第8話 その夜の音は、三つ足りない
翌日、公爵が運んできた箱には、円盤より厚い書類の束が入っていた。
私は思わず、工具を持っていない方の手を引っ込めた。
「全部、読むのですか」
彼は手帳に書いた。
『私も、途中で嫌になりました』
公爵でもそうなのかと思ったら、少し気が楽になった。
書類の角には、何度も開いた折り目があった。公爵は私が紙を広げやすいよう、冷めたお茶の皿を脇へ寄せた。難しい物を持ってきた人が、少し申し訳なさそうにしている。
ノエルさんが箱から薄い冊子を選び出す。事故後の検査の控えと、当日の試験手順だという。
円盤は記録係が封じたまま、公爵家へ返された物だった。箱の外側の受取日と封の状態を、二人で依頼帳に写す。
先に預かった仕事があるため、今日は外から状態を確かめるだけ、と説明してあった。私は円盤を斜めの光へかざす。
縁に欠けが二つ。中央近くに、白く荒れた帯がある。
「この部分は、針を置けないかもしれません」
公爵は円盤に触れず、机の上で拳をほどいた。
『残っている所からで構いません』
私は、来店を頼む日を依頼帳へ書いた。
彼はそれを写したあと、もう一行足す。
『その日は、終わったあとにも時間がありますか』
仕事の続きかと思い、夕方なら、と答えた。
彼の鉛筆がそこで止まる。
書きかけの下半分を手で隠されて、私は見なかったふりをした。
*
三日後の午後、店の札を相談中へ返した。
公爵は入り口ではなく、私の斜め隣に座った。止めたい時は机へ手を伏せると、先に決めてある。
私は無傷の区間だけを確かめ、針の圧を小さくした。
「初めは人の声です。その先に高い音が残っている可能性があります」
彼はうなずいた。
回転を始めると、ざらつきの奥から、広い部屋のざわめきが出てきた。
『――試験を、始めます』
誰の声か、公爵にもすぐには分からなかった。
低い音が一つ鳴る。
そして急に、遠くで布を引き裂くような音になった。
公爵の手が机へ伏せられた。
私は針を上げる。
止まった円盤に、窓の光だけが回り続けている気がした。
「お水をお持ちしますか」
彼は首を振った。
私も黙って椅子へ戻る。
ノエルさんは扉を細く開け、店の奥へ風を通した。
しばらくして、公爵が手帳を引き寄せた。
『音の前に、何か気づきましたか』
「試験の順番が、手順書と違うように聞こえます。ただ、録音が壊れているだけかもしれません」
冊子では、通りを確かめる低い音のあと、三つの短い確認音を鳴らすことになっていた。
でも、円盤から拾えたのは、最初の低い音だけだった。
私は三つの空欄を紙へ描いた。
「ここが丸ごと失われたのか、本当に鳴らさなかったのか。今日は区別できません」
公爵が紙へ触れた。
『三つとも、聞いた覚えがありません』
その記憶も、別に書き留めた。
事故の前のことを、今ここで思い出せと言いたくなかった。
最初の音のあと、円盤の溝そのものは続いていた。ただ、上から引っかいたような傷が、何本も横切っている。
私は拡大鏡を渡した。
「傷はあります。でも、誰かが証拠を消した傷だとは、まだ言えません」
運び方でも、止まった針でも付く。
公爵は長いこと覗いていた。
やがて顔を上げ、検査の控えを私の方へ向けた。
『事故後の報告には、予定どおり確認した、とあります』
音が聞こえないことと、鳴らさなかったことは違う。
それでも、確かめるべき場所が一つできた。
私は録音の所見と報告の文章を、別の紙へ写した。
「装置を扱った方と、記録を書いた方に、尋ねる必要がありますね」
ノエルさんが静かにうなずいた。
公爵はすぐには書かなかった。
机の下で、靴の先を少しだけ引いた。
『あの夜の私は、何もしないで倒れたのではないのですね』
私は返事に迷った。
装置に欠陥があったと、今は証明できない。
でも、彼が証明してほしいのは、それだけではないのかもしれなかった。
「何が起きたか分からなくても、公爵様の苦しかったことは、なくなりません」
彼は手帳を見下ろした。
私は、早口で付け足すのをこらえた。
やがて彼は、空欄を三つ描いた紙を、自分の方へ寄せた。
『続きを、お願いします』
私は依頼帳に、次の調査内容と、追加の費用が決まるまで作業を広げないことを書いた。
公爵が署名する。
強く押した鉛筆の跡を見て、私も自分の名をその下へ書いた。
*
帰る前に、公爵が初日に隠した頁を開いた。
『仕事が終わったあと、あなたと歩きたいのです』
私はその文字を見て、署名用の鉛筆を落とした。
公爵が拾おうとして、私もかがむ。
二人の手が、床の上でぶつかった。
「申し訳ありません」
指を離したのに、触れた場所だけが熱かった。
彼はもう一度手帳を示す。今度は文字を隠さなかった。
「お返事は、次にいらした時でも、いいですか」
そう尋ねると、公爵はうなずいた。
私が返事を考える時間も、待ってくれるらしい。
店の鈴が鳴ったあと、私は拾った鉛筆を、なぜかすぐには削れなかった。




