちゃんのオーボエの音色が特に美しかった。
そして曲が終わりロビーまで出て来てくれた、黒いドレスを着て髪をおろした秋子お姉ちゃんの姿は、曲の中で聴いたオーボエの音色と同じように見たこともないほどきれいだった。
私はここで人生史上最大の勘違いをしてしまい、オーボエをきれいに演奏できるようになれば私も秋子お姉ちゃんのようにきれいになれると思い、中学の吹奏楽部でオーボエを演奏する日のためにリコーダーをいっしょうけんめい練習した。
大学を卒業する前の三年生のとき、秋子お姉ちゃんはアメリカに行くことになった。
お母さんの話では、すでにアメリカの有名なオーケストラに入ることが決まっていて、そのためにアメリカに行くのだといった。
私はまだ小学校二年生だったけれど、秋子お姉ちゃんがアメリカに遊びに行ってすぐにまた帰ってくるのとは違うことだけはわかった。
翌年に秋子お姉ちゃんは、同じオーケストラにいる有名な音楽家の人と結婚して日本で披露宴をあげるために戻ってきてくれた。
たくさんの知らない人の中で私は気おくれしていたけれど、秋子お姉ちゃんはずっと私のそばに寄り添ってくれた。
あと秋子お姉ちゃんは大学に入ってからあっていなかった兄のせが、すごくのびたのにおどろいていた。
小学四年のときには兄がネットの動画にアップされていた秋子お姉ちゃんが所属しているオーケストラのヨーロッパ公演の様子を見せてくれた。
さすがにまだソロの演奏はないものの、そのとなりにならんで重要な主旋律をいっしょに演奏している様子がアップで映し出されていた。
いつか日本公演があったらみんなで観に行こうと話したけれど、私は日本に来なくても自力でアメリカに行って公演を観に行こうと決めた。
そしてそのために、リコーダーの練習をさらにがんばった。
ばかみたいな話だけれど、そのときは私もいつか秋子お姉ちゃんみたいにプロの音楽家になって同じオーケストラにリコーダーそうしゃとして入る気でいた。
だから六年生の誕生日に、アメリカにいる秋子お姉ちゃんからオーボエを送られたときは天にものぼるくらいうれしかった。
これを習得すれば、同じ楽器で同じオーケストラで演奏できると、本気で思っていた。
でも、もうそのときには秋子お姉ちゃんは自分の病を知っていて、演奏できなくなったオーボエの大切な一本を私に送ってくれた。
おそらくそれは自分がやりのこした何かを託すために、このオーボエをバトンとして私に託してくれたのだと私は思った。
夜中だったけど、お父さんに頼んで相模川の河原まで連れて行ってもらい、私は秋子お姉ちゃんのためにオーボエを吹いた。




