第7話 拍手の中で、声を失いました
公爵の依頼は、丸い小箱だった。
ふたを開けると、細い金属板が二枚、貝殻のように向き合っている。
「携帯用の呼び出し器ですね」
彼はうなずいた。
私が作業布へ置くと、手帳が隣に差し出された。
『鳴る時と、鳴らない時があります』
確認しようと箱を少し傾けた途端、金属板が乾いた音を立てた。
公爵の肩が跳ねた。
ほんの一瞬だったが、見間違いではなかった。
私は手を止めた。
「試す前に、音が出ることをお伝えすればよかったです」
彼は首を振る。
鉛筆を握ったまま、しばらく机を見ていた。
『私の方の問題です』
「それでも、調べ方は変えられます。先に中を開けて、音が鳴らない状態で見ましょう」
彼は箱から手を離した。
その指先が、いつもより白かった。
呼び出し器の不具合は、留め具のずれだった。
押した力が金属板へうまく伝わっていない。
このまま調整できると説明すると、公爵はうなずいたが、帰る支度をしなかった。
私は、別のお茶を出すか尋ねた。
彼は一度ためらい、手帳を机に置いた。
『音のことで、相談してもよいですか』
「はい」
私も工具を置いた。
すぐに続きを求めず、話すのをやめたくなったら今日はここまでにしましょうと伝えた。公爵は手帳の空いた場所を見てから、首を横に振った。まだ話したいのだと分かって、私は丸椅子を机へ近づけた。
店は午後の静かな時間だった。
サラさんの店から、茶缶を棚へ戻す音がする。
『一年前の事故を、知っていますか』
私は、噂で聞いた範囲だけを伝えた。
公爵が音響装置の披露会で倒れ、以来声を失ったこと。
それ以上の詳しい話は知らない。
知らないことまで、知った顔をしたくなかった。
彼は少し肩の力を抜いた。
新しい頁へ書く。
『私は、披露会の後半の挨拶をする予定でした』
文章は、普段より短く区切られていた。
私が一つ読み終えると、彼が次を書く。
『装置の音を、大広間の端まで届かせる試験でした。私は近くに立っていました』
ノエルさんは戸口にいた。
口を挟まなかった。
彼にとっても、その夜は話しやすい記憶ではないのだろう。
『甲高い音がしました。誰かが止めろと言ったのを覚えています』
私は手帳の縁を見た。
公爵の親指が、同じ場所をゆっくり擦っている。
『そのあとは、よく分かりません。気づいた時、人が拍手していました』
「拍手を?」
彼はうなずいた。
次の文字が出るまで、長くかかった。
『試験がうまく終わったのだと、思われたそうです。私が声を出せなくなっていることは、まだ誰も知りませんでした』
私には、その広間を想像できた。
美しい装置。明るい灯り。予定どおりの進行を待つ人たち。
そばに立つ一人の異変だけが、そこから抜け落ちている。
公爵は、声が戻ると何度も言われたのだと書いた。
治療師が交代するたび、今度こそと思った。
やがて、返事を待たれる時間が短くなった。
代わりにノエルさんが答えると、話が早く済む。
『悪気ではないのです。皆、私を助けようとしていました』
私は、うなずきかけてやめた。
助けようとする気持ちと、本人が話せなくなることは、同時に起きるのかもしれない。
「お返事を待ってほしい時、私にも教えてください」
彼は顔を上げた。
「私も、先に言ってしまうことがあると思います。今みたいに、手帳を見せていただけたら」
責めたいわけでも、誰かの代わりに謝りたいわけでもなかった。
次に同じことをした時、やめられるようにしておきたかった。
公爵の手が机を離れた。
しばらくして、彼は新しい行へ書いた。
『あなたには、早く答えたくなるのです』
私は動けなくなった。
彼も、自分が書いた文字を見直した。
消そうとした鉛筆が、途中で止まる。
私は、今度は先に口を開いた。
「ゆっくりで、うれしいです」
言い方を間違えた気がした。
声がない方がよいと言いたかったわけではない。
「お話ししてくださるなら、どちらでも。待つことが嫌なのではありませんから」
公爵は顔を伏せ、やがて、小さくうなずいた。
私も茶器へ手を伸ばした。
冷めている。
二人とも、茶のことを忘れていた。
*
帰り際、公爵は本当の相談を話した。
事故のあった夜、会場の記録用の蓄音機が動いていた。
その円盤が、彼の手元にある。
『治療のためではありません。何があったのか、知りたいのです』
私はその一行を、二度読んだ。
「私は、お身体を治せません」
彼はうなずく。
「録音にも、残っていない部分はあります。音だけで、誰が何をしたか全部分かるとは限りません」
もう一度うなずいた。
『それで構いません。分からないところは、分からないまま教えてください』
母の録音を預かった時と、似た言葉だった。
私はようやく、返事ができた。
「お持ちください。何を聴くかは、ご一緒に決めましょう」
彼は依頼帳へ名前を書いた。
その下に、順番札を置く。
五番ではない。新しく来た依頼として、今の最後の番号だ。
公爵はそれを見て、少し笑った。
私は呼び出し器を包み、次に音を出す時は必ず声をかけようと心に決めた。




